第19話

 床に倒れた人間が視界に入る。カスラーンだ。甲冑が上半身だけを半端に守っている。その首は完全に切断され、床一面に赤い水溜まりが広がっていた。


 ギドウの姿に逆上しかけた頭が、それを見ると瞬時に冷えた。素早く剣を巻いて突きを入れたが防がれ、キリアスは後ろに飛びすさった。


 油断なくキリアスを見据えたまま、ギドウは床から何かを拾い上げた。攻撃に対処するため、彼は手に持っていたそれを床に投げたのだ。小さな巾着型の革袋だ。


「何だかわかるな?」


 嘲笑を含んだ声に、ギリッと歯噛みする。


「返せ。それはあんたのものじゃない」

「おまえのものでもなかろう。このとおり、所有者は死んだ」


「あんたが殺したんだろうがっ」

「人としての尊厳を守ってやったのさ。見ろ、彼はすでに何箇所も噛まれている。発症は時間の問題だ。死餓鬼化した王を家臣や民に見せるのも忍びなくてな」


 傲然と薄笑い、ギドウは袋を持った腕を水平に伸ばした。その下に、陰からのたのたと這い寄ってきたものを目にして、キリアスは生理的嫌悪感に襲われた。


 それは人間とも獣ともつかぬ異様な姿をしていた。どろりと濁った目が左右別々の方向を向いているのは死餓鬼と同じだが、それの眼球はせわしなくぐりぐりと動いている。薄汚れた服――というよりボロ布を縄で身体に巻き付け、裸足である。顔はカエルに似ていた。ただし、するどい牙がぞろりと生えたカエルだ。床にぺたりとついた手は異様に指が長く、先端には鋭い鉤爪が生えていた。


 その長い指の生えた手で、怪物はギドウが手放した革袋を恭しく受け止めた。そして尖った長い舌を突き出してぐるんと一回転させると、カエルそっくりな動作で跳躍した。


「待てっ……!」


 悪夢から醒めたように、我に返ったキリアスは慌てて化け物を追った。愚鈍そうな外見からは思いも寄らない速さで怪物は階段を飛び跳ねながら上り、城壁の上に出た。そして止める暇もなく矢狭間の向こうに向かって跳んだのである。


 慌てて身を乗り出すと、怪物は両手両足を器用に使ってヤモリのように城壁をするすると伝い降りている。月のない真っ暗な夜で、その姿はすぐに闇に紛れてしまった。やがてかすかな物音がして、地面にたどり着いた怪物はふたたび不気味な跳躍を始めたらしいことが窺えた。


「何だあれは……」


 おぞましげに呟くと、後ろからギドウが答えた。


「死餓鬼だよ。原因はわからぬが、まれにあのような変種が出る」

「元は人間だったというのか!? あれが!?」


「生前の姿は知らんがね。別段あのように怪物じみたなりはしていなかったはずだ。造ろうとして造れるわけではないが、あれはあれで違った使い道がある。普通の死餓鬼に残っているのは食欲――というより飢餓感だけで、簡単な方向づけくらいしかできない。だが、ああいう変種にはかなりの程度知能が残っている。嗅覚以外の感覚も残存率が高い。生前の人格や記憶が残っていないのは通常の死餓鬼と同じだが。むろん好物は生肉だ。生きている人間の。特にあれは若い女の肉が好きでね。幸いご褒美を待てるだけの理性はある」


 キリアスは剣を腰に引き寄せ、切っ先をぴたりとギドウの顔に向けた。


「……あんたがそんな人非人になり果てようとはな。心底見損なったよ」


「おまえが買いかぶっていたのさ。俺は元からそんな上等な人間じゃない。金を貰って戦争を請け負う傭兵さ。つまるところ人殺しで稼いでいたんだ」


「生き方を変えたと思ってた」


「残念ながらそう簡単に変えられはしないのさ。変えたつもりでいても、心に灼きついた翳が囁き続けるんだ」


 うっそりと笑い、ギドウは抜き身で下げていた剣をゆっくりと構えた。握った柄を顔の高さまで引き上げ、切っ先を天に向ける。


「礼を言うべきかな。おまえの甘さのお蔭で、前回の穴埋めができた。ヴァストの宝珠を手に入れられず、雇い主の不興を買ってしまってな。……わかるだろう? キリアス。今回の事態を招いた責任はおまえにもある。おまえは気付いていたはずだ。斥候が死餓鬼化しつつあることに。それなのに見ないふりをした。間違いだと期待して。考えすぎだと言い訳して。そうあってほしいという虚しい希望を優先させ、確かな前兆を見過ごした。その結果がこれだ。ジャリード王家は滅亡した」


「俺のせいにすれば気が楽か? こうなることを防げなかった俺が悪いのだと思えば罪悪感が薄らぐのか」


「罪悪感だと? 俺にそんなものがあると思ってるのか。救いがたい甘ちゃんだな」

「まだあるのかもしれないって、期待してた。あんたは叔母上に危害を加えなかった」


 ギドウの表情が微妙に揺れる。


「……彼女は宝珠の行方を知らないと言った」


「そう、実際知らなかったよ、叔母上は。だけどあんたは叔母の答えをそのまま信じた。召使を人質に取って脅すようなこともしなかった。叔母は優しい人だ。そんなことをされたら必ず本当のことを喋るはず。なのにあんたはそうしなかった。それどころか家探しもせず、離宮を破壊することもなく立ち去った。宝珠を奪うだけでなく、王族の抹殺も仕事の内だったんだろ。どこの国でも王族は全員殺されてる。運よく生き延びた人もいるにはいるが、叔母上と俺については故意に見逃したな?」


「彼女には子がない。年齢的に、これから生まれる可能性もまずないだろう。放っておいても大過ない。あの時おまえを見逃してやったのは、あんな状態のおまえを殺したところでつまらんと思ったからだ」


 ギドウは冷やかに薄笑った。


「すっかり頭に血が昇って、がむしゃらに突っかかってくるばかりだったではないか。あんな情けないおまえを見たのは初めてだ。殺したところで嬉しくも楽しくもない。一月経てば少しは頭も冷えただろう。何なら再戦といくか。殺してやってもいいぞ」


「それはこっちの科白だ!」


 キリアスは猛然と下方からの突きを入れた。振ってくる刃を視界の隅に捕えながら腕を上げ、鍔で受け止める。刃を滑らせて受け流し、続けざまに攻撃するとギドウは嬉しそうに笑った。


「少なくとも俺が暇乞いをした時分のレベルには戻ったな」

「……あんたが出て行ってからずいぶん後悔したよ。一度くらい勝っておくんだった」


「勝ちたかったの間違いだろう。負け続けてたくせに」

「負けても別に悔しくなかった。むしろ勝ったあんたが怒ってたっけ。本気出せって」


 距離を取り、剣を構え直す。キリアスは暗い目で元師匠を見た。


「俺は充分本気を出してたつもりだから、あんたの言うことがよくわからなかった。今になってやっとわかったよ。あんたの言う『本気』は、『殺す気でかかって来い』ってことだったんだな」


 ギドウの目が憤怒に燃えた。


「この甘ったれた小僧め。いくら優れた技量を持っていたところで、一瞬でも戦場で躊躇ったら死ぬ。それくらいの見当もつかないうつけのくせに、無駄に才能だけは豊かで苛々させられたわ!」


「――わかるよ、今はね。俺にとって、あんたとの剣の稽古はただただ楽しかった。苦しいと思ったことも悩んだこともない」


「だろうな。おまえは教えることを片端から覚えた。まるで乾いた砂が水を吸収するようにな。筋がいいと素直に喜べたのは最初だけだ。筋がいいにもほどがある。異常だ。まるで何もかも最初から知っていて、ただ一時的に忘れてるだけみたいで……。時々おまえが化け物みたいに思えてぞっとしたよ」


「そうかもな。何かひとつ教わると、前からずっと知ってたような気がしたから。俺は、皆そうだと思ってたんだ。何かを学ぶということは、思い出していくことなんだと思ってた。普通はそうじゃないみたいだって気付いても、なかなか理解できなかった」


「自覚のない天才ほど、手に負えんものはないな……!」


 ギドウは憎悪をにじませた口調で唸り、遠心力を載せて剣を叩きつけた。刃音が連続して鳴り響く。互いに譲らず剣を合わせながら、ギドウは声を軋ませた。


「……どれだけおまえを憎んだと思う。人が死と隣り合わせの生活で獲得し、磨いてきた技を、一瞬でものにされる。その虚しさがおまえには理解できまい」


「ああ、生憎な!」


 キリアスは素早く剣を回転させ、相手の防御をかいくぐって猛攻をかけた。互いの剣筋の先まで予測できる。考えるのではなく、反射的に浮かんだそれが瞬時に身体に伝わった。何も考えず、何も感じない。感覚だけが研ぎ澄まされ、最小の動き、最短の距離で最大のダメージを与える剣筋だけを見極めている。


 ギドウが笑いだした。無邪気に、爽快そうに笑いながら剣を振るい続ける。距離を取り、彼は叫んだ。


「いいぞ! 思ったとおりだ。余計なことさえ考えなければおまえは無敵なんだ。キリアス、おまえが王家に生まれたのが残念でならないよ。何不自由なく育ち、優しい人たちに囲まれていたせいで、生まれ持った天性の刃は鋭さを失ってしまった。愛など知らずに育てばよかったのに。剣だけを頼りに冷たい世界で生きてきたら、おまえはどれほど強くなったことだろう!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る