シネンニイチド

山樫 梢

シネンニイチド

<母さんに会えた>


 初めてそのメッセージが送られてきた時は、皮肉だろうと思った。友達との約束を優先して、母さんの死に目に会いに行けなかった僕を、遠回しに非難しているんだって。

 四年前の二月二十九日、その連絡を最後に親父は行方を眩ませた。


 スマホのGPSを頼りに親父が最後に訪れた場所を訪ねると、そこは雑木林だった。首吊り姿でも目にするんじゃないかと冷や冷やしながら探し回ったが、どこにも親父の痕跡を見つけ出すことはできなかった。


 親父が残していったもので手掛かりになりそうなものといえば、眉唾な与太話が書き込まれた手帳だけだった。

<四年に一度。うるう年のうるう日だけ、死者に再会できる泉がある>

 記されていたその場所は、親父が消息を絶った雑木林だった。何度も細かく書き足された様子から、随分と熱心に調べていたのだろうと窺える。あの男は、こんな馬鹿げたことを信じていたのか?

 そんなこと、あるはずがない。


 あれから四年。

 否定しているのに、僕もここまで来てしまった。

 死者との再会なんて信じちゃいないけど、親父がここに来る可能性ならある。なんせ、機会は四年に一度だけだというんだから。

 そう思って朝から張り込んでいたのに、今のところ無駄足に終わりそうだ。一時間もすれば日付が変わってしまう。

 結局、親父は来ないんだろうか……。

 例の泉が開けた場所にあったおかげで月明かりに助けられてはいるけれど、周囲はすっかり暗くなっている。親父の姿を見落としたなんてことになってなきゃいいけど。


 懐中電灯の明かりを巡らせると――人影が、見えた。泉の中に誰かが立っている。

 その背中に、覚えがある。


「母さん!?」


 叫ぶと、影が、母さんが振り返った。

 間違いない! 母さんだ!!


 駆け寄って、抱きしめようとした。

 ――触れられない!?

 そこに居るのが見えるのに、触れることができない。

 死者に再会できる泉。会うことはできても、触ることはできないのか?

 それでも……。


「母さん! 僕、ずっと後悔してたんだ! あの時、母さんが死んだ日、会いに行けなくてごめん!!」


 ごめん。本当にごめん。だって、まだ大丈夫だって……あんなにあっけなく唐突に、別れが来るなんて……病気で日に日に弱っていく姿を見ても、死ぬだなんて実感が湧かなかった。

 余命を二か月も超えた母さんを見て、医者なんて当てにならないなって思ってたんだ。油断してしまったんだ。


 母さんは気にするなとでもいうように微笑んで、首を振った。

 そして、口を開いて――。


 唇が動いている。母さんが何か言っている。僕に何かを伝えようとしている。それなのに、それなのに……。

 何も、聞こえなかった。


「待って、待ってくれ母さん……っ」

 語りかけられてるのは間違いないのに、声が全く聞こえない。何で!? どうしてなんだ!?


 ふいに、母さんの肩に手が置かれた。どこからともなく現れたもう一人の姿。

 ……親父だ。

 そこに居たのか。会えたんだな、あんたは。

 ……会いに、行ったんだな。

 ふいに、胸を刺す痛みに見舞われる。母さんも親父も、もうこの世の人間じゃない。僕だけがこちらに残されていた。


 母さんは僕に声が届いていないことに気付いていないのか、まだ何か語り掛け続けている。でも聞こえないんだ。何も。読唇術の心得なんてない僕には、さっぱり読み取れやしない。

 親父は口を開かない。仕方がないんだとでも言いたげな顔で僕の方を見ていた。あんたの気持ちだけ理解できるなんて……。


 聞きたい。知りたい。どうして聞こえないんだ? どうしたら聞こえるようになるんだ?

 ああ、そうだ。僕も向こう側に行きさえすれば……。


「駄目」


 突然、強く腕を掴まれた。

 ぎょっとして手の主を見ると、いつの間に近寄られていたのか、すぐ傍に細身の少女が立っていた。高校生か――せいぜい大学生ぐらいだろう。僕とそう変わらない年頃に見える。触れてきたってことは、この子は幽霊じゃないんだろう。

「あの、君は……」

「そっちへ行っちゃ、駄目」

「離せよ、僕は」

「ここ、泉なんて呼ばれてるけど、本当は沼なの。底なし沼。急に深くなってる所があって、本当に危ないんだよ。深みにはまったら自力じゃ戻って来られなくなる」

「え……」

 懐中電灯の明かりで探ってみても、静まった水面は鏡のようで、深さの違いなんて分かりやしない。

「地元の人はここのこと、不帰沼って呼んでる」

 少女は一拍おいて、僕の両親をちらりと見やってから、続ける。

「帰らぬ人に会いに行った人が、帰らぬ人になる場所だから」


 冷や水を浴びせられたような気分になった。

 そうだ。僕は、今、何を考えた……?


 ――知らないねぇ。

 ――そんなものはない。とっとと帰りな。

 ――悪いことは言わないから、止めたほうがいいよ。


 ここへ来るまでの間、泉のことを尋ねる度に、口を濁していた人々の姿が思い浮かんだ。

 何かを見定めるかのように向けられた、不躾な視線の数々。

 ああ、そうか。あの人達は、僕がここで帰らぬ人になることを危惧していたのか。

 今思えば、彼らはまさに、死地に向かう人を見るかのような面持ちをしていた。


 僕の腕を掴んだまま、少女が歩き出す。水際の方へと。

 迷子の子どもになったような心地で、引かれるままに彼女に従う。


 まだ岸に辿り着かないうちに、誰かが駆け寄ってきた。小学校低学年ぐらいの男の子だ。見覚えはない。

 子どもはちらっと僕を見た後、少女の服の裾をつまむと、ぱっと顔を上げた。嬉しそうな笑顔が輝く。

 少女が足を止めた。気になって顔色を窺うと、口元が硬く強張っている。こうして見比べてみると、ふたりの顔立ちはどことなく似ているような……。

 子どもはせわしなく口を動かしていた。何かを話しかけているようだが、やはり声は聞こえない。

 足を止めたのはほんの少しだけで、これだけ親しげな態度を見せている子どものことを見向きもせずに、少女は再び歩き始めた。

 子どもの指は裾をつまむ形のままになっていたが、やはり触れることはできないのだろう。何の抵抗もなく離れた。笑顔は消えて、目には戸惑いが浮かんでいる。

 距離が空くと、子どもは再び駆け寄ってきた。少女に訴えかけるように、ぱくぱくと必死で口を動かしている。

 まとわりつく子どもに対し、少女は振りほどくような、跳ね飛ばすような動作で応じた。腕は子どもの体をすり抜ける。それでも、拒絶されたことは理解したのか、子どもは泣きそうに顔を歪めて呆然としていた。

「おい!」

 思わず声を上げたが、少女はやはり振り返らない。相変わらずきつく僕の腕を掴んで、引っ張っていく。泉からあがって振り返ると、両親も男の子も姿が見えなくなっていた。

「おい、いいかげんに……!」

 振り解こうとして初めて、少女の手が震えていることに気付いた。僕を繋ぐその手が、彼女自身を繋ぎ止めようとしているように思えて、何も言えなくなる。向こうも何も言わなかった。何も言わないまま、僕を雑木林の出口へと連れ出していく。

 子どもの顔は見ようともしなかったくせに、道中、少女は何度も腕時計に目をやっていた。


 雑木林から出ると、僕を置き去りにして少女は去って行った。結局、あれから言葉を交わすことはなかった。

 腕を照らしてみると、掴まれた手の跡が残っている。随分力を込められていたんだな……。これだけ見ると、ホラー映画の登場人物になったかのような気分だ。掴んできたのは死者じゃなかったけど。

 両親は僕を引き留めようとしなかった。泉を立ち去る時、堪え切れず振り返った僕に、二人は手を振っていた。満足そうな顔しやがって。こういうのってさ、振り返っちゃいけないんじゃないのかよ。追いかけてきたりするもんなんじゃないの? ちょっとはさっきの男の子を見習えよ……なんて。本当に馬鹿な考えだ。


 もう、帰らないと。


 水を含んだ靴は足枷のように重い。ぐちゃりとしたその感触は、僕の心境を具現化したかのようだ。

 そういえば、泉の傍にはちらほら靴が置かれていたな。帰らずの沼。今なら分かる。会いたい人に会いに行ったのに、聞きたい言葉を聞けないもどかしさ。きっとみんな、自分から……。

 ふと気になった。あれ、彼女が去って行った方向って……。

 少女の姿を視線で追う。足元を見ると、靴を履いていない。裸足だ。どうして気が付かなかったんだろう。

 僕と別れた直後はのろのろとしていた足取りが、次第に早足になって、もうほとんど走り出していた。それを認識した瞬間、反射的に僕も駆け出した。


 追いかけて、追いかけて、追いついて――今度は僕が、その腕を掴む。


 彼女は泣き出しそうな顔で僕を見たが、振り解こうとはしなかった。歯の根も合わない様子で震えているのは、走ったせいでも寒さのせいでもないだろう。弱々しく動かした口から漏れたのは、言葉にならないうわ言だ。

 それでも、言いたいことは伝わる。僕達はきっと、同じ気持ちだった。


 しばらく経ってから、スマホで時間を確認する。少女も腕時計を見た。

 日付が変わっている。

 途端に、少女がわっと泣き崩れた。僕の目にも涙がにじむ。堪えようとしたがせきあげてしまった。人前で泣くのなんて、いつ以来だろう? 彼女は僕のことなんて見ちゃいないようだけど。


 ゆっくりと手を離す。もう止める必要はない。四年に一度の機会は終わってしまった。少なくとも、今回は。

 彼女の腕にも、僕の手形がくっきりと残っているのが見えた。僕たちがお互いを繋ぎ止めた楔。呪いのようなその跡は、鈍く残るその痛みは、まぎれもなく――生きている証だった。

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