第126話 情熱(1)

「前にウチの大学の合宿にね、彼と絵梨沙を呼んだとき。 もうめちゃくちゃで、」



真理子は思い出して笑った。



「めちゃくちゃ?」


志藤は彼女を見た。



「とにかく。 初見のレッスンなんかひどいもんで。 びっくりしたわよ。」



「初見・・」



「彼、じっくり時間をかけて仕上げていくタイプみたいなの。 でも、すごいって思ったのは、ピアノソナタなんかは2回くらい通せば全楽曲暗譜できるの。」



「2回で? 暗譜?」


みんな驚いた。



「ま、暗譜できるってだけで。 ひどいもんなんだけど。 彼はね、古典がすっごく苦手なの。 モーツアルトとかバッハとか。 だけど、得意なのはベートーヴェンとかショパンのノクターン系のもの。 リストは超絶技巧みたいなのは全然ダメ。 ラヴェルも・・得意な方かしら。 ショパンはね、エチュードみたいなのはダメなのよね、」



真理子は冷静に真尋を分析した。



「つまりね。 まだまだ荒削りで得て不得手がはっきりしているの。 あのラフマのコンチェルトも仕上げるの大変だったみたい。 絵梨沙が言うには、もう半分おかしくなってたってくらいで。」




志藤は


簡単に真尋に決めてしまったことを


一瞬だけ後悔したが。



「わかりました。 ぼくが責任を持って何とかします。 彼はジュニアの結婚式の翌日にはもうウイーンへ戻りますけど。 ニューイヤーのバケーションにはまたこっちに来てもらってチェックします。」



「大変だけど。 彼がツボにはまったら・・すっごいコトにはなると思う。 私も協力します。」


真理子は笑った。




「白川さん。 フェルナンド先生から頂いたファックスをコピーしてください。」


志藤は打ち合わせから戻るなりゆうこに言った。



「あ・・ハイ。」


慌ててそれを取り出しコピーをとって彼に手渡す。



それをジッと見た後、


「ピアノのレッスンスタジオを借りるから。 ネットで調べて、会社の近所でいくつかピックアップをしておいて。」


と、ゆうこに言った。



「は、はい・・」


あまりに彼の真剣な表情に気おされた。





幸い、フェルナンドのスケジュールは東京近郊でそんなにタイトなものではなかった。


志藤は綿密な真尋のスケジュール表を作り、再び彼に会いに行った。




「て・・何時だと思ってんだよ・・。」



真尋は迷惑そうに時計を見た。



朝の7時半だった。




「今日は3時まできみはフリーだから。 早速、楽曲の練習に入ってもらおうと思って。」


志藤はニヤっと笑った。



「はあ??」



「ショパンのピアノコンチェルト。 きみはショパンが得意だろう?」



「え・・って。 どこで? ウチで?」



「会社の近所にピアノスタジオを取ってある。 そこで、缶詰だ。」



志藤は笑っていたが、もう嫌とは言わせない雰囲気でそう言った。




真太郎はヒヤヒヤした。


とにかく縛られるのが大嫌いな真尋が


素直に言うことを聞くとは思えなかった。



志藤と一緒に真尋のレッスンスタジオについてきたが。




「とりあえず、必要そうなものは揃えたから。 カウチソファもあるから、仮眠も取れる。 食べるものも電子レンジやポットを用意したから、大抵のものは大丈夫だと思う。」


志藤はピアノの前に座らされた真尋に言った。



「で。 一番得意な曲はなに?」



「一番得意? ええっと・・なんだろ。」



「ベートーヴェン?」



その問いには答えずに


真尋はいきなりピアノを引き出した。



ffで


鍵盤を叩く。



その音に真太郎はビクっとした。



は・・・




志藤は腰が抜けそうだった。




それは、真理子が真尋が不得意だと言っていた


リストの『鬼火』だった。




しかも!


こんなに強く。




そして



びっくりするくらい


ヘタクソだった・・。



真尋は志藤を見てニヤっと笑った。



「あせった?」



彼が自分をからかったことがわかり、志藤はため息をついて



「・・噂どおりの。 ヘタクソだな。」



と吐き捨てるように言った。



「あ?」



「きみは。 どんな経緯を踏んだかわからないけど。 れっきとしたホクトエンターテイメントと契約をしたプロだろ? プロのクセに依頼した仕事が気に入らないのかわからないけど、ふてくされたような態度で。 どういうつもりなんだ!」



志藤のあまりの怒りように真太郎も驚いた。



真尋はあんぐりと口が開いたままになってしまった。


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