3話目 カエンラグジュとカラシェンカ

「……どうかしたの?」


 足どりが重くなっていたらしい。ミシュガ夫人は不意に振り返った。すみません、とアーランは慌てて応えた。

 長い廊下をしばらく進むと、一つの部屋の前で彼女は立ち止まり、ノックをした。

 はい、と高低二つの声が耳に飛び込んできた。

 広い部屋だった。真ん中のテーブルで、二人の少女が思い思いの恰好で読書にいそしんでいた。

 一人は黒い、硬そうな表紙の大きな本を手にし、もう片方は「紅華日報」と書かれた新聞を広げていた。

 ミシュガ夫人はこほん、と軽く咳払いをすると、アーランをやや前へ押し出す。


「カエンラグジュ、カラシェンカ!」


 はい、と慌てて立ち上がる二人の、高さの違う声がユニゾンになる。


「勉強熱心で何よりです。しかしもう少しお行儀よくできませんか?」

「すみません、ミシュガ夫人。つい記事に夢中になってしまって」

「……以後注意して下さいな、カラシェンカ。こちらはコゼルカ・アーラン・オゼルンです。しばらく貴女方と一緒に生活してもらいます」


 うんうん、とうなづきながらテーブルについた二人はミシュガ夫人の話を聞く。アーランはその間二人を観察していた。


「アーランは判らないことがあったらなるべくこの二人に聞いてちょうだい。それでも駄目な時、舎監室の私のところへいらっしゃい」


 よろしく、と二人はもう一度声を揃えて言った。


「ではよろしく頼みますよ」


 ミシュガ夫人はそう言って、あっさりと引き下がった。そしてアーランはそこに取り残された。

 入った瞬間も思ったが、本当に大きな部屋だ、と改めて実感した。少なくとも今までの彼女の暮らしの中では存在しないものだった。

 広さだけなら、同じくらいの部屋はあった。だが、人口密度があまりにも違う。施設では、同じ広さには二十人がベッドを並べていた。

 学都の第八女子中等学校の時はまだ良かったが、それでもこんなに広くはなかった。

 その二十人が眠れる部屋の定員は三人らしい。ベッドや机の数で判る。三つしかない。……そして共同ではない。

 据え付けの勉強机、クローゼット、洗面台、大きな鏡。

 壁が入り口以外には三面あるから、という感じに取り付けられ、その真ん中がぽっかりと空いている。そこに大きなテーブルが置かれていた。

 この先一ヶ月間の同居人二人は、どっしりしたそのテーブルについて読書にいそしんでいた。

 二人とも歳はアーランと同じ程だろう。多く見積もっても十八か十九。それ以上には見えない。

 一人はやや明るい栗色の髪を片方に流し、緩い縄編みにしている。ミシュガ夫人に答えていた方だった。美人と言う程ではないが、可愛らしい。

 学長と同じような流行の型の服を着ていたが、色は紺だった。派手ではないが、印象的な顔立ちに、その色はよく似合っている。そして下のスカートは対象的に明るいクリーム色だった。ひだはないが、ふんわりたっぷりとしている。

 もう片方は、茶の髪の彼女に比べてずいぶん大きかった。

 黒い、やや重そうなくらいな髪は前髪の分だけ前に回され、着ている第一中等学校特有の、大きな白い襟くらいの所で太い飾り紐でくくられている。量の多い髪の残りは全て後ろに回され、無造作に流されている。

 胸に三角、背に四角い襟は、タイとカフス以外他の部分が全て黒のせいか、ひどく目立つ。

 その大柄な方が立ち上がった。

 確かに大きい。自分と頭一つくらい違うんじゃないか、とアーランは思う。

 同じ歳の男の子と並んだ時の感覚と似ていた。学都でしばしば見かけたるその制服が妙に似合って、迫力があった。


「それだけ?」


 低い声で、荷物を指して彼女は言った。

 ええ、とアーランが答えると、今度はもう一人の声が飛んだ。高くも低くもない。明るい声だ。


「こっちこっち、荷物はこっちのクローゼットに入れるの」

「あ、はい」


 入れる程の荷物はない。本当に無い。

 アーランの持っている服は、今着ているもの、そして同じ型のものが二着。

 内着や下着の換えもその程度。それも決して新品なんかじゃない。灰色のこの上着はアーランで三人目だと寮母は言った。

 少ない衣類は、こまめにこまめにこまめに洗濯を繰り返して毎日取り替えていた。中には洗濯が嫌いで何日も同じ服を着ている者もいたけれど、アーランはどちらかというと清潔好きだった。

 残りは洗面用具に筆記用具。

 ミシュガ夫人は「足りない物があるなら言え」と言った。だが一体何が必要で、何が足りないのか、いまいちアーランには想像がつかない。足りない、と考えたことはなかったのだから。

 ロッカーにカバンを入れ、クローゼットに上着をかけると、カラシェンカと呼ばれた茶の髪の少女は鍵を棚から出してアーランに手渡した。クローゼットのものだという。


「これでよし、と。ところでアーラン、お茶でもいかが?」


 カラシェンカはアーランがロッカーの鍵を掛け終わるが同時に問いかけた。すでにその手にはティーポットと茶缶らしきものが握られていた。

 黒髪のカエンラグジュの方は、何ごともなかったように、またテーブルにつき、読んでいた本の続きに目を通している。


「あ、はい…… あ、それよりも、聞きたいことが」

「はい? あ、そーね、でもその前に自己紹介をしなくては。だからお茶にしましょお茶に」


 ほらほら席について、とにこやかに、かつきっぱりとカラシェンカは宣言する。一度茶の道具を置き、空いていた椅子をアーランに勧めた。

 あまりの機嫌の良さに、これは何か一種のいじめではなかろうか、と一瞬アーランが思ってしまう程だった。

 だがすぐに、それが違うことに気付いた。どうやらカラシェンカは単純にお茶会好きらしい。

 うきうきと、実にうきうきと、草原近い辺境の、華西地方特産の固められた茶をナイフで削っている。

 そして氷式の備え付けの低温庫からミルクを出すと、やはり隅にある、お茶程度にしか使えないようなアルコールランプのついた小さな台所で沸かし始めた。


「カエンも本にばかりしがみついてないで、お茶にしましょうよ」

「ん」


 ぱたん、とカエンラグジュは本を閉じた。薄いが大きな本だった。

 黒い、硬い装丁に、「基礎医学」の文字が白く流暢に打たれている。一瞬アーランがのぞき見た中には、無闇に細かい文字と、大きいが意味の判らない単語と、細い線で細かく描かれた人体解剖図が描かれていた。


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