勿忘草
千代田 白緋
誕生日先取り
「「誕生日、おめでとう!乾杯!」」
俺と母と今日の主役である姉は近所の居酒屋に来ていた。先に来ていた飲み物片手に、母と俺が乾杯の音頭をとる。二つのタンブラーと一つジョッキが軽快な音をたてて、ぶつかる。
母と姉がタンブラーでお酒、俺がジョッキで烏龍茶をグイッと飲む。
「カー、ウマい。やっぱり、仕事終わりの飲み会は格別やな」
俺が口に残った香りを楽しみながら言う。
「全く、あんたは仕事じゃなくて、学校やろ?仕事で疲れて飲み会を開けてるのは私たち、女二人だけだやもんなー」
姉が母にもう一度、タンブラーをぶつけながら言う。
「まあ、いいじゃないの。この子はこの子なりに進学校に通ってる分、ストレスも溜まっているやろ。それにこの子は烏龍茶でも酔える子なんだから、ここには酒飲みしかいないやん」
「それも、そうやね」
「でも、ごめんね。誕生日当日に飲み会開けなくて」
母がお通しをくちに運びながら言う。
「母、ここは確かに居酒屋だけど、名目上は「飲み会」じゃなくて「誕生日会」やろ」
俺はすかさずツッコんだ。
「そうだった、ごめーん。あははー」
母が頭を抱えて笑った。こういう所、本当に母は精神的に若いなと思う。それに対して俺は……。
「全く、ここには酒にしか目の無い女しかいないのかよ」
「あんた、私と母の事、女って言ったわね。そんな生意気な口いつから言えるようになったのかしら」
姉が俺の頭をわしゃわしゃする。姉は俺の事をガキ扱いする。嫌って言ったら嘘になるかな。この関係が楽しかったりする。姉は俺の頭から手を離すと席に座り直して
「日程の事は仕方が無いよ。私と母、まああんたの事はさておき、仕事の休みを合わせるなんて簡単じゃないんだから。お互いに接客業をしてるからね」
とタンブラーに口をつけながらに言う。
「そうね。周りが休みの時に忙しくなるのが接客業とは言ったものね」
母はそれに答えるように皮肉を口にする。
その辺りで、ご飯の注文をした。前菜からガッツリ系の主食まで。
「あんた、すぐに部屋行っちゃうし、母も私も帰ってくるのが遅いから、こうやって家族三人でご飯食べるのも久しぶりだよね」
姉がしみじみと言った。
「家族三人、それぞれの誕生日の日ぐらい一緒に食べたいじゃない。でも折角、閏年でお姉ちゃんの誕生日が三年ぶりに祝えるのに残念」
「確かにそうだね、母。そうだ、姉貴にプレゼントがあるんだよ」
俺は姉の顔を見て言った。
「えっマジで、嬉しい」
俺は机の下に隠していたプレゼントを持ち上げる。彼女の誕生日の一か月前から吟味して選んだ品だ。喜んでくれるといいな。
姉が袋から青い包装紙に包まれた箱を取り出す。
「開けてもいい?」
「もちろん」
包装紙を剥がしていくと中身が見えてくる。
「何!この桐の箱、高級感ある」
姉が俺の肩を肘でつつく。
「茶化すなって、早く開けろよ」
「分かったよ。うわ!綺麗!切子だ!」
プレゼントしたのは姉によく似合う、というか性格のイメージカラーの青色の切子グラス。繊細な模様、水の様に澄み、それでいて水の中を泳ぐ魚を思わせる模様。このグラスには口には出せない俺からのメッセージがあった。
「姉貴よ、頼むから純粋なまま、あなたのままで、社会という波に乗りながらも自分の泳ぎ方を見つけてくれ」
姉は純粋だった。社会人一年目にして、お客さんの心を掴み、店内での営業成績はとても良かった。自分の仕事にまっすぐ。それにつけ込む輩がいるのは分かりきっている事だった。残業を任せたり、新人ではしない様な仕事までやらされたりする。それでも姉は真面目に取り組んだ。救いであったのは、小中高といなかった仲間、友達が出来た事だった。仕事の愚痴を言ったり、趣味の話をしたり、時には某テーマパークに出かけたり。俺はそれを聞いて微笑ましかった。ようやく、姉に理解者が現れたんだ、良かったと。
姉は重度の精神病者だった。昔のいじめや親の離婚、思春期の苦しみ、心的外傷などが原因。薬も飲んでいる。リストカットもしていた。姉の手にはいつも包帯が巻かれていし、足には大きな切り傷がある。自殺未遂だって……。薬の副作用で錯乱状態になり、血みどろにリストカットをして、俺がそれを発見、介抱する事もあった。その時は決まって、姉の部屋のドアの下から光が漏れている。でも、社会人になってから、友達が出来てからはほとんどしなくなった。だから、俺たち家族は安心している。
こんな事があったから、俺は社会人二年目の姉にこのプレゼントをした。しかし、そのグラスに姉の唇が触れることはなかった。
姉にとって明日の閏日がある意味大事な日だった事を俺たちは知らなかった。
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