第33話

(これは夢か?) 


 目の前には父慎一郎、弟慎之介。さらに、今や江戸幕府で絶大な権勢を誇る老中間部忠義を始め、錚々たる顔ぶれの男達が厳粛な面持ちで一堂に座し、海の横には、純白の着物に身を包ん忠義の愛娘華子が慎ましやかに座っている。


「では海様、華子様、三々九度の盃を」


 仲人の言葉に、まるで他人事の芝居でも見ているような心地だった海は、まじまじと華子の横顔を見つめた。盃の酒で唇を濡らし、長い睫毛に縁取られた大きな瞳を伏せた華子の顔は目を瞠るほど美しく、よくできた人形のようだ。だが、海の視線に気がつき、自分を見つめ返すその目には、決して作り物ではない強い意志が宿っていた。


『海様!』


 あの時もそう。結局自分はこの眼差しに、抗うことができなかったのだ。




 武学館の次期当主を決める試合の日、海の運命は、自身が描いていたものとは真逆の方向へ動きだした。今思えば、最初の何試合かは、相手の気の緩みが海にとって功を奏したと言わざるおえない。武学館の高弟達は、海が密かに一人稽古していたことを知らず、高を括って試合に臨んだのだ。


 おかげで海は、まるで水を得た魚なように順当に勝ち進み、海を侮蔑していた弟子達の空気は、海への羨望と嫉妬の入り混じったものに変わっていた。そして、そんな高弟達の海に対する敵意が爆発したのは、同じく順当に勝ち進んできた慎之介と海の最終試合だった。


「慎之介様があんな男に負けるわけがない!」

「慎之介様!」


 その場にいる全ての者が慎之介の勝利を望んでいる。海の敗北を心底願う男達の念がヒシヒシと伝わってくる。


(俺も、今の慎之介に勝てる気はしない…)


 だが、絶対的に不利な状況であるにもかかわらず、海の魂は、血肉湧き踊るような歓喜に震えていた。本当に強い者と対峙した時にしか味わうことのできない、不安な心と相反する感覚。


「はじめ!」


 会場の空気を切り裂くような父の鋭い声と共に、慎之介と海の試合が始まる。久しぶりに顔を合わせた腹違いの弟、慎之介の顔には、常にたたえている温厚な表情はなく、海を見据える眼差しは、今度こそ海に勝つのだという気迫に燃えていた。


 互いの隙を伺いあい、気づけば、あんなにも大きく聞こえていた自分への野次も慎之介への声援も聴こえなくなる。全身を研ぎ澄まし、慎之介の動きのみに集中し見入っていた次の瞬間、慎之介の竹刀が、目にも見えない速さで海に襲いかかってきた。 

 海はすんでのところで避けたが、そこで体勢が崩れた海に、畳み掛けるような慎之介の激しい攻撃が連続し、海は防御に徹することしかできなくなる。同時に、先程まで聞こえなかった男達の声が、自分を纏っていた膜を破るように耳の中に轟きだす。


「慎之介様!」

「やった!行け!」


 慎之介の勝利を確信し、歓声をあげる男達。だがその時


「海様!」


 男達の熱気に包まれた会場に、一際済んだ美しい声が響き渡り、怒涛のように攻め込んでいた慎之介に僅かな隙がうまれる。その一瞬を、海は逃さなかった。劣勢だった海の一打が、慎之介の胴体を強く打ち付けた。


「一本!」


  海の勝利を告げる父の声を聴きながら、海は整わない呼吸を繰り返し、声の主を振り返る。 

 海の名を叫んだのは、間部忠義の娘、華子だった。この見るからに慎ましく美しい、大和撫子にしか見えない女が、男達の怒声が飛び交うなか、大声で海の名を叫んだのだ。


 慎之介は、しばらく荒い息をしたまま項垂れ顔を上げなかったが、やがて両膝をつき深く頭を下げると、兄上、参りましたと潔く負けを認めた。重くるしい空気の中、当主である慎一郎が口を開く。


「宣言通り、武学館の次期当主は斎藤海とするが、慎之介、異論はないか?」

「…はい」

「待ってください!」


 慎一郎と慎之介のやり取りに、高弟の一人、将軍家の御側衆名門石井家の長男であり、慎之介の親友でもある知之が、我慢ならないというように声をあげた。


「おそれながら、この試合だけで武学館の当主を決めてしまうのは私には納得できません!彼の噂は色々聞いておりますが、とても当主としての資質を持っているとは思えない」


 知之の言葉に呼応するように、弟子たちも一斉に異議を唱えはじめ、慎一郎と慎之介は、弟子達の不満の声に苦しげな表情を浮かべる。


「安心しろよ、俺はこの道場の当主になる気なんて全くない、ただ、久しぶりに強い奴と闘ってみたかっただけだ」


 そんな二人に助け舟を出すように、海ははっきりと自分の意思を告げた。今日慎之介に勝てたのは運でしかないことを、海自身誰よりも感じている。もしあの時、華子が海の名を叫び慎之介に隙がうまれていなかったら、自分は間違いなくあのまま負けていただろう。


 強いものと剣を交えたいという欲望に導かれるように、この場へ来てしまったが、それがかえって慎之介に迷惑をかける形になってしまったことに、海は少しの申し訳なさを覚える。心持ち頭をさげ、静まり返る男たちに背を向けた海は、そのまま道場から出て行こうと歩き出した。


「海様!」


 だが、海の行くてを遮るように華子が目の前に飛び出し、試合の時と同じ、よく通る澄んだ声でもう一度海の名を呼び言った。


「父上から、今日の試合で勝ち残ったものがこの道場を継ぎ、私は、その次期当主の元へ嫁ぐのだと聞いております。どうかお逃げにならないでください」


 あの時、なぜ自分は、次期当主になる気など全くないと華子を振り切ることができなかったのか。 

 いや、正直に言ってしまえば、華子の匂い立つような美しさに、男としての本能が疼いたのは確かだ。今まで抱いてきた女たちとは明らかに違う、蝶よ花よと育てられたであろう誇り高く美しい姫君。しかしそれ以上に海が惹きつけられたのは、自分と生まれも育ちも違うはずのこの女に、どこか自分と似た空気を感じとったからなのかもしれない。


 どちらにしろ、現将軍の深い信頼を受け、最高権力者の地位を確立している老中間部忠義の娘、華子の言葉に、高弟たちがおとなしくなってしまったのは言うまでもない。

 慎一郎は、その流れに力を得るように、次期当主は海であることを皆の前で宣言し、慎之介は頭を下げ、自分は兄の海をしっかりと支えていくので、これからも一緒に道場を盛り立てていってほしいと弟子達に切に訴えた。


 後から聞いたことだが、海との試合に臨む前、慎之介は父に、意思の確認をされていたのだという。


『今度こそ海に勝つ自信はあるか?』

『わかりません、ただ僕は、今までの力を出し切って、全力で戦うだけです』

『もし万が一おまえが負けたら…』

『その時は、全力で兄を支えます』  


 海は知らなかった。自分が、慎之介の母親に殺されかけたあの日、慎一郎が慎之介に土下座して、海と血の繋がった兄弟として支えあってほしいと頼み込んでいたことを。誰よりも憎んでいたはずの父親が、自分を気にかけ、愛してくれていたことを…


『僕はずっと、兄上のことが羨ましかったんだよ』


 身勝手に生きてきた自分を許し受け入れてくれた慎之介と、そんな自分を不器用ながら愛して続けてくれた父の思いを知り、海は、この家を出ていく理由を失ったのだ。


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