第26話

 亡八とは、人間が持つといわれる八つの美徳 仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌、すべてを失った者。人間の皮を被った獣。


 腰を打ち付けるたびに揺れる、弛んだ醜い腹と、張りのない萎れた乳房から逃れるように目をつぶり、男は生理的な刺激だけをたよりに快楽を自ら煽り続ける。いけなければ自分は終わりだ。目の前の女に、男の人生は握られている。


 昔はそれなりに綺麗だったであろう面影は消え、老いに逆らうように男を貪欲に求める姿は健気なようでいて醜悪だ。だが、それでもこの女を抱くしかないのだ。生きていくために…






「お凛、あんたなんでまた絵を習いたいなんて余計なこと言い出したんだい?」

「余計なことじゃないよ、蔦屋様も面白いじゃないかって言ってたし」

「そんなの場の雰囲気に合わせて言っただけに決まってるだろう?まあ、あの人は無名だった光楽を破格の扱いで売り出して江戸の寵児にまでした男だから、ちょっと変わってるのは確かだが、女はおとなしくて品がある紫のような花魁が好きなんだよ。どちらかとゆうと胡蝶に似てるあんたが気に入られるのは難しいかもしれないね」

「私、胡蝶姉さんに似てる?」

「何嬉しそうに言ってんだい!まったくあんたは…」


 相変わらずきつい言葉で言い合いながらも、胡蝶のことがあってから、佐知とお凛の間に、明らかに今までとは違う気やすさがうまれていた。 

 だが佐知は、自戒をこめて自分に言い聞かせる。これ以上お凛に踏み込むわけにはいかない。情は人を弱くし、自分の立場を危うくする。


 現に佐知は、胡蝶がいなくなった日、なぜあの夜のうちに自分に伝えなかったのかとお吉に激しく責めたてられた。源一郎が、高野屋のご隠居様の手前、事を荒立てたくないからまだ言うなと強引に頼んだのだと言って庇ってくれなかったら、佐知は今頃、ここにいることはできなかっただろう。


 『今回は源一郎に免じて許してやる、だけど、次は絶対にないってことを肝に命じときな』


 お吉の目を見た時、佐知は自分の命が、首の皮一枚で繋がったのだと実感した。お吉にとって特別で大事なのは源一郎とこの見世だけ、遣り手の代わりなど自分以外にいくらでもいる。 

 しかし佐知には、帰る場所などどこにもない。玉楼を追い出されたら、どう生きていけばいいのかすらわからない。


 お吉が甘い女でないことはわかっていたはずなのに、佐知は胡蝶への情を捨てきれず、自らを危険にさらしてしまった。情に流されれば自分が消える。だからもう、佐知が自分の感情で動くことは二度とない。


『私が足抜けした時、あんたがまだ遣り手じゃなくて良かったよ…』 


 かつての胡蝶の言葉が頭をよぎり、佐知は小さく首をふる。 

 今日もまた絵師がくるということで、佐知はお吉に、お凛の監視を命じられていた。胡蝶の足抜けと心中以来、ただてさえ気が立っているお吉は、不安要素はなるべく取り除いておきたいのだろう。会話をすべて聞き、少しでも怪しいところがあったらすぐに報告しろと言われている。


 本当はこんな面倒なことまでして絵など習わせたくないが、毅尚を連れきた蔦屋の顔を立てるため、今日だけ目を瞑ることにしたのは想像にがたく無い。


 紫と並ぶ稼ぎ頭だった胡蝶がいなくなり、玉楼は窮地に立たされていた。だが、花魁になることを期待されている遊女はお凛しかおらず、今育てている引っ込み禿が見世に出れるようになるまでにはもう少し時間がかかる。 


 その上、抜きん出た先見の明で、夕霧、佳乃、紫と育ててきた虎吉は、今やすっかり衰えその力を失ってしまった。だからこそお吉は、自分が選んで買ったお凛を早くこの見世の稼ぎかしらにしようと躍起になっているのだ。

 もしもこれだけ特別待遇されているお凛が見世の存続に関わるようなことをしたらどうなるか、考えただけで、佐知の腕には鳥肌がたつ。


「ところでお凛…ってどこに行くんだい?」


 佐知がお凛に、これから遊女として生きていく上での心構えを言って聞かせようとすると、お凛は突然、そうだと言って立ち上がり出て行ってしまう。佐知が慌ててついて行くと、お凛は中庭が見渡せる廊下に立ち、何やら真剣な表情で外を眺めていた。


「どうしたんだい急に」

「あった!」

「え?」


 佐知が声をかけた瞬間、お凛は庭下駄を履き走り出ていく。


「お凛!あんた何やってんだい!」

「見て見てこれ!」


 佐知の狼狽などおかまいなしに、お凛は笑顔で佐知に、自分の指差す方を見るように促してくる。


「見てじゃないよ!着物が汚れる!」


  厳しい声で注意しながらも視線を向けると、黄色い花が一輪、独特の存在感をもって咲いていた。 

 玉楼の中庭は、四季を感じられるような草花や木が植えられ、季節ごとに植木屋が整えているのだが、恐らくこの花は、雑草として入り込んだものだろう。


「鼓草、私小さい頃からこの花好きなんだ。綿毛になった後も吹いて飛ばして遊んでた」


 花は時に無条件に人の心を和ませる。一瞬佐知も、お凛と共に幼い頃の記憶が過ったが、すぐ我に返り、そんなことより早く上がってこいと注意する。お凛はうんと返事はするものの、じっと鼓草を見つめ、なかなかその場から離れようとしない。


「お凛!絵師の先生が来ちまうよ」

「決めた、私はこの花を描く」


 そう言うと、お凛は素直に庭から佐知のところへ帰ってきた。そんなお凛を、まったくと呆れ顔で見やりながら、佐知はふと疑問を投げ掛ける。


「あんた、あの鼓草描くなら摘んでこなくていいのかい?外で絵を描くなんてみっともないことされたら困るんだから、今鋏持ってこさせるよ」

「いいいい!鼓草はあの力強い茎と葉っぱに花がついてるところがいいんだもん、しっかり見て目に焼き付けたから大丈夫、それに、切ったりしたら花がかわいそうだ」


 真顔で子どものようなことを言うお凛に、佐知が思わず吹き出すと、お凛はなんで笑ってるのと睨んでくる。


「いやいや、あんたらしいと思ってね、そうだね、花がかわいそうだものね」

「バカにしてるでしょ」

「してないしてない」


 二人で他愛ないやりとりをしながら、毅尚が来る四季の間へ戻ろうとしたその時、中庭の隅から、一人の男がこちらをじっと見て立っていることに気がついた。


 最近入ってきたばかりだが腕が立つらしく、亡八を纏める頭を任されている若い衆。お吉のお気に入り。その男の片目は刀傷で潰れており、端正な顔立ちに似つかわしくないその傷と、長身の厳つい体には、独特の迫力と存在感がある。 


 佐知は敢えて無視し、その場から立ち去ろうとしたが、佐知と同じく男に気づいたお凛が、その男に向かってわずかに会釈をする。男は驚愕の表情を浮かべ片目を見開き、逃げるように中庭から立ち去っていった。


「お凛、なんだってあの男に会釈なんてしたんだい?花魁になろうっていう遊女が、気安く知らない男に媚びをうるんじゃないよ」


 佐知はあからさまに顔を歪めお凛を非難する。


「媚びなんて売ってないよ、ただなんか、見たことある気がして…ああ!」

「なんだい急に大声だして」

「外歩いてて転びそうになった時助けてもらったんだ」

「外?」


   お凛は口を押さえ、早く四季の間へ行なきゃ!と急に話を変え逃げようとしたが、そうはさせまいと、佐知はお凛の腕を強く掴む。


「お凛、いつどうやって勝手に外に出たんだい!」


 吉原内であれば、遊女にもある程度自由はあるものの、これから新造だしを控え大々的に売りだそうとしているお凛が、自分達の目を盗み頻繁に出歩いているんだとしたら、佐知は玉楼の遣り手としてお吉に報告し、見張りを強化しなくてはいけなくなる。


「正直に答えな!」

「一回だけ、胡蝶姉さんがいなくなった日、私も探そうと思って外に出た…」


  観念したように白状したお凛は、その日のことを思い出したのかみるみる表情が暗くなる。しかし佐知は、お凛が外にでたのが、胡蝶がいなくなった日だと知り密かに胸をなでおろした。  


 あの日は、玉楼の亡八や若い衆、遣手までもが総出で胡蝶を探すのに躍起になり、廓内が手薄になった。本来そんなことがあってはならないのだが、所詮自分らは武士でもなんでもない烏合の衆。不足の事態が起きた時の組織的な弱さは徐実に現れる。


「本当に、その日だけなんだろうね」

「本当だよ!大体ここ何日か新造だしの準備だなんだで常に女将さんか佐知さんと一緒にいるんだから、脱け出す暇なんてないってわかるでしょ」


 お凛の言葉は最もであり、きっと嘘ではないだろう。だが、あの男がお凛に接触したことは気にかかる。


「どこであの男に会ったんだい?」

「どこって…」

「正直に言わないと、さらにあんたの見張りがきつくなるよ」


 お凛は諦めたようにため息をつき、佐知にすべてを話しだした。


 その日、お凛は玉楼から抜け出したものの、大門の外まで胡蝶を探しに行くなどできるはずもなく、結局、幼いころ時折梅と行っていた、水道尻の長屋を抜けた先の土手に一人佇んでいた。 

 もう梅とここへ訪れることはなくなったが、込み上げてくる懐かしさに、ついフラフラ歩いていくと、生い茂る雑草に足を取られお凛はつまづき転びそうになる。その瞬間、強い力で後ろから抱き起こされたのだ。


「お礼言おうと思ったらとっとと立ち去って行っちゃって、顔はちゃんと見れなかったんだけど、多分あの人だったと思う」

「多分てあんた…」


 あれだけ特徴のある男の顔を忘れていたなんてと佐知は呆れたが、同時に、特にあの男に興味を持っていないお凛に佐知は安心する。


 閉鎖された遊廓の中、お吉しかり、ああいう悪そうな男に夢中になってしまう遊女も多いが、大体いいように使われるだけ使われ、待っているのは身の破滅だ。 

 なぜあの男がお凛の側にいて助け起こすことができたのか気にはなるが、お吉に見張るよう言われていたのかもしれない。


「まあいい、今回あんたが玉楼を抜け出したことは内緒にしといてやる。でも、またやったらただじゃおかないし、ああいう男には絶対引っ掛かるんじゃないよ」

「引っかからないよ、ああいう男は好きじゃない」

「へえ、あんたに男の好き嫌いなんてあるのかい?」

「ないよ!ないけど、怖そうだったり、やけに顔が綺麗な男は好きじゃないんだよ」


 ちょっとからかってやるつもりで言ったのだが、お凛の言葉に、佐知は少し引っかかる。確かにあの男はよく見れば整った顔はしているが、綺麗というのとは違う。


「綺麗な男になんて会ったことあるのかい?」


 佐知が尋ねると、お凛は顔を強ばらせ首をふる。


「会ったことなんてない!」

「あんた、まだ私に隠してることあるんじゃないだろうね?」

「隠してない!ただ、高野屋のご隠居様が言ってたんだ、ここには、美しい顔をして女を騙す恐ろしい男の鬼が現れるって…」


 なるほど、さすが高野屋のご隠居はうまいことを言う。 

 自分がかつて夢中になった男も、確かに男前で綺麗な顔をしていた。しかし別に鬼だったわけではない、自分が思うほど、相手は自分を好いていなかっただけ。


 昔の記憶が蘇り、心の奥底にある古傷が疼いたが、それだけになったことに佐知は驚く。 

 家族の中で、唯一大切だった妹が死んだ時も、本気で惚れぬいた男に裏切られた時も、この苦しみは一生癒えることなどないと思っていたが、時の流れは確実に傷を風化していた。


 結局、そういうものなのだ。裏切られようが傷つこうが、人間生きていく覚悟を決めればなんだってできる。

 逆にできなければ、ただ弱って死ぬだけ。


「お凛、あんた、もう千歳屋と寝る覚悟はできただろうね」


 佐知は決意するように口を開き、厳しい口調でお凛に言って聞かせる。


「新造出しが終わって暫くしたら、あんたの水揚げもおそらく千歳屋がすることになるだろう。その前に楼主か源さんが手ほどきをすると思うが、ここで生きていく以上、あんたは千歳屋と寝ることから逃げることはできない。

いいかい、あんたは、この玉楼の花魁になるために育てられてきたんだ」

「そんなの、私が望んだわけじゃない…」

「いい加減にしな!望もうが望むまいが、あんたに選ぶ権利はないんだよ!あんただけじゃない!ここにいる女達はみんなそれでも必死に生きてるんだ!

花魁になりたいと思う女は沢山いる、当たり前だ、普通の遊女と花魁じゃ全く待遇が違う。絵だって、梅や他の新造が習いたいと言ったからって、習わせてもらえると思うか?

あんたは選ばれた人間なんだ!もういい加減、玉楼をしょって立つ花魁になる覚悟を決めな!」


 お凛は唇を噛み締め黙り込んでいたが、やがて絞りだすように小さく返事をする。


「…わかってる」

「だったらいい」


  昔のお凛なら、わかってるなどという返事は決してしなかっただろう。 

 お凛は元々頭のいい子だ。きっと自分の運命を受け入れ、この玉楼をしょって立つ花魁になってくれるはず、なってくれなくては困るのだ。


「行くよ!」


 目を伏せ悲しげに俯くお凛の姿を見やりながら、佐知は、憐憫の情を抱く自分の心に蓋をし、前をむいて歩き出した。


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