第25話

「お披露目の新造だしはこれからですが、この子が引っ込みとして育ててきました花里です」


 まだ全く耳馴染みしていない、新造としての新しい名前に違和感を覚えながらも、蔦谷に深々とお辞儀をするお吉に背中を小突かれ、お凛も同じく頭を下げる。


「いやいやそんな畏ることはない。紫から聞いているぞ、見た目は美しいが、昔は随分やんちゃだったそうじゃないか」

「恥ずかしながら、ですが今はこの通りすっかり更正致しましたので、なにとぞご贔屓によろしくお願い致します」


 蔦谷に促され顔を上げたお凛は、真正面に座る蔦谷をまじまじと見つめた。お吉の言う通り、蔦屋は確かに男前だが、腹の底が見えない、どこか冷たい雰囲気がある。


「どうした?私の顔に何かついてるか?」

「蔦屋様があまりにも男前なんで見とれてしまってるんですよ」

「おいおい、俺は花里に聞いてるんだ。さっきから女将しか喋ってないじゃないか」

「申し訳ありんせん、おかみさんの言う通りでありんす」


 冗談めかした口調でお吉を注意する蔦屋に、お凛は再び頭を下げ、心にもない言葉を言う。


「まあまあ、将来花魁になるような遊女はそんなに客に遜らなくていい。それよりお吉、これが今回二人の絵を描く絵師の毅尚だ」

「な、仲沢毅尚です。こ、この度は絵を描かせて頂けるということで、あ、ありがとうございます」


 気弱そうな男。それが、蔦屋の後ろで縮こまるように正座し挨拶する絵師の第一印象だった。優しそうな顔をしているが、どもりながら話すその姿はどこか心許ない。


「頼りなく見えるかもしれないが、こいつは光楽に劣らない、すばらしい絵を描く絵師でね、大船に乗ったつもりで任せてほしい」


 蔦屋はまるでお凛の心の内を察したようにそう言った。だがお凛は、また今光楽という名前を耳にし心が痛くなる。


「胡蝶のことは本当に申し訳なく思ってる、玉楼の大事な遊女を一人死なせてしまったのだからな」

「とんでもございません、あれは昔から問題のある女でございました。こちらが蔦屋様に謝らなくてはいけないくらいです」


 お吉の言葉に反発を覚えながら何も言うことができず、お凛は唇を噛み締める。自分は一体いつから、こんなにも臆病な腰抜けになってしまったのだろう。


「いや、あれは光楽の我儘を許しいいようにさせてした私の責任だ。この毅尚は光楽以上の腕を持っているが、光楽のように玉楼の女をたらしこむような真似は絶対にしないので安心してくれ」

「もちろん信頼していますとも、見たところ真面目そうで、とても女をどうこうするようには見えませんし」

「なんだそれは?光楽ほど男前じゃないと?」

「いえいえそんな」


 お凛の心など知る由もない二人の談笑から逃れるように目を背けると、蔦谷の背後で俯く毅尚の姿が視界に入る。心なしか毅尚も、自分と同じく陰鬱な表情を浮かべているように見えた。


「それでは毅尚様、紫もこちらの四季の間へ呼んでまいりますので、是非とも二人を美しく描いてやってくださいね」


 散々絵師を警戒しこき下ろしていたお吉も、このどう見ても無害そうな毅尚を気にいったのか、にこやかな笑顔でそう言い、蔦屋と目配せをして出て行った。




 玉楼の四季の間はその名の通り、四季折々の美しい花々が描かれた襖絵がある、玉楼の中でも選ばれた客以外通すことはない特別な座敷だ。その襖絵を背景に、お凛は毅尚から見て少し斜めの角度に立ち、一心に絵筆を動かす毅尚の様子を興味深く見つめる。


 あれからすぐ紫もやってきて、二人同じように並び描いてもらっていたのだが、先程、花魁はまだ客をとっていない新造と違い忙しいとのことで蔦屋と共に出て行ってしまった。それからおよそ小半刻は経ったであろう。


「あの、あとどれくらいこうしてればいいんでありんすか?」


 あまりにも長時間同じ格好でいたため、だんだんと嫌になってきたお凛は毅尚に尋ねる。


「あ、ごめん、少し休もうか」


 毅尚にそう言われホッとしたお凛は、早々に体勢を崩しその場に座り込んだ。


「あーもう疲れた」


 しかし、それまで真剣に絵を描いていた毅尚が、呆気にとられたような表情で自分を見ていることに気づいたお凛は、しまったと思い眉根を寄せる。蔦屋も紫もお吉もいないこの状況に、すっかり気が抜けたお凛は、一応客である毅尚の前で無意識に素を出してしまったのだ。


「どうかしんした?」


 もうこうなったら仕方あるまいと開き直り、つい強い口調で毅尚に問いかけると、毅尚は慌てたように首を振り言った。


「いや、ずっと同じ格好でいたんだから、そりゃ疲れるの当たり前だよね」

「それにしては随分驚いた顔していんしたね」

「ごめん、いや、こうゆうところの女の人って、いつもみんな同じ顔というか、いや、悪い意味じゃなくて上品にしてるというか、いや、君が上品じゃないとかそういう意味じゃなくて…えっと」


 お凛の喧嘩腰の言葉にも嫌な顔一つせず丁寧に返答し、しまいには何を言えばいいのかわからなくなっている毅尚に思わず笑みがこぼれ、お凛はいつもの口調で話だす。


「いいよ別に、私上品じゃないし、ここが全く性にあってないの自分でもわかってるから」


 お凛がそう言うと、毅尚はホッとしたように息を吐いた。


「気を悪くしてないなら良かった」

「これくらいで気を悪くなんかしないよ。それよりあなた、そんな周りに気を使ってて疲れないの?絵師ってのは高慢でスケベな奴が多いって聞いてたけど、あなたは光楽とは違うみたいね」


 だが、光楽の名前を出した途端、毅尚の顔色が変わった。


「あんなことがあったら、誤解してしまうのは仕方ないと思うんだけど、光楽は君達が思っているような人間じゃないんだ」


 光楽を庇うような毅尚の物言いに、お凛は驚いて毅尚に詰め寄る。


「あなたやっぱり光楽のこと知ってるの?」

「ああ…」

「どんな男だったの?私達が思ってるような人間じゃないなら、なんでその人は、胡蝶姉さんを連れて行っちゃったのよ!」


 感情が溢れた途端箍が外れ、お凛は言葉を止めることができなくなる。今まで確かに生きて存在していたはずの大切な人がいなくなり、いつしかそれが当たり前になってしまう恐怖と現実。ずっと心にわだかまっていた黒い塊。


「胡蝶姉さんは私を助けてくれた人だったの!なのに、なんで一緒に死んじゃうの?なんでみんな…」


(私の前からいなくなってしまうんだろう)


 言葉を発しているうちに、光楽への怒りは、いつしかお凛を苦しめるあらゆることへの絶望に代わっていく。幼い頃父を亡くし、玉楼では、千歳屋から助けてくれた恩人の胡蝶を亡くし、親友だった梅の心も、自分から離れていってしまった。その上、自分の意思とは関係なく進められていく新造出しの準備と、お凛に執拗なほど執着する千歳屋のイヤらしい目。


「ごめん…」

「なんであなたが謝るのよ!あなたが胡蝶姉さん連れてったわけじゃないでしょ!」

「でも…」

「でもなによ!」


 自分が悪いわけでもないのに謝る毅尚に、なぜか無性に腹が立ち声を荒げると、毅尚は暫し何か考え込むように唇を噛み、小さな声でお凛に告げた。


「友達だったから。確かにあいつは、我が儘なところもあったけど、俺にとってはいいやつだったんだ。あいつに助けられたこと、数え切れないほど沢山あった。だから、あいつが胡蝶さんを連れて行ったことで君が傷ついてるなら、俺が変わりに謝りたい。俺はもう、あいつに何もしてやれないから、せめて…」

「ごめんなさい…」


 毅尚の光楽に対する思いに触れたお凛は、自分は毅尚に八つ当たりしているだけだと気づき素直に謝罪した。この男は何一つ悪く無い。


「いや、いいんだ。そりゃ誰だって、大事な人間亡くしたら、普通ではいられなくなる」

「でも、一体どうしたら、苦しくなくなるんだろう…」


 口をついて出てきたお凛の問いかけに、毅尚は首を振る。


「わからない…わからないよ」


 その声はあまりにも悲痛でやるせなく、お凛の胸はしめつけられる。大事な人間を亡くした互いの悲しみに共鳴し、しばらく無言で向き合っていた二人だったが、やがでお凛は、毅尚に八つ当たりした罪悪感から、何か明るい話をしようと話題を変える。


「そういえば、あなたは妻子もちだって女将さんから聞いたけど、奥さんどんな人なの?」

「え?いやいや、こどもはまだ産まれていないよ」

「そうなの?」

「うん、産まれるまで、あと二月くらいかな」

「そっか、もうすぐあなたもお父さんになるのね」

「そうだね、自分でもまだ信じられないけど」


 毅尚は少し照れたように頷いたが、その顔はどこか憂わしげにも見え、お凛は不思議に思い尋ねる。


「どうしたの?」

「え?」

「なんだか不安そうな顔してる」

「いや、そんなことないよ、うん、すごく嬉しい、嬉しいんだ。だけどまだ実感が湧かないというか、いい父親になれるのかなって…」

「なに情けないこと言ってるのよ!その子の父親はあなたしかいないんだから、今からしっかりしなきゃ!」


 敢えて発破をかけるようにそう言うと、毅尚は苦笑いを浮かべながらもすぐに顔を引き締め頷く。


「そうだよな、俺がしっかりしなきゃな」

「そうよ、父親が家族を守らなきゃ!」


 とそこへ、蔦屋とお吉が、何を話しているんだと言いながら四季の間に入ってきた。蔦屋は紫といい時間を過ごせたのか、機嫌よさげでにこやかだが、お吉は、お凛が毅尚と話していたことが気に入らないのか、蔦屋の後ろであからさまに顔をしかめてお凛を見ている。


「毅尚様の奥様に、もうすぐあかごが産まれると聞いたものでありんすから、えらいおめでたいことでありんすねと話していたのでございんす」


  しかし、お凛の言葉を聞くや、お吉は即座に愛想笑いを浮かべ、まあまあおめでとうございますと毅尚にお祝いの言葉を述べる。


「ありがとうございます」


 遠慮がちにお礼を言う毅尚の肩を叩きながら、蔦屋がからかうように話し出した。


「こいつの妻は中々の美人な上に商家の娘でな、全くいい女を嫁にもらったものだ。最初は身分違いの恋と反対されたようだが、いやいや、こいつは今に、この江戸中で知らぬもののいない絵師になりますから、こいつの嫁は見る目がありますよ」

「蔦屋様のお目にかなった方ですもの、本当に楽しみですわ」

「ところで毅尚、後どれくらい時間かかりそうだ?紫はもちろん、花里ももうすぐ新造だしを控えた忙しい身だ、そうそうおまえの絵のためにじっとしてられないぞ」

「あ、紫様はもうある程度描けているのですが、花里様はまだ…でもあともう少しで…」

「わっちはどんなに時間がかかっても大丈夫でありんす。それより、わっちは毅尚様に絵の描き方を習いたいのでありんすが」


 毅尚が言い終わらぬうちに、お凛はふと心に浮かんだ望みを口にする。するとお吉は怒声を上げて反対した。


「何バカなこと言ってんだい?花魁になるって子が絵なんて習ってどうするんだい!そんなことする暇あるならもっと習字や和歌の腕を磨きな!」

「まあまあお吉、そんな頭ごなしに怒鳴らなくても」


 よっぽど腹が立ったのだろう、蔦谷の前で乱暴な口調が出てしまったお吉は気まずそうに首を竦め謝罪する。


「申し訳ありません、つい…」

「花里は絵に興味があるのか?」


 蔦屋に聞かれ、お凛は深く頷く。昔から絵を描くのが好きだったお凛にとって、絵を習いたいというのは、自然と心からわいてきた正直な望みだったのだ。


「絵を描ける遊女なんて面白いじゃないか。毅尚ももう少し絵を仕上げるのに時間がかかりそうだし、ついでに教えてやったらどうだ」

「あ、はい、私でよければ」


 快く引き受ける毅尚に、お吉はそんなと断ろうとしたが、上客である蔦屋の申し出を強く断ることもできず、お吉は渋々お凛の提案を承諾した。




「全くあんたは、余計なことばかりやりたがって!いいかい?蔦屋様はあんなこと言っていたが、本当は紫のように美しく従順で大人しい女が好きなんだよ!紫にはまだまだ働いてもらうつもりだが、花魁としてはもういい歳だし、丸屋様が身請けを望んでる。だからこそこっちも早いうちに蔦谷様とおまえを引き合わせて気に入ってもらおうと思ってたっていうのに、これで全部台無しだよ!」


 蔦屋と毅尚が帰った後、お吉は散々お凛を罵ったが、絵を習える嬉しさに胸を踊らせている今のお凛には馬耳東風だ。


(明日あの人が来たらどんな絵を習おう、いきなり人物画は難しいだろうか?)


 四季の間に行く前までの絶望が、毅尚との出会いにより、僅かではあるがお凛の心に光を灯す。 

 中庭に面した渡り廊下を歩きながら、ふと立ち止まり外の景色を眺めると、久しぶりに見た夕焼けの空は、どこか穏やかで優しい色をしていた。

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