第15話

 何かを、心から欲しいと思うことなどなかった。だって、欲しいと願う前に、すべて自分の手の中に与えられていたから…




「とてもよくお似合いですよ」


 乳母の千草が嬉しそうに微笑み、仕立てたばかりの着物に身を包む華子を誇らしげに眺める。京都の伝統ある老舗で作らせたものらしいが、華子にはさして興味のあることではない。ただ、鏡に映る自分の姿は確かに美しく、この姿で父に会えると思うと自然と心は弾む。


「慎之介様も、きっとお褒めになるでしょうね」

「ああそうね」


 華子の気のない返事に千草はため息をついたが、そんなことは気にもとめず、華子は色々な角度から自分の姿を眺め、父に喜んでもらえるよう、綺麗に見えているか確認することに余念がない。


 華子の父親、間部忠義は、将軍家宣の小姓から幕府最高の権力者たる老中の一人にまで成り上がった、幕府政治に多大な影響力を持つと言われる男。その名を知らぬものなど、この江戸内に一人たりともいないであろう。 

 といっても、華子は忠義の本妻の子ではない。忠義が懇意にしていた料理屋「瑞乃」の娘、お葉に生ませた子供だ。だがお葉は、華子がまだ2歳になったばかりの頃に他界してしまう。


 本妻の頑なな反対にあい、忠義は華子を引き取れず、華子はお葉の実家の養女となったが、自分の子供達の中で唯一の女の子である華子を、忠義は溺愛した。ことあるごとに瑞乃を訪れては華子を可愛いがり、高価な着物や櫛、はたまた珍しいお菓子などあらゆるものを買い与えた。 

 誰もが尊敬する権力者でありながら、娘にはめっぽう甘く優しい。そんな男を父に持った華子にとって、父以外の男など、ただの弱々しいひよっこにしか見えないのだ。


「華子様ももうすぐ17になりますし、そろそろお父上様以外の男性にも目を向けていただかないと」

「わかってるわよ、だからこれからわざわざ慎之介が出る試合とやらを見に行くんじゃない」


 別に、慎之助がいやとか、そういうわけではない。ただ、特に関心がないだけ。慎之介は、諸大名の家来や大身旗本の子弟が入門し、門弟200を抱える名門道場、武学館の息子だ。

 策略をめぐらせのしあがっていった忠義は、その反動のように、正々堂々と戦う剣術を好み、特にこの道場の当主斎藤慎一郎は、忠義にとって一刀流の使い手として尊敬する師であり、また古くからの友人でもあった。その結びつきから、華子と慎之助の縁談が持ち上がったというわけだ。


「お父様が勧めてくれた人だもの、ちゃんと結婚しようと思ってるわよ。それに、この瑞乃だって、斎藤家との繋がりが欲しいものね」

「華子様!」


 咎めるように声をあげる千草を無視し、華子は廊下に向かって歩きはじめる。祖父母や叔父は、華子のことをとても可愛いがってくれるのだが、どこか自分や父親に媚び諂うようなところがあり、華子は時折その態度を疎ましく思ってしまう。  


 士農工商の世の中、どんなに富や名声を得ても、商人にとって、幕府と繋がりのある武士や名門のお家柄というのは喉から手がでる程欲しいものなのだろう。お葉が忠義の子を産み妾となったことで、「瑞乃」は幕府のお偉方ご用達の名店となり、並々ならぬ恩恵を受けることになった。

 その上、今度は徳川幕府成立の頃から代々続いている斎藤家と血縁関係を持てるかもしれないというのだから、それはまさに夢のような話であり、華子の父親が忠義でなければ絶対にありえないことだった。つまりこの縁談は、料理屋瑞乃にとって、必ず成功させなくてはならない家の一大事と言っても過言ではないのだ。


 しかし、そんなことどこ吹く風の華子は、忠義の計らいで料理屋に連れてこられた慎之介をそっけなくあしらい、祖父母達を青ざめさせた。幸い慎之介が穏やかに華子の態度を受け止め、そこで破談になりはしなかったが、いくら華子が忠義の娘だとはいえ、慎之介に対していつまでもそんな態度が許されるわけがないと、祖父母達は戦々恐々としているのだ。


「慎之介様は門弟達からの人望も厚いですし、あの名門道場の中で彼に敵う者は一人もいないらしいですよ。刀はさしてても腕はからっきしの見た目だけの武士が多いこのご時勢になんと逞しいことでしょう!」

「そうね」


 廊下を歩く華子に付きながら 千草は必死に慎之介の話題を出すが、華子は空返事を繰り返す。


「あ、そうだ!」


 と、華子は突然立ち止まり、早歩きをして華子の後に続いていた千草は、華子の後頭部に鼻をぶつける。


「あ、ごめん千草、大丈夫?」


 振り向いた華子は、後ろで鼻を押さえて顔を歪める千草に気づき慌てて謝った。


「いえ、私は大丈夫です。それより華子様どうされましたか?何か忘れ物でも?」

「ううん、そうじゃなくて、斎藤家って慎之介の他にもう一人息子がいるって聞いたんだけど、どんな人なの?」

「んまあ!!」


 華子の言葉に、千草は血相を変えて大声をあげる。


「誰がそんなこと華子様に吹き込んだんですか!」

「女中達がみんなで話してるの立ち聞きしただけだけど…」

「あの子達、あとでたっぷり絞ってやんないと!」


 怒り狂う千草の様子に驚きながらも、そのあまりにも大げさな反応に、華子は余計興味をそそられた。


「で、どんな人なの?」

「そんなこと知る必要ございません、華子様は慎之介様と結婚なさるんですから!」

「だからこそ知りたいんじゃない、慎之介様の妻になるということは斎藤家へ嫁ぐってことなんだから、相手の家族を知るのも大切なことだわ。私、慎之介様のことはなんでも知っておきたいの!」


 華子の言葉に、千草は感嘆の表情を浮かべる。


「まあ華子様、あんなに冷たくあしらってらしたから、私はてっきり慎之介様と結婚したくないのかと思ってました」

「お父様が見込んだ方と私が結婚したくないわけないでしょう!」


 実際全く気はすすまないのだが、千草から話しを聞き出すために、華子はあえて嘘をついた。華子の演技にコロッと騙される千草に、ついいたずら心が触発された華子は、さらに追い討ちをかけるように泣き真似を始める。


「千草だけは、私の本当の気持ちに気づいてくれてると思ったのに…」

「申し訳ありません華子様」

「お願い千草、その人のこと教えて、慎之介様に関わることなら、私、なんでも知りたい!」


 薄っすら涙を浮かべて訴える華子にほだされたのか、千草は意を決したように口を開く。


「実は、斎藤家の当主、慎一郎様には、妾腹の子がおりまして…」

「なんだ、そんなこと?私のお母様だって側妾だったんだから一緒じゃない」

「とんでもございません!!」


 途端に興味を失いかけた華子だが、声を荒げ否定する千草に呆気にとられ、口をぽかんと開けてしまう。


「な…、何か違うの?」


 千草の迫力に押され先を促すと、千草は顔をしかめて語り始めた。


「華子様のお母様は側妾とはいえ料亭瑞乃の娘、立派なお家柄です。ですがその息子は、吉原の遊女の子なんです」

「吉原?」

「華子様は知らなくてもいいことですが、あそこは男に身体を売り生活してる女達が住む場所です。男にゃ天国、花魁道中なんて言ってますけど、所詮はどこぞのものともわからない女。しかもその息子の母親は花魁でもなんでもなく、下品で若いだけが取り柄の遊女だったそうです。子供だって、そんなところにいた女ですから、本当は誰の子かなんてわかりゃしませんよ。でも慎一郎様は非常に優しいおかたですから、その女の子供を自分の子として引き取ったんです」


 さも憎憎しげに話す千草の言葉を、華子は黙って聞いていたが、吉原や遊女について詳しく知らない華子は、なぜ千草がそこまでその息子を蔑むのかわからない。ただ、どうやらその息子が、よっぽどひどい出の女の子供であるらしいことだけは理解した。


「今もその息子って斎藤家にいるの?」

「いますとも!!しかもやはりそんな女の子供ですから、酒と色に溺れて朝まで家に帰らないこともざら、蛙の子は所詮蛙とはよく言ったものです。そのまま一生帰ってこなければいいものを、ほんっと図々しい!」

「そうだったのね。」


 華子の好奇心は満たされたものの、期待より得るものはなかった。どちらにしろ自分とは関係ない、怠惰な男の話だ。


「それに比べて慎之介様は…」


 まだまだしゃべり足りないというように、今度は慎之介の美点を語り始める千草の声に空返事をしながら、華子の心はすでに、今日久々に会える父親のことで頭がいっぱいになっていた。


(やっぱり、私の心を満たしてくれるのはお父様だけだ)


 外に待たせていた駕籠に乗り、華子は、これから見に行く試合に心を馳せる。

 父親が話してくれる、男たちの練習や試合の様子は華子の心を高揚させ、幼い頃、自分も習いたいと言って父親を困らせたことがあった。華子の言うことならなんでも叶えてくれる父も、剣術は男のやるものだと、その願いにだけは全く耳を貸してはくれなかったが、そういえばあの時、自分にしては珍しく、泣きながら随分と駄々をこねた。


(よっぽどやりたかったんだろうけど…)


 何かを強く欲しがったり望んだりすることを忘れていた華子にとって、思い出の中、泣きながら父に我侭を言う自分の姿は随分新鮮に思え、なぜか心が浮き立つような感覚に襲われた。その感覚は、痺れるように心地よく、華子の心の襞を刺激する。


 

 そう、自分は、自ら何かを欲しいと願うことなんて忘れていた。この日、あの男に出会うまでは…

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