第6話

 佳乃が身請けされた後、梅とお凛は紫について学び、二人はやがて、禿から新造となる年齢に達する。振袖新造の新造出しは、お披露目も兼ねて盛大に行われるのが慣例となっており、お凛と梅の新造出しも、紫が世話することになった。


 源一郎とお吉は、引っ込み禿として育ててきた二人の新造出しが見世持ちにならなかったことに、密かに安堵する。玉楼は吉原の中でも、常に番付け1、2を競う遊郭だったが、佳乃が身請けされてから売り上げが落ちているのは目の逸らし用のない事実だ。現役の花魁である紫が支度金を出してくれるならそれに越したことはない。


 紫が二人の新造出しを快く引き受けたのには理由があった。紫の馴染みの上客である千歳屋が、お凛の新造出しなら、自分がいくらでも後ろ盾となって金を出すと言ってきたのだ。


 千歳屋は夕霧がいた頃からの常連で、今は紫の上客だ。だが、御用商人であることをかさにきた嫌らしいところがあり、紫も何かと理由をつけ、名代でやり過ごすこともしばしあったのだが、そんな千歳屋が次に目をつけたのがお凛だった。お凛がまだ12.3歳の禿だった頃から、あの子の初客はわしがなるなどと嘯いており、紫の心中には、この面倒くさい客が、早く自分からお凛に乗り換えてくれればという思惑もあったのだろう。 


 しかし、見世や紫の意向と裏腹に、お凛は千歳屋に強い嫌悪感を示した。あからさまに顔を歪め、睨むように千歳屋を見るお凛に、千歳屋は、花魁になるような遊女はこれくらい気位が高くていいと、寛容な態度を示したが、お吉と源一郎は気がきではなかった。



「お凛!なんだい、この間の千歳屋様に対する態度は!あの人のおかげであんたは立派な新造出しができるんだよ!」

「無駄な金だして新造出しなんてしてもらわなくて結構!そんなことしなくたって、あんたらが働けっていえば働くよ、ただ、あの男に借りなんて作りたくない。いつもいやらしい目でニヤニヤしながら見てくるし、時々触ってくるし気持ち悪いんだよ」

「それがどうした!これから遊女になるって女がそれくらい上手くあしらえないでどうするんだい!それに、お前程の上玉が新造出ししないなんてありえないんだよ!全くこの子は!源一郎!なんとか言ってやってくれよ」


 お吉が源一郎に助けを求めると、源一郎はため息を吐きながら、お凛に言って聞かせる。


「お凛、おまえは何もわかってねえみたいだな。おまえがあの旦那を不躾にすれば、お前も梅も、見世に借りでの新造出しで年季がどれだけ伸びちまうかわかったもんじゃねえ。それに、お前は新造だしなんてしなくていいと思ってるみたいだが、梅はお前と違って佳乃に憧れてたからな。新造出しができなくなったら、さぞかしがっかりするだろうな」


 源一郎の言葉にお凛は黙り込み、苦しげな表情を浮かべる。お凛は、自分に対する口撃にはめっぽう強いくせに、自分の大切な人間を引き合いに出されると、信じられないほど弱くなる。我が身を削ってでも、大切な人間を守ろうとする。


 源一郎は、自分が梅の名を出し、お凛の性格を利用していることを自覚していた。 

 だが、お凛には時間もお金も沢山かけてここまで育ててきたのだ。今千歳屋の機嫌を損ねて、新造出しをふいにするわけにはいかない。


「今日千歳屋の旦那が紫の客として来てるんだが、お前の顔だけでも見たいと言ってる。今回だけは俺の顔を立てて、千歳屋にこの間の態度を謝ってきてくれねえか?見世のためにも、梅のためにも、どうか頼む!」


 お凛はしばらく嫌々というように首を振っていたが、源一郎が手をついて頼みこむと、しぶしぶと頷き、千歳屋の待つ座敷へと向かっていった。


「おまえ、さすがにお凛の扱い方わかってるね」


 お凛の後姿を見送りながら、お吉は笑顔で源一郎を褒めたが、源一郎は笑うことができなかった。





 お凛が座敷に行くと、そこに紫はおらず、姉女郎の篠が名代として千歳屋の相手をしていた。


「いやだ旦那様ったら、そんなところ」

「なんじゃいなんじゃい、名代のくせに生意気な、ほれほれ」


 お凛は、少しだけ開いた襖から覗き見えるその光景に、入っていくのをためらった。二人のやりとりが、とてつもなく気持ち悪いものに思え、今すぐこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。


「お凛、おまえこんなところで何してるんだい?」


 お凛が立ち去ろうかどうか迷っているところに、たまたま見回りで通りかかった遣手の佐知が声をかけてきた。


「おー、お凛が来たのか?」


 その声に、中にいた千歳屋と篠もこちらに気がつき、千歳屋は、にこにこしながらお凛に手招きをする。


「お凛ほら、こっちへおいで」


 お凛は、見つかってしまったからには仕方ないと諦め座敷に入った。


「旦那様、この子はまだ新造出しも済んでおらず、名目上はまだ禿ですので、客の相手はできません」


 事情を知らない佐知が、相手を怒らせないよう丁寧な口調で千歳屋に注意したが、千歳屋は怒りもあらわに佐知を怒鳴り散らす。


「おまえ遣手のくせに、お吉から何でお凛がここへ来たのか聞いてないのか!見世の決まりくらい、おまえなんぞに言われなくともわかってるわ!俺はこの子と話をするだけだ!おまえは篠を連れて今すぐここから出て行け!」


 佐知は心配そうな顔でお凛を見やりながらも、申し訳ありませんと千歳屋に頭を下げ、篠とともに出ていってしまった。 

 二人きりになった途端、千歳屋はころっと態度を変え、お凛の嫌いなにやけ顔を浮かべながら、猫なで声で話しかけてくる。


「よく来てくれたね、お凛。なんでそんなに離れてるんだい?ほら、もっとこっちへおいで」


 お凛は、なるべく千歳屋の顔を見るまいと、土下座のような格好で頭を伏せ、まるで怒っているかのように早口で謝った。


「こなたの間の不躾な態度おゆるしなんし!わっち達の新造出しありがとうございんす !それでは失礼いたしんす!」


 とにかくとっととこの場から逃げだしたいお凛は、それでけ言うと即座に立ち上がり、座敷から出て行こうとしたが、すぐに千歳屋に手を掴まれてしまう。


「わざわざ謝りに来てくれたのかい?お前はいい子だね。せっかく来てくれたんだから、もう少しここにいてくれてもいいだろう?」


 千歳屋はお凛の手を撫で回しながら、そのままねっとりと舌を出し、お凛の手の甲に口付けをする。その瞬間、お凛は反射的に千歳屋の顔をひっぱたいていた。 (気持ち悪い気持ち悪い!こんな男に触れられたくない!好きなようにされたくない!) 千歳屋は、一瞬なにが起こったのかわからず呆然とお凛の顔を見上げたが、みるみる怒りで顔が赤くなっていく。


「このアマ!図にのりやがって!」


 激昂した千歳屋は、今まで聞いたこともないような恐ろしい声をあげお凛の手を引っ張ると、乱暴にその場に押し倒した。お凛は恐怖のあまり体が震え、ただ小さくもがくことしかできなくなる。 そこへ、外で見張っていたらしい佐知が中に入ってきて千歳屋を止めにはいった。


「旦那様!どうかお許しください!この子はまだ…」

「こいつの新造出しをしてやるのはこの俺だぞ!それがなんだ!客に恥をかかせやがって!」


 必死に止める佐知を振り払い、千歳屋はなおもお凛を畳に押し付ける。千歳屋の拳があがり、お凛は殴られる衝撃を覚悟し目をつむった。しかし、いくら待っても拳は中々ふり落とされてこない。 お凛が恐る恐る目を開けると、そこには、腰を抑えて痛みに顔を歪める千歳屋の姿があり、その後ろには、いつの間にやってきたのか、姉女郎の胡蝶が、蹴りをした後のような体制で立っていた。


「となりの座敷がぎゃーぎゃーうるさいと思って来てみれば、何やってるんだいこのじじーはみっともない」


 千歳屋は後ろをふりかえり胡蝶の姿を見とめると、怒りに任せ胡蝶に殴りかかる。お凛が慌てて立ち上がり止めようとした時にはもうすでに遅く、がんという鈍い音が響いた。


「胡蝶!この淫売女が、ずうずうしくも玉楼に戻ってきやがって!おまえがこの見世の価値を下げてるのがわからないのか?河岸の見世で下々の男相手に身体を売っていたおまえが、今じゃまた玉楼の座敷持ちとは、聞いてあきれるわ!」


 胡蝶の頬は赤く腫れあがっていたが、そんなものは意にも介さない様子で、胡蝶は千歳屋に食ってかかる。


「それがどうした!おまえのような見栄っ張りな屑の相手をするくらいなら、下々の男に抱かれるほうがなんぼかましさ!」


 千歳屋がまたもや胡蝶に手を振り上げようとしたその時、騒ぎを聞きつけ駆けつけた源一郎が、千歳屋の手を後ろから押さえ込んだ。


「旦那様、落ち着いてください。千歳屋の旦那ともあろう人が、禿や女郎相手に手をあげたなんて他の客に知れたら人聞きがよくありません」


 源一郎の言葉に、千歳屋は頭に上っていた血が急に冷めたらしく、ばつがわるそうに源一郎を見ると、体裁をつくろうように言った。


「お前の見世はどうゆう教育をしてるんだ?客に蹴りを入れる遊女を置いておくなんて、恥ずかしいと思わないのか?」

「恥ずかしいのはどっちさ!」

「こんな女を置いとくなんて何を考えてんだ!俺がこの見世にどれだけ金を使ってやってると思ってるんだ!」


 一旦は穏便な姿を見せようとしたようだが、胡蝶の侮蔑のこもった口調が、千歳屋の神経を逆なでする。声を荒げる千歳屋に、源一郎は必死に謝った。


「申し訳ありません千歳屋様、胡蝶にはきついお灸を据えますので、どうか怒りを静めてください」

「お灸を据えるなんて生温い!今すぐこいつを玉楼から追い出し河岸の切見世に戻せ!そうじゃないとわしの気はおさまらん!」


 その言葉を聞いた途端、それまでただ黙ってこの状況を見ていることしかできなかったお凛が、千歳屋にすがりつく。


「旦那様!わっち が悪いんでありんす。 旦那さまを思わず叩いてしまいんしたことは、まことに申し訳なく思っていんす 。でも、決して嫌で叩いたのではありんせん 。男の人に唇をおしつけられるのは初めてのことでありんしたから、急に恥ずかしくなってついあんなことを…どうか…どうか許してくんなまし 」


 今まで見たこともないようなしおらしい態度で、千歳屋の腕にすがりつきながら謝るお凛に、千歳屋は思わず声を和らげる。


「お凛、おまえのことはもう怒ってないよ。まだ新造出しもすんでない生娘なおまえをびっくりさせてしまって私も悪かった。だが胡蝶だけは絶対に許すわけにはいかん!」

「いいえ、胡蝶姉さんがあんなことをしてしまいんしたのは、わっちが原因でありんす。旦那様はまことは優しい方なのに…。胡蝶姉さんが辞めさせられるなら、わっちも同罪でありんす。旦那様へのお詫びのために、わっちも胡蝶姉さんと一緒に河岸の切見世に住み替えんす」 


 お凛の言葉に、千歳屋は慌てて止めにかかる。


「何を言ってるんだ、おまえはそんなことしなくていいんだよ」

「いいえ、そうでもしないと旦那様に申し訳がたちんせん!どうか、どうかお願いしんす、旦那様…」


 結局千歳屋は、普段気が強いお凛の、涙を流さんばかりに一生懸命謝る姿をいじらしく思い、今回だけはと胡蝶を許した。 

 この日お凛は、初めて千歳屋の旦那に媚を売り、作り笑顔を向ける。千歳屋は、胡蝶に蹴られたことなどすっかり忘れ、お凛の新造出しが楽しみだなどと言いながら上機嫌で帰っていった。



「やっぱりお凛はたいした子だね。あんなに怒り狂ってた男をころっと沈めてしまうんだから。あの子はきっと高尾を超える花魁になれるよ」


 千歳屋が帰った後、お吉もやはり上機嫌でそんなことを言ったが、源一郎にはそう思えなかった。  

 お凛が千歳屋にあんな態度を取ったのは、決して自分自身のためではない。千歳屋に謝りに行ったのは梅のため、そして、媚を売って千歳屋に謝ったのは、自分を助けようとした胡蝶のため。


『お凛は花魁になるには、あまりにも純粋すぎる…』


 源一郎の脳裏には、いつかの佳乃の言葉が浮かんでいた。




「お凛、おまえ、なんだって千歳屋にあんなこと言ったんだい?私は別にこんな見世いつだって辞めたって良かったんだから、無理してあいつに謝ることなんてなかったのに」


 胡蝶の言葉に、お凛は不安げな声で尋ねる。


「胡蝶姉さん、ここを出て行く気なんですか?」

「そうゆうことじゃなくて、別に私はどこでだって遊女はできるって言ってるんだよ。お凛、あんたはもうちょっと図々しくなったほうがいい。器量良しで気が強いなんて言われてるが、とんだお人好しじゃないか。あんたは遊女に向いてないよ、あのばばあもしくじったね」


 胡蝶はキセルを吸いながら、お凛に冷たく言い放つ。しかしお凛は、その言葉に腹を立てる気など全くなかった。


 結局何年ここで暮らしても、お凛の中の、遊女になりたくない、花魁なんかになりたくないという思いは変わらない。自分の気持ちに嘘をついてここで生きていくことは、お凛にとって耐えがたい苦痛でしかないのだ。


 お凛の願いはただ、厳しくも優しかった父のような男と出会い、昔住んでいた村に戻って自分の家族を作ること。 

 だが、その願いはまるで、空を飛ぶことよりも遠い夢のように、お凛には思えた。


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