或る美食家の誤算
名取
Dis-moi ce que tu manges, je te dirai ce que tu es.
目が覚めると食卓についていた。直前の記憶は思い出せない。ただ鼻を突いたコンソメの香りと、目を刺激しすぎないテーブルクロスの上品な光の反射に、多少いい気分にはなった。好きなワインをほんの少し舐めたときのように。
「お目覚めになりましたか」
声が聞こえて、目を上げる。テーブルの向こうに誰かが座っていた。フルートのように透き通る声からしても、そしてもちろん肉眼で見ても、それはとても口では言い表せないような絶世の美女に違いないように思われた。しかし片目がない。眼帯で隠すでもなく、そこにはぽっかりと黒々した空洞があるばかりだ。
「失礼ですが、あなたは?」
女は答える代わりに、その白魚のような指で以って、私の腹部を指差した。
「詳しい話は、食事の後にいたしましょう。とても空腹でらっしゃるようだから」
そう言われてみると、なるほど腹が減っている。私は長年の癖でテーブルの上に目を走らせ、ワインのボトルとグラスがないか探した。先ほどまでは確かに何もなかったはずが、私が探すと、それは今までずっとここにありましたよ、とでも言うようにたちどころに現れた。蜃気楼じみた幻にも思えたが、試しに掴むと、不思議と固く冷えている。氷たっぷりのクーラーから出したばかりのように。
「じき前菜が運ばれてきます。ワインを楽しんで」
「ありがとう。ところでここはどこなのですか?」
「あなたの長年探し求めていらしった、幻の晩餐会です」
「なんと……それでは、ここが……」
私は美女のグラスにワインを注ぎながら、感激のあまり返す言葉を失った。
「はい。四年に一度だけ開かれる、全てが完璧な晩餐会。それがここです」
「なんという……」
「今宵は全てを忘れて、美食に酔いしれてくださいまし」
美女の紡ぐ芸術的な美しい言葉に、恍惚とも困惑ともつかぬ深い嘆息が、知らずのうちに口から溢れた。椅子に背もたれると、グラスに口をつける。緊張で何も喉を通らないかもと思ったが、ワインの香りは芳しく、なぜか遠い故郷の匂いがした。それが私の心をたちどころに癒してしまった。解れた意識の中、私の大好きなみずみずしい純朴な葡萄の味が、足の先まで染み渡る。
「いかがです?」
「これは、気障な表現ですが……まるで聖女の接吻のようです」
「それは何よりでございます」
「この会の主人は、あなたなのですか?」
「そうです。なぜそのようなことをお聞きに?」
「不躾ながら、ずっと気になっていたもので……
給仕がやってきた。知らない他人のはずなのに、まるでずっと前から知っている気心知れた仲のように心地よいまなざしで、サーブされるとまるで子供時代に戻ったように懐かしい気持ちになった。
「ああ、申し訳ない。野暮な話をしてしまいました。せっかくの食事なのに」
「お気になさらず。ですが、私はあくまで主人に過ぎません。そしてこの会にかかるお金は、実は私が出すものではないのです」
前菜の蓋を開けようとしていた私は、少しぎくりとして、蓋を戻した。
「なんと。では、誰が?」
「寄付です。四年間の間、私は寄付を募り、その寄付金で来賓をもてなすのです」
「誰からの寄付なのでしょう? いくら四年かけたとて、兆を越える額が集まるとはとても思えませんが……よほどの富豪か、ひょっとすると、どこかの王室とか?」
美女はくつくつ煮える具沢山のスープ鍋のような和やかな笑い声を上げた。
「いいえ。寄付をくださるのは『
「渡し守?」
「ええ。『死者の口の中に渡し賃を入れておく』という風習をご存知ですか? 渡し賃を持たないものは、死者を彼岸へ運ぶ渡し守に、200年ほど後回しにされてしまうとされています。とにかくそれは、死者が速やかに彼岸に行けるように、という死者へのささやかな配慮と愛情の表れなのでしょう」
呆気にとられて、私は美女を見つめた。
「はあ。とすると、私はもうじき死ぬのですか。文字通り、これは最後の晩餐ということですか?」
「だとしたら、あなたはどうされます? お帰りになりますか?」
「とんでもない。四年間も準備されたというのなら、なおさらそんなことはできません。たとえこのあとすぐに死ぬのだとしても」
「料理がもったいないから?」
「それはもちろんですが、主人のあなたに恥をかかせるわけにはいきませんから」
「お気遣い感謝いたします。しかし、本当に気に入らないのなら……」
「いいえ。これは私の信条なのです。昔、父と共に料理家の叔母を訪ねたとき、ケーキを出されました。ペパーミントとルバーブの味で、5歳の舌にはとても合わなかった。しかし父は頑固で躾が厳しい人でしたから、私は口の中の酸味と苦味に困り果てた末、ついに『不味い』と父に囁き声で訴えました。でもそれがうっかり叔母に聞こえてしまった。後から聞いた話、父はその叔母のことが大嫌いだったそうで、未だにこのことを持ち出しては嘲笑います。そのことがずっと私の心に引っかかっているのです。こんな思いを一生引きずるくらいであれば、私はルバーブケーキを無理やり食べてしまうべきだったのです」
片目の女主人はそっと手を伸ばし、私の前にあった前菜の蓋を開けた。そこにはまさにあのミントとルバーブのケーキがあった。
「これは……」
「今宵の前菜は、あなたの悔恨。これを最初に召し上がることで、あなたはこの先の
なんとまあ、全く記憶の中と同じ形、同じ香り。一体幾度、これが寝苦しい夜の悪夢の中に出てきたことか……いや、そうではない。悪夢の中で私が一番恐れたのはケーキなどではなく、悲壮と恥に歪んだ、あの日の叔母の顔だ。
「ええ。違いありません」
私は苦笑交じりにフォークとナイフを手にとり、一口大に切った悔いを口に入れた。思っていたよりも味がする。砂糖を使わない、野菜本来の甘み。子供の頃は酸っぱく苦いばかりで、まるで甘みを感じなかったのに。
「いかがです?」
「美味しい。思っていた何倍も。でもこの美味は、やはり今考えても、子供には到底理解できないものだったに違いない」
「そのようですね」
「ところでどうして渡し守たちは、あなたに寄付をするのです?」
「渡し守たちは何百年と生き、彼岸と此岸を行き来して多くの渡し賃をもらいますが、一切味覚をもちません。食事の必要がないからです。一通りの娯楽に飽いた彼らは『人間の食事』に興味を覚えました。それで、渡し賃がなく此岸をうろついていた死者たちの中から一人を選び、仕事を与えることにしたのです」
女は美しいアーモンド色の片目で私の食べる様子を眺めながら、言った。
「それはこの世で最も食を愛する美食家のために、完璧な晩餐会を催す仕事。渡し守たちはそれを眺めて、ただ夢見るのです——食とはどんなものかしら、と」
ケーキスポンジの最後の一口を丹念に咀嚼し、嚥下する。ワインを飲む。人生最大の悔恨の、そのほろ苦い余韻に浸りながら私は聞く。
「と、いうことは……私はまだ死なないということなのですね?」
「ええ。安心されましたか」
「いいえ、逆です。これは誤算だ」
「なぜです?」
「だって今完璧を味わってしまったら、この先は一体何を求めて生きたら良いんです?」
美女は最初からずっと夢のような微笑を崩さなかったが、客にそう言われると、さすがに困った顔になった。そのとても人間らしい表情に、私が笑ってみせると、彼女は私の意図をようやく理解して同じように笑った。
「申し訳ない。あなたを困らすつもりはなかった。でもこの世には、本当の意味で完璧なものなどないと思うのです。甘さとしょっぱさと酸味と苦味と辛味……これらを一皿で味わえる完璧な料理なら皆に求められる、というわけではない。だから料理は星の数ほど存在し、その組み合わせは無限になる。全てのものは、欠けているからこそ、違っているからこそ、無限の価値を生み出せるのだと感じるのです」
再び給仕がやってきた。佇まいは気品たっぷり、でもどこか気さくな笑みを浮かべている。銀のワゴンから漂ってくる美味しそうな香りに、こちらまで春の晴れた休日のような軽やかな心持ちになる。
「順番的に、次はスープとパンですね」
「ええ。中身は何だと思います?」
「順当に行けば『幸福』でしょうか。でもそれじゃ推測として安易すぎるかな。それにせっかく幸福が食べられるなら、できればメインディッシュで来てほしいものです」
「もし絶望や苦痛なら?」
「あなたの晩餐会だ、きっとそれも類稀なる美味でしょう。私はあなたを信じていますから。最後に聞いてもよろしいかな」
「何でしょう」
「どうして、私を選んだのですか? 私は確かに美食家を自称してはいるが、私なんかより有名で、世間的にも認められて、食に詳しい方なら他にいくらでもいたのに」
「それは簡単なことです」
給仕がスープ皿をサーブし、主人が新しいワインを足す。期待の眼差しで皿を見るのをやめられない。食欲がずっと増している。前菜があまりに素晴らしかったためだろう。いくら自制したとて、食欲の前ではこの世の誰もが、ただただ歓喜を待ちわびる犬に成り下がる。その事実もまた受け入れるしかない。
私はなけなしの理性を振り絞って女主人を仰ぎ見た。彼女はどこか見覚えのある、少女のように愛らしい笑みを浮かべながらグラスを持っていた。誘われるままグラスをカチンと合わせると、彼女は嬉しそうにこう言った。
「あなたの食事の時の顔が、誰よりも多彩で美しかったからですよ」
或る美食家の誤算 名取 @sweepblack3
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