それは海と約束の

椎名透

第1話

 僕、蒼空澪あおぞらみおが彼女に出会ったのは高校一年生の夏休みだ。

 補講も部活も、友人と会う予定も特になかった僕は、本当ならその日家から出るつもりはなかった。

 それなのに僕は、少し離れた海にいる。母に「少しは外に出なさい」と追い出されたのだ。

 そこは海水浴を楽しむ人であふれかえっていた。たいていの人は水着姿で、Tシャツにズボンという普段着の僕は少し浮いている気がする。靴もスニーカーだ。人の視線が気になって仕方がなかった。

 少しでも涼むため海の家に行こうと思ったのだが、すぐに予定を変更することにした。遠目からでもそこに水着姿の人ばかりいることがわかる。あそこに私服で突撃する勇気はなかった。

 運が悪いことに図書館は定休日だし、喫茶店に入るような金もなかった。ファーストフード店もこの田舎には存在しない。

 電車で高校近くまで行けば店はある。だが、涼むためだけそこまでいくのも気が引けた。

 そうなると、当ては個人経営の小さな商店と、この海の家のみになってしまう。悩んだ末に海に来たのだが、その選択を僕は後悔し始めていた。

 自分の服装が浮いているというのも理由の一つである。だが、それ以上にこの場所が扱った。海が近いのだ、涼しいだろうと踏んでいたのに、人の多さがそれを打ち消してしまっている。

「ちくしょう」

 一人悪態をついて、ふらふらと海岸の隅へと避難する。海の家からも駐車場からも離れた場所に向かえば人が少なくなるはずだ。

 その予想は当たっていて、人はだんだんと少なくなっていく。海岸の端の岩場までくれば、人影は全くなくなった。

 僕は濡れてなさそうな岩に腰掛ける。遠くの喧騒に混じって、ちゃぷん、と何かが跳ねる音がした。

 魚でもいるのだろうか、珍しい。そう思って振り返ると。

「なっにっ」

「しー! 静かにして!」

 ぴちゃん、と。尾を海面に打ち鳴らした少女が、口に指をあててそう言った。



「本当にびっくりした。まさか人間が来るなんて」

 私は岩場に手をついて、彼の顔を覗き込む。少年は「僕だってびっくりした」と顔をしかめてそう言った。

「あんた、なんでこんな場所にいるんだ」

「気づいたらこの海にいたの。だからここで暮らしてる。今のところキミ以外には見つかってないし、移動しなくてもいいかなって思って」

「……人魚、なんだよな」

「人間の言葉で言えばね」

 にこりと笑って私は彼に言う。人間が私たちのことを「人魚」と呼ぶのは、海に生きる魚たちから聞いて知っていた。人間と魚。だから人魚。初めてその言葉を聞いた時にずいぶんと納得したのを覚えている。

「人に見つかったのは初めてなんだよね」

 人間にとって自分が異端の存在であることも、魚たちから聞いていた。数年前にやってきた鮫には「俺はあんたを食わないが、人間はあんたを食うだろう」なんて脅されていたのだ。

 だから、彼と出会った瞬間は心臓が止まるかと思った。幸い彼は鮫くんが言っていたような「私を食べる人間」ではなかったから、安心だけれど。

「あっそうだ。キミは、他の人間たちに私のことを言うの?」

 人間は私と違っていっぱいいる。もし彼以外に私のことが伝わっているなら、それはちょっとまずいかもしれない。鮫くんが言っていた「私を食べる人間」も、その中にいる可能性がある。

 そう思って尋ねたのだが、少年は「言わない」と首を横に振った。

「もともと伝える気がないし、それに、誰かに伝えたところで信じてもらえない」

「どうして?」

「どうして、って……人魚なんて、実在するわけないからだよ」

「でも、私はここにいるんだよ」

「だから困ってるんだって……」

 そう言って少年は頭を抱えてしまった。人間の悩みはよくわからないが、彼が私のことで困っているのはわかる。「なんだか、ごめんね」と私は言った。

「なんで謝るんだよ」

「私のことで悩んでいるんでしょう? だから、謝らないといけないと思ったの」

「別に、あんたは悪くない。だから謝らなくていい」

 彼はそう言って、大きな息を吐きだした。それから「とりあえず、自己紹介」と言って私と視線を合わせる。

「俺は澪。蒼空澪。あんた、名前は?」

「……なまえ?」

 それは、初めて聞く単語だった。



 彼女には名前がないらしい。それどころか「名前」という単語の意味も知らないらしい。

「わたしは人魚。魚は魚で、鮫は鮫。それと同じで、キミも人間でしょう?」

 こてりと首を傾げた彼女は、真剣にそう言っていた。僕をからかっているわけではないらしい。

「それとも、キミは人間じゃないの?」

 澪って、初めて聞いた。そう彼女は笑う。

「違う、僕は人間だ。澪は名前で、人間は種族名」

「しゅぞくめい?」

「そう。生き物としての総称。……魚も、一匹じゃないだろ。たくさんいる。そいつらをまとめて魚って呼ぶと、一匹だけを呼びたいときにすごく困る。だから僕たちは、一匹ごとに呼び方を決めるんだ」

 うまく説明できた気はしない。けれど彼女は少し考えて「つまり、あなたは人間の中でも、澪っていう呼び方をされているの?」と言ってくれた。どうやら、なんとか伝わったらしい。

「そう。だから、僕はニンゲンって呼ばれるより、澪って呼ばれた方がうれしい」

「ふぅん。じゃあ澪って呼ぶことにするね」

 名前という概念を理解していないわりに、彼女はすんなりと呼び方を受け入れた。くるりと水に潜って一回転。再び顔を出して「みお」と僕を呼ぶ。

「何だ?」

「ううん、なんでもない。ただ、素敵な響きだと思ったの。みおって、いいナマエね」

 彼女はそう笑った。きらきらと太陽の光を受けた髪が輝く。

 笑顔の彼女はどこまでも綺麗だった。



「あっ! そうだ!」

 素敵なことを思いついて声をあげる。びくりと澪が肩を揺らした。

「ねぇ澪、私にナマエを頂戴」

 私にはナマエというものが存在しない。私は人魚でしかない。でも、澪がナマエをくれるなら、私は「わたし」になれるのだと思った。

「僕が、名前を?」

「そう。私のナマエ。私だけの呼び方。せっかくだから、澪にもらいたいの」

「……僕でいいのか?」

 不思議なことを澪は言った。「当然じゃない」と私は答える。私にナマエというものを教えてくれたのは澪なのだから、澪以外にナマエをもらうことは考えられなかった。

「そうか。でも、名前か……何がいい、とかあるのか?」

「すてきな響きがいいなとは思うかなぁ」

「響き、ってことは音か」

 手を顎に当てて、澪は小さく口元を動かした。何かを言っているようだが音にはなっていない。

 数分後、彼は「しぃ」と小さく音を立てた。

「しぃ?」

「そう。シィ。英語……別の国の言葉で、海っていう意味がある。あとは」

 澪が私を見て、一本立てた指を唇に寄せた。

「あんたのことを秘密にするっていう、約束だ」

 あっと私は声をあげた。

『しー! 静かにして!』

 そう叫んだ少し前の出来事が思い出される。澪はきっとそのことを言っているのだろう。

「そう、シィ。シィ……」

「気に入らないか?」

「ううん! その逆! 素敵な音!」

 シィ、と私は繰り返す。

 これが今日から私の名前だ。



 そうして僕は彼女と出会い、夏の約束を交わした。

 海のシィで、約束のシィ。

 それが、僕たちの永い友情の始まりだった。



 (執筆時間:2時間25分)

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