六十歳の高校生

水瀬すず

六十歳の高校生

 まだ少し肌寒い風の残る四月。

 絹川千歳きぬかわちとせは華々しい装飾を施された高校の門をくぐった。周囲では、少し大きめの制服に身を包んだ初々しい学生が、両親と共にその学校を背景に写真を撮っている。千歳はその側をゆったりとした足取りで進み、小さくため息をついた。

 ただでさえ重い体を引きづるように歩く千歳だったが、このときはより一層その歩みが遅い。千歳が歩くすぐ横を、今日から同級生になる人たちがまるでステップでも踏むかのように追い越していく。同級生たちは、瞬間千歳の顔を盗み見たかと思えば何も見ていなかったと言わんばかりに談笑に戻っていく。その気遣いとも無関心ともとれる態度に、千歳の心はざわついた。

 千歳と周囲の同級生を分け隔てたものは、ある一つの出来事だった。

 一九五二年「年齢計算ニ関スル法律」が修正された。それによれば、閏日に生まれた者は、四年に一度しか年齢を加算しないとされる。すなわち、閏日に生まれた者は、平年に生まれたものと比較して、歳を重ねるのが四倍ほど遅くなる。

 しかし、それはあくまでも法律上の話だ。法律上の年齢は変われども、肉体的な年齢は変わるはずもない。肉体的な年齢で言えば、閏日生まれの十五歳は、平年生まれの六十歳に相当する。

 こんな馬鹿げた法律がなぜ定められたのか、知る由もない。しかし、事実としてその法律は定められ、そして効力を持って、人々に適用された。

 これにより、閏日に生まれた千歳は、平年で換算し、二十四歳で小学校に入学、四十八歳で中学校に入学。そして今日、六十歳にて高校に入学した。

 壇上に立つ校長が入学の挨拶を述べるのを聞きながら、千歳は隣に座る同級生の様子を盗み見る。化粧もしていないのに艶がある肌、しっとりと潤いを見せる髪、ぴんと伸ばされた体のライン。そのどれもが、千歳とは対照的なものだった。

 長時間座る体の痛みに耐えながら、早く入学式が終わって欲しいと目を瞑っていると、ようやく式のすべてのプログラムが終了した。同級生たちがパイプ椅子から立ち上がるのに少し遅れて、千歳も立ち上がり、会場を後にする。

 入学式の後、教室に集合するまでに時間のあった千歳は、校庭に悠々とそびえ立つ桜の木の下へやってきた。ピークは過ぎたものの、まだその枝についた桜の花びらを見て、千歳は微笑んだ。穏やかな心持ちでその木に手を当てていると、不意に後ろから「あの」と声がかけられた。

 千歳が振り返ると、そこには制服の胸に入学用の祝い花をつけた一人の男子生徒が立っていた。千歳が「何か?」と答えると、その生徒は、千歳の顔を窺いつつ、意を決したように口を開いた。


「失礼ですが、貴方は閏日生まれ……の方ですよね。どうして、高校に入学されたのですか」


 男子生徒は申し訳なさそうに、しかし、それを聞かずにはいられないという様子で千歳の返答を待った。

 男子生徒の質問は至極もっともなものだった。閏日生まれの者で、高校に進学する数は極端に少ない。なぜなら、閏日生まれの者は中学校を卒業する時点で、平年生まれの六十歳に相当するからだ。小学一年を四年間繰り返し、小学二年を四年間繰り返し……、中学三年を四年間繰り返す。そんな気の遠くなるような日々を送って、ようやく義務教育を終えた閏日生まれの十五歳が高校に進学することなどほとんどなかった。肉体のピークはとうの昔に過ぎ、第二の人生を考える年齢だ。

 それなのに千歳は、高校に進学することを選んだ。

 だからこそ、男子生徒は尋ねたのだ。


「そうね。きっとまだ、知らないことがあるからでしょうね」

「知らないこと?」

「そう、知らないこと」


 千歳は柔らかい眼差しを男子生徒に向けながら、そう答えた。

 中学の卒業を間近に控えた千歳は、進学を悩んでいた。それも当然だ。同じ時期に入学した同級生たちが、社会に出て、家族を持ち、矢のように千歳の先を進んでいくのを幾たびも見てきた。そして、繰り返しのたびに新しい同級生たちが千歳を怪訝な目で見つめ、その同級生もまた千歳の先を進んでいく。自分は義務教育という名目に縛られ、それを後ろから眺めていることしかできなかったのだ。そのしがらみから放たれた今、再び教育機関に身を置くのは、合理的ではない。

 千歳もはじめはそう考えた。けれど、結果的に千歳はまた繰り返しの世界に自分から足を踏み入れたのだった。

 それは、千歳にはまだ知りたいことがあったからだ。


「六十年生きても、まだ知らないことってあるんですか」

「えぇ、もちろん」


 男子生徒は、自問するように小さく呟いた。

 わずかな沈黙が二人を支配したとき、一陣の風が校庭を吹き抜けた。それは、枝に残っていた桜の花びらを吹き飛ばし、二人の制服にもその残滓が吹き付ける。

 男子生徒は制服についた花びらを一枚手にとり、桜の木を見上げると、どこへともなく声を発した。


「そういえば、知っていますか。昔、とある偉い役人の娘が多くの男に求婚されたそうです。さぞ美しかったのでしょうね」


 唐突に紡がれるその言葉に、しかし、ひと回りもふた回りも生きてきたはずの千歳は口を挟むことができなかった。きっと、桜吹雪の中で語るその男子生徒があまりにも幻想的で、詩人のように見えたからであろう。千歳は耳を澄まして、風の中の一人の声に意識を傾けた。


「娘は自らの容姿を鼻にかけ、数々の男と毎晩のように遊んでいたそうです。そんなあるとき、親子が花見に参加して、桜の花を見て、娘は親にこういったそうです。『時が経ち、歳を重ねれば、私のこの美しさもいつかは失われてしまうのかしら。この桜の花のように美しいまま死ねればいいのに』と」

「それから?」


 千歳は男子生徒に先を促したが、男子生徒は首を振って「それで終わりです」と話を締めくくった。千歳は話の続きを期待していただけに、肩を落とした。けれど、すぐに我に返り、自分よりいくつも下の十五歳の語る話に過剰な期待をする方が馬鹿だったと自分を宥めた。

 ちょうど教室へ集合のチャイムが鳴り、千歳が教室に向かおうとしたそのとき、男子生徒が言い忘れたことがあったと千歳の背中を引き留めた。


「そうそう、その娘さんは閏日の生まれだそうですよ」


 それだけ付け足すと、男子生徒は早足に校庭を去って行った。

 一人桜の木のもと、取り残された千歳は「馬鹿馬鹿しい」と心の中で呟いた。だが、言葉とは裏腹に、千歳の皺が刻まれた顔は笑っていた。

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六十歳の高校生 水瀬すず @suzuminase

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