第26話 衝突①

 ハーゲスがアメジアに向けて投げ付けたのは、白い粉状の物体だった。

 腕の軌跡に添い、粉塵が舞う。


 ハーゲスはいつの間に取り出していたのか、口と鼻をハンカチで覆い隠していた。

 アメジアは反射的に腕で顔を庇うが、少しだけその粉塵を吸い込んでしまう。


(しまった。これはネクツ草の粉末!)


 すぐさまアメジアはそれが何なのか理解した。


 ネクツ草とは、眠気を誘う成分が含まれた草。

 この粉は、それを乾燥させ粉末状にした物、言わば睡眠薬だ。


 極少量でも猛烈な眠気を誘うそれを体内に入れてしまったアメジアは、間を置かず強制的に意識を遮断され、床にどさりと倒れ込む。


「素直に僕の言うことを聞いてくれていたら、こんなことせずに済んだんだけどね」


 ハーゲスは苦笑しながら、既に意識を失ってしまったアメジアに言葉を投げた。


「それにしても、遅いな」


 外した義足を再び付けながら、ハーゲスはぽつりと呟いた。

 いつも呼べばすぐに現れる水の精霊なのだが、まだ彼の所へ来る気配はない。


「そういえば風の精霊も一緒だったっけ。彼が邪魔でもしているのかな」


 かかとを軽く踏み鳴らして義足の装着具合を確かめると、ハーゲスは静かに立ち上がった。






 ウィーネの身体をおおっていた水が、長剣のような形態を取った。

 直後、リーズに向かって勢い良く飛んでいく。


 リーズはへたり込んだままのサフィアの身体を慌てて抱き上げると、身体にまとっていた激しい風をその水の長剣に向かって放った。


 バシュゥッ!


 水と風が衝突したその瞬間、空気が破裂したような大きな音が部屋に鳴り響く。


 ウィーネの放った長剣は形を崩し、霧雨きりさめの如く部屋に降り注いだ。


「くそっ――!」


 水の苦手なリーズの体を、雨が濡らしていく。

 それに怯んでしまったリーズは、動くこともままならず、その場に立ちすくんでしまう。


 続けざまにウィーネはリーズに向けて、今度は槍の形状をした鋭い水流を放つ。


「リーズ!」


 風の精霊の名を呼ぶ声は、サフィアのものだった。

 塞ぎ込んでいた少女はウィーネの攻撃を見て、そして水におののくリーズの顔を見て、心を奮い立たせたのだ。


「うああああっ!」


 叫ぶサフィアの背中から、大きな茶色の羽が再び姿を現した。


 サフィアはリーズの腕から離れ、羽を力強く羽ばたかせる。

 そしてすぐさまリーズの腕を抱えて上に飛んだ。


 直後、ウィーネの放った鋭い水流がリーズの立っていた床を抉った。


 ふらふらとおぼつかない飛び方をしていた昨日とは違い、サフィアのその姿は、非常に堂々たるものだった。


 まるで雄々しく空を駆け抜ける、鷹そのものの雰囲気。

 たった一日で、彼女は羽の使い方を自分のものにしていた。


 リーズはサフィアの腕からゆっくりと離れ、自力で浮いた。

 そして眼下から鋭い視線をぶつけてくる水の精霊を睨み返した。


「ごめん。ありがとう」


 己を叱咤するため、リーズは両頬を手で叩いた。

 今は水に怯えている場合ではない。


 リーズは隣に浮く少女を横目で見やる。


 彼女をどう呼ぶべきか一瞬迷ったが、『今』の名前で呼ぶことにした。


「サフィア。風は操れそうか?」


 水の精霊を見据えながら、リーズはサフィアに問いかける。


「うん。たぶん、大丈夫」

「なら時間差でいこう。俺の後に頼む」

「わかった」


 サフィアが頷くのを待たず、リーズは両手をウィーネに向かって突き出し、風を発動させる体勢を取る。


 リーズは、姉の風の精霊としての力がどれほど優れているのか、嫌というほど良くわかっていた。

 何しろ昔、ことあるごとに自慢のために見せつけられていたからだ。


 だからこそ、リーズは賭けた。


 この姿になっても、サフィアの――いや、姉の風を操る力は、自分を凌駕するはずだと。

 昨晩のように、圧倒的な力を出してくれるはずだと。


「風よ! 汝の猛々しさを突風に!」


 リーズが叫ぶと、鎌鼬を彷彿とさせる鋭い風の刃が、一斉にウィーネに襲い掛かる。


 ウィーネは腕を横一線に振る。

 刹那、水流が彼女の腕から生まれる。

 その水流の盾を前に、風の刃はあっさりと霧散した。


 だが、リーズの顔に動揺はない。

 最初から防がれるとわかった上での攻撃。

 水の精霊の霊力を、少しでも無駄打ちさせるためのものだった。


「お願い!」


 サフィアが手の平を天に向ける。

 瞬く間に彼女の頭上に風が集まり、それは球体となる。


 ほどなくして大人一人分の大きさになった風の塊を、サフィアは渾身の力を込めてウィーネに投げ付けた。


「小癪な!」


 ウィーネは再び腕を横に振り、水の盾を張る。

 だが風球はそれをものともせず突き進むと、ウィーネの全身を飲み込んだ。


「――――っ!」


 風球の中に閉じ込められたウィーネの身体を、鋭く変形した風が容赦なく襲いかかる。

 その様子はまるで、ナイフの飛び交う檻に閉じ込められたかのようだった。


 ウィーネの水色の肢体からは次々と鮮血が溢れ、檻の中の風に遊ばれて舞う。


 リーズは見たことのないその風の攻撃に、ただ目を見張る。リーズが想像していた以上に、サフィアの攻撃は強力だった。


 風球の中で成すすべもなく風に襲われていたウィーネは、力を振り絞り指先から小さな水の玉を出現させる。

 そして自分の足元に向けて勢い良く放った。


 放たれた水の玉は風球を突き破り、床にめり込んだ後すぐさま消滅した。


 水の玉が突き破った箇所から風が漏れ始め、瞬く間に風球も消滅する。


 だが、ウィーネは今の攻撃で身体に相当のダメージを負ったらしい。

 風球が消滅すると同時に、地に倒れ伏せた。


「あ……。ご、ごめんなさい。私、ここまで強力なものだとは思っていなくて……」


 サフィアはゆっくりと地に足を付けた後、小さな身体を少し震わせた。


(無自覚でこの威力の風を作り出すとか……)


 彼女の言葉に、思わずリーズは胸中で呟き、身震いする。


 改めて、姉の力の凄さを再確認する羽目になってしまった。

 自分が姉に追い付くにはまだまだ修行が足りない――。


 咄嗟にそんなことを考えるリーズだったが、すぐにハッと我に返った。


 今の内にウィーネを拘束しておかないと、また攻撃を仕掛けられて面倒なことになると踏んだのだ。


 まずはハーゲスを説得して、サフィアを諦めさせないといけないだろう。

 そうでないといつまで経ってもこの水の精霊は、ハーゲスの望み通りにサフィアを狙い続けて来るはずだ。


 どちらかの命が尽きるまでの攻防と追いかけっこをするつもりなど、当然するつもりはない。


「さて、とりあえず風の魔法で拘束して――」

「おやおや。またこの部屋を散らかしてくれたんだね」


 部屋の隅から突如聞こえてきた男の声に、リーズもサフィアも肩を震わせ、反射的にそちらへと振り返っていた。


 不適な笑みを浮かべたハーゲスの視線は、部屋一面を見回した後、サフィアの前で動きを止める。


「ハーゲス……」


 姿を現せた藍色の髪の青年に、リーズは思わず奥歯を強く噛み締めた。

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