お皿が割れたら呼び出して

葵ねむる

お皿が割れたら呼び出して

 好きな人が出来たから別れてほしい、とジュンが言った時の顔を、私は今でも覚えている。


 この前の出来事だからだろうか。おそらく違うだろう。だって私は、退勤直前に仕事を投げてきたつい2時間前の上司がどんな顔をしていたのか、ちっとも思い出せない。でもそのときのジュンのことは、表情ではなく、もっと細かな、手の動きや揺れた瞳、絞り出すように息を吐いたことまで、瞼の裏に描くことができる。あの時の彼は、思い出すと笑ってしまうほどに情けない顔をしていた。



「その人、コンタクトしてる?」

「…え?」



 でもそんな突拍子もないことをまず尋ねた私も、きっと同じくらい情けない顔をしていただろう。え、と繰り返して、その後に彼は、ええと、うん、日中はコンタクト。でも仕事が終わって化粧落とすとメガネに替えてる。縁がないやつ。と、モゴモゴしながら要らぬことまで付け足して話した。仕事が終わって化粧を落とす、ときまで一緒にいたことがあるのか。私と暮らしているというのに。終電逃してそのまま飲んでた、と昼過ぎにふにゃふにゃ笑っていた、どの彼がそんな嘘を吐いていたのだろう。



「…そっか」

「……ごめん、ほんとうに、ごめん。」



 相槌を打つことしか出来なかった私に、彼が弱々しい声で吐き出しながら、頭を下げる。そんなのいいよ、顔上げてよ。と言った私の声も、同じくらい弱々しかった。



「嫌いになったわけじゃなくて、…いや、というかこの数年間で嫌いになったことなんかないんだけど…」

「うん、大丈夫」

「… こういうこと素直に言わないでおくことも考えたんだけど、その、誠実じゃないというか…」

「うん、ジュン、もう分かったから」



 やんわりと手で制すると、彼はまた、ごめん、とちいさな声で漏らした。


「さて、色々と終わりにしよっか。どこか行くアテはある?てかその人の家に転がり込めばいいのか。」

「……まあ」

「そしたら、この後その人に連絡取ってくれる?出来るだけ早く荷物まとめてほしいな。だってもう、一緒に住んでるのも変な話でしょう?別れるんだから。うっかり忘れてる荷物があれば、そのときだけ連絡して。着払いで送るか、玄関のドアにかけておくから私が仕事行ってる間に回収しに来て」

「………わかった」



 はい、決まり!と手を一度叩いて、席を立つ。ほんとうはニッと笑いたかったけど、それは出来なかった。お願い早く、と心の中で願っていた。はやく、はやく目の前から今はいなくなって。わたしが堪えきれなくて、泣いたり怒ったりする前に。



 結局ジュンはその日の夜に私と住んでいた家から出て行くことになったのだった。机のうえに鍵を置いて、私たちは玄関で最後に話をした。

 息を吸う。ひと息ついて、ジュンの目を見つめて話す。


「…ちゃんとコンタクト、こまめに替えてね。2weeksなんだから、ズルズル使い続けたら目に悪いよ。あと、野菜…は食べるか。お酒とコーヒーばっかり飲まないで、ちゃんとお茶とかお水とか飲んでね。


 あと、…私がいないところで幸せになって」



 彼の顔が、一瞬だけくしゃりと歪んだように見えた。



「…そういうのいいから。俺の幸せなんか願ってくれなくていいから。頼むから、幸せになって」

「うん、ありがと。」


 じゃあね、と言ってドアを閉めてからのジュンのことは、私が玄関で声を殺して泣き崩れたことは、お互いにずっと知らずにいる。



 *



「…あの年の2月29日からもう2回目なのかあ」

「絶対言うと思った。」


 だって、とちいさく笑った私の頭を、孝介がやさしく撫でる。彼の大きな手が私を撫でるときの、あたたかな感触が好きだなといつもおもう。


「だって、ほんとうに辛かったんだよ。すっごく好きだったんだもん」

「それフツー夫に言う?」

「そういうことも話せるのが夫婦ですから」


 よく言うわ、と投げやりに言いつつも、彼の横顔はやさしい。


「思い出すなあ。初めて美和に会ったときのこと。自己紹介してあんなに嫌な顔されたのは後にも先にもない」

「それは、ごめん」

「まあ『死ぬほど好きだったのに振られた元彼の名前と一緒です』はインパクトあって良かったよ」



 孝介とは、ジュンと別れたあと友達の紹介で知り合った。第一印象は最悪だった。というのは、まあ、名前だけなのだけれど。でも、そんな失礼なことを言った私のことを笑い飛ばしてくれた彼だから、きっと今となりにいるのだろう。なんて、今更恥ずかしくて言えないけれど。


「でも、ありがとう孝介」

「ん?」

「孝介のおかげで、私にとって2月は好きな月になったから。」


 2月29日に生まれたから、閏と書いてジュンと読む名前のついた人が、むかし死ぬほど好きだった。わたしはきっと、何年経っても4年に一度のこの日だけはジュンのことを思い出すだろう。でも私は彼のことを思い出しても、もう心が痛まない。

 彼だってもしかすると、ふとした瞬間に私のことを思い出すかもしれない。それが、嫌なことがあった瞬間であればいいとおもう。たとえば彼女や奥さんと些細な諍いがあった時とか。たとえばお皿を割ってしまった時とか。「あの頃は良かった」と、手を離したことを一瞬だけ悔やめばいい。そういうときだけ、私のことを脳裏に呼び出せばいい。

でもそれ以外は幸せでいてほしい。だって私は今とても幸せだから。好きだった彼にも幸せでいてほしいから。




「でもやっぱりうるうって苗字の印鑑なさすぎて不便だわ」

「もともとの苗字が佐藤だからありすぎるんだよ、閏美和。いいじゃん綺麗で好きだよ」


 そういうことをサラリと言う、おなじ苗字になった夫と、来月のお花見の計画を立てるべく私はカレンダーを捲った。




 Fin.


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