初恋は枯れない
奈名瀬
初恋は枯れない
「今日で30歳になったよ」
さくらちゃんは笑いながら、しわくちゃな僕の手を握った。
彼女の手には結婚指輪がはめられて……銀に光る幸せに、なんと言えばいいのか迷う。
だから……『いつも通り』の言葉を贈った。
「僕は……今日で81歳になったよ。さくらちゃん」
◆◆◆
彼女にはじめて出会ったのは13歳の時だ。
入学式で見かけて、物語の中から飛び出してきたような綺麗な女の子だと思った。
だから、同じクラスになったとわかった時は嬉しくて――。
つい、自分を物語の主人公のように錯覚したんだ。
学ランに袖を通したばかりの高揚感も相まって、話しかけるのに大きな勇気はいらなかった。
でも……。
いざ話してみると、お互いに距離の縮まらない言葉を交わすばかりだった。
どこの小学校にいたか、中学生になったらなにをしたいか、なんて……とりとめのない話題が続いていく。
だけど――。
「ぼく、2月29日が誕生日なんだ」
――自分の誕生日を教えた途端、彼女の声色は変わった。
けれど……。
「私も! 同じ誕生日なの!」
嬉しそうに頬を緩め、机を乗り出して続けた彼女の期待を僕は裏切ることになる。
「あなたも、4年に1度しか歳を取らないの?」
二人の誕生日は同じだけど、僕達は……同じものではなかった。
◆
さくらちゃんに出会ってから4年後。
彼女が14歳になった冬、僕は17歳になった。
「やっぱり『先輩』って呼ばれるのってなんだかくすぐったいよ」
入部して来た新入生の話をすると、さくらちゃんがおかしそうに笑う。
「君、そう呼ばれるの苦手だもんね」
「……誰のせいだと思ってるんだよ」
僕だけが中学2年生になった3年前。
まだ13歳で、中学一年生だったさくらちゃんはことあるごとに僕を『先輩』と呼んでからかった。
でも、そうしないと……彼女は僕との距離をどう測ればいいのか、わからなかったのかもしれない。
「……あーあ」
「さくらちゃん?」
「……あたしが高校生になる頃にはもう、君は大人になって、どこかで働いてるんだろうなって」
「…………」
「もう、あたしは君を『先輩』なんて呼べないんだね」
僕達の歳はどんどん離れていく。
だけど。
「少し、羨ましいな……君の後輩達が」
出会った頃と何ら変わらない細い手をぎゅっと握りながら、二人の距離は確かに縮まっていると感じていた。
◆
「……ねぇ、こんな子供からもらっても嬉しいものなの?」
まだ15歳になっていないさくらちゃんが、僕を見上げてつんと唇を尖らせる。
バレンタインのチョコレートを受け取りながら「嬉しいよ」と答えるけど、彼女は「どうだか」とこぼしてそっぽを向いた。
そんなさくらちゃんの背中を見つめながら、胸の内で(こども……か)と、つぶやく。
彼女の姿は出会った時と左程変わらない。
肉付きは薄く、お世辞にも女性的な身体つきとは言えなかった。
だが。
「僕は、さくらちゃんからもらうチョコレートだから嬉しいんだよ」
それでもと、想いを言葉にして伝える。
「好きな人から、バレンタインにもらえたチョコだから、嬉しいんだ」
だって、少しでも気持ちを形にしないと二人の距離が簡単に離れてしまいそうで怖かった。
「……そんなこと言われて嬉しいのって――あたしがまだ子供だからかな?」
頬を赤く染めながらさくらちゃんが振り向く。
こどもというには不釣り合いな微笑みに、顔が熱くなった。
「えへへ。今年も、ちゃんとあげたんだから期待してるからね、ホワイトデー」
「うっ……今年はさくらちゃんの誕生日とホワイトデーが重なるからなぁ」
「期待してるからね」
「期待って……」
「だって、もう君は『大人』でしょ? 二十歳だもん。バイトだってしてるもんね」
「それは……」
不意に、いつもと同じ調子で紡がれた軽口が、深く心に刺さる。
こうならないようにと努力して来たつもりなのに……笑顔が、固まってしまった。
でも、それは彼女も同じだ。
「二十歳かぁ……長いなぁ」
ようやく……ようやく迎える15歳の誕生日を目前にして、彼女はもっと先の時間を見つめているようだった。
「……ねぇ」
「どうした?」
「……あたしが15歳になったらさ? 結婚、しようよ」
唐突なプロポーズに、思わず言葉を失う。
幸福感が溢れ、顔だけじゃなく胸の奥まで熱くなった。
だけど――。
「……さくらちゃん」
「今年の誕生日プレゼントは、指輪が良いなぁ。もちろん、おもちゃじゃないやつ……ね?」
――本当は、僕よりずっと年上な筈の彼女が見せた幼い笑顔の中に、年相応な後先を考えない恋心を垣間見て……何故か、危ういと感じてしまった。
◆
「ねぇ、高校生ってどんなのだった?」
少しはしゃいで見える彼女の質問に、10年近く前の記憶を手繰り寄せる。
けど――。
「どんなのだったって言われても……そりゃ、色々あったけど」
――正直、すぐには思い出せないことの方が多い。
だって、ぱっと浮かぶ思い出は全部さくらちゃんとの思い出ばかりだった。
でも、こんな心配事は彼女にとっては些細なことだったようで。
「あっ! やっぱり言わないで! 長年夢に見てきた女子高生だもんっ、自分で確かめることにするっ!」
さくらちゃんは質問を中断するなり僕の腕に抱き着き、にっこりと笑ってみせた。
「今からそんなだと先が持たないぞ?」
言葉通りの意味を込めた軽口を叩く。
なにせ、彼女はこれから12年間も女子高生をすることになるのだ。
だが、さくらちゃんは「わかってるよ」と言うなりネクタイを引っ張り。
「――っ!?」
僕の顔を引き寄せると、悪戯っぽく唇を奪った。
「…………」
「…………」
ほんの少しの間を空けて、彼女の顔が離れていく。
「……でもさ、女子高生なんだよ?」
熱っぽい眼差しを向けるさくらちゃんの指で指輪が光った。
「ねぇ……少しは、大人っぽくなったかな?」
こどもとは呼び難い今の姿に、思わず唾をのむ。
彼女の髪を撫で、頬に手を添えると……制服越しに重ねた体をそっと押し付けられた。
「……今日で、16歳になったよ」
「うん。僕は、今日で25歳になったよ……さくらちゃん」
そう。これから彼女は12年もの間、高校へ通うのだ。
そうしたら、さくらちゃんが卒業するころには僕は37歳……。
もう……終わりにするべきじゃないか? と、考えてしまう。
いや、たぶんもうずっと……そんなことばかりを考えていた。
この長かった初恋を、どこかで、いつか……いま、終わらせなければいけないのだと。
「ねぇ、さくらちゃん……――」
◆◆◆
誕生日を迎える度に思い出す。
自分の初恋を。
そして、歳を重ねるごとに『彼女は今、いくつだったろうか』と、指折り数える。
まるであやしい儀式にも似たこの習慣は「僕は今日で――歳になったよ」という言葉で締めくくられていた。
………………。
…………。
……。
「――さん、起きてください」
介護士の声に起こされ、億劫だがまぶたを開く。
すると。
「お客さんが来ていますよ」
そこには……僕の、初恋が立っていた。
「……久しぶりね」
「……うん。久しぶり」
「誰だか、わからなかっただろう?」
介護士が退室し、二人きりになった途端そんな言葉が口をついて出た。
努めて冗談ぽくいう僕に、彼女は寂しげに笑う。
「君だって……あたしが誰だかすぐにはわからなかったでしょう?」
直後『まさか』と返そうとして、口元がほころんだ。
そうか……君も、僕と同じだったんだ。
それから、彼女は「ふふっ」と声を漏らすと、楽しそうに声を紡ぐ。
「今日で、30歳になったよ」
その懐かしいフレーズに、返すべき言葉を迷うことはなかった。
「僕は……今日で81歳になったよ。さくらちゃん」
「知ってる。だって毎年、君の誕生日を数えていたもの」
「僕もだ。でも……」
「なに?」
「君が……こんなに美人になっていたとは、思わなかった」
カビでも生えていそうな軽口を、彼女がおかしそうに笑う。
「今なら、若い子はみんな美人に見えるんじゃない? 『おじいちゃん』?」
予想しなかった切り返しに、僕は咳き込みながら笑った。
「変わらないなぁ、さくらちゃんは」
「『先輩』の方が、良かった?」
「いや、それもおもしろいかもしれないけど……僕はやっぱり『君』って呼ばれるのが、一番好きだったよ」
本当は僕より年上なはずの君が、心は幼いまま……生きてきた年月相応に振る舞おうとして、どこか寂し気に僕を呼ぶのが、今思えば好きだった。
「……ねぇ『今年の誕生日プレゼント……指輪が良いな』」
「さくらちゃん……」
「『おもちゃじゃないやつ』」
「……」
甘い、後悔に襲われる。
未練たらしく薬指にはめていた指輪を撫で……それから、無理やり小指にはめていた彼女の指環を隠すように指で撫でた。
僕は、あとどれほど此処にいられるだろう。
刹那、そんなことを考える。
まだまだ長い時を生きる彼女に比べて、ほんの瞬きのような時間を……あと幾日過ごせるだろうか?
「ぼくは……自分よりも君を幸せにできる人がいると思って、今日まで生きてきたよ」
「あたしも……君のその考え方が、きっと正しいんだと思って生きてきた」
震える指で指環を抜き取り、彼女に贈る。
すると、さくらちゃんはまるで少女のように頬を赤らめた。
「今日で30歳になったよ」
さくらちゃんは笑いながら、しわくちゃな僕の手を握った。
彼女の手には結婚指輪がはめられて……銀に光る幸せに、なんと言えばいいのか迷う。
だから……『いつも通り』の言葉を贈った。
初恋は枯れない 奈名瀬 @nanase-tomoya
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