奇跡探しの敗走劇
せち
第1話 三日目の邂逅
—————メーデー、メーデー。
色んな人の心配を振り切って、本部を出てからわずか三日。私の頭の中では既に非常事態を告げるサイレンが鳴り響いていた。これ以上ないくらいのピンチに見舞われるには早すぎる、はっきり言って理不尽だ。
「やあ、こんにちは」
どれだけ頭の中で現実逃避をした文句を並べたところで、緊急事態に変わりはない。私の目の前には、爽やかに挨拶をしながらにこりと微笑む男性。それだけ見れば大変に平和的な光景だ。だけれど、今この状況では。
「お、降りてくださいっ………!」
「ダメだよ、俺いま、君を脅してるんだから。あ、これ上手くできてる?俺死にすぎて怒られちゃって、何か言う時はまず相手の動きを止めろって言われてるんだよね」
どうかな、動けない?と聞かれて、ひたすらに首を縦に振ることしかできない。
仰向けに倒れた私のお腹の上に載った青年は、長い脚で私の足を抑え込んでしまったし、両手もいとも簡単に彼の片手でまとめられてしまった。抵抗のために身をよじることくらいはできるが、彼を突き飛ばして逃げることは不可能なくらい、圧倒的な制圧だ。
「そっか、よかった」
私が動けないことを確認して、うっそりと微笑む青年。男性に押さえつけらて逃げ出せない状況、それだけでも絶望的なのにもっとまずい理由は、この人がきっと人間ではないということで。
「何が目的ですか!」
「君は話が早くて助かるなあ」
「私、あなたにあげられるもの何も持ってないですよ!」
怖くて震える喉を振り絞って、唯一自由にできる声で威嚇する。
「私はただの人間です!魔法使いのあなたに差し出せるものなんて、何もないんです!」
言い切れば、青年の三日月みたいに細めていた目が真ん丸に見開かれた。
「あれ、君、人間なのに俺が魔法使いって分かるの?」
「だって服装が………」
着ているものは普通の服だ。少しぼろぼろのような気もするけれど、物資が乏しい今はそんな恰好の人はいくらでもいる。だけど彼の特徴的だった部分は、右目にツートンカラーのリボンがかけられて隠されていたことだ。眼帯の代わりなのかもしれないが、さすがにそんな恰好をしている人はこれまで見たことがない。それに何より、仄暗いものを隠したような笑い方が、明確に人間とは異なっていた。
「あー、そっか。結構なじんできたと思ったんだけど、まだ目立つんだね、俺。それとも、君が鋭いのかな」
鋭かったところで何かが変わるわけではない。彼が魔法使いだと分かったところで、圧倒的に不利な状況を覆せるわけではないんだ。
「まあいっか。そんなことは」
ほらね、こうやって彼があっさりと終わらせてしまえばそれで終わる、その程度の動揺だ。ああもう、私は何をやっているんだろう。
にこりと微笑む青年を前に、私は圧倒的に無力で。探していた魔法使いにやっと会えたのに、命乞いをする暇さえない。
あの子を救うために外に出たのに、これじゃあ結局何もできないままの役立たずの私のままで。嫌だなあ、こんなところで、終わってる場合じゃ————。
「………いたっ」
不意に。青年が私の上からどいた。
「えっ、」
少し私から距離をとって、鼻のあたりを抑える青年を目視して。数秒ぶりに圧迫感なく空気を吸って。何が起きたか分からないなりに、咄嗟に体を起こして魔法使いから距離をとる。魔法使いを相手にして、これっぽっちの距離をとったところでどうにかなるとは思えないけど。こういうのは気持ちの問題だ。相手は私たちの世界のあらゆるものを破壊しつくしたんだから、私みたいな小娘なんて、指一本で殺せるんだ、きっと。
「………ああ、なんだ。君のせいだったんだね」
冷えた声が鼓膜を揺らす。慌てて顔を上げると、青年が片手に何かを掴んでいた。
「何、君もしかして、この子を守ろうとでもしてたの?」
「あっ!」
彼の手に掴まれていたもの。尻尾を掴まれて、じたばたともがいている小さなシルエットは、どう見ても。
「ネズミ………?」
「ネズミだね、君のペットじゃないの?」
不思議そうに首を傾げるリボンの青年と、その指に尻尾を掴まれて甲高い声で鳴くネズミ。どこからどう見てもネズミだ、うん。
「え、えっと、私のペットでは………」
「そうなの?俺の顔に思いっきりぶつかってきたから、君の使い魔かと思ったよ」
「………」
朗らかに笑ってくれるのはいいけれど、この人は少し常識がずれているのだろうか。私は純度百パーセントの人間なんだから、使い魔なんて使えるわけがない。
「うーん、でもとりあえずは、これでいいや」
「へ?」
私にもよく見えるようにネズミを持ち上げて、青年はにこりと微笑んだ。逃げた私を追いかけることもせず、満足したように。
「本当は君を脅して食べ物もらうつもりだったんだけどね?運よくネズミも捕まえたし、これでいいよ」
………いまこの人、なんて言った?
「お、お腹空いてた、だけなんですか………?」
「だけって。人間の三大欲求だよ、食欲。食べないと死んじゃうんだから」
「で、でもネズミ………」
「ネズミだって食べれるし、大事な栄養源だよ。雑食だから味はタンパクだけど………もしかして君、お腹が減って死にかけたことないでしょ」
上を向いた青年が、ネズミの尻尾を掴んだまま口の上に持ち上げる。暴れるネズミの抵抗なんて意に介さないとでも言うように、濁った眼だけが私をとらえて細められた。
「辛いんだよ、あれ。死にたいのに死ねない、ただひたすらに苦しくて、虫でもネズミでも口に入ればなんでも食べる。右も左も地獄みたいな光景なんだよ」
「そんな経験は………」
「うん、君たちはそんな経験ないんでしょ?羨ましいなあ、この世界は。さて」
——————いただきます。
いくらお腹が減っているといっても、まだ生きているネズミだ。生の、ネズミ。
「食べ物ならあげますから!食べないでください!」
私の声に開きかけた口を閉じて。青年は、首を傾げた。
※
本部の人たちは、生活の足手まといにしかならない私にもとても優しかった。体が動くようになるまで、自分では動けない私の世話をしてくれて。夜になれば悪夢にうなされて泣く私に付き合って夜通し話を聞いてくれた人もいた。
それはここから出て外に行く、と行った時も変わらなかった。散々引き留めて、私の意思が変わらないと思えば、数週間暮らせるだけの食料を少ない備蓄から分け与えて送り出してくれた。
————その時に渡された大量の備蓄が、今、私と青年とついでに鼠を助けてくれたのだ。
「おいしいね、これ。なんていう食べ物?」
「ただの乾パンです」
「へえ」
数分後。地面に置きっぱなしにしていた荷物の中から、いくらか食料を出して青年の前に出せば、彼は目を輝かせて喜んだ。暴れくるっていたネズミはあっさりと手放され脱兎のごとく逃げていき、割れたアスファルトの上に二人で座り込んで青年と一緒に夕ご飯を食べる奇妙な状況が生まれてしまった。
もちろん、この魔法使いに対する恐怖がないかと言われれば、そんなことはない。依然、正体不明の魔法使いは怖い。けど、どうしてかあまり逃げる気にはなれない。
「これは?」
「缶詰のフルーツです………ああっ、待ってそのままじゃ食べれないです!今缶切り出すからちょっと待ってください!」
平たい缶を片手に首を傾げた青年が、そのまま躊躇なく大きな口を開けたので慌てて取り上げる。だって缶詰!いくら魔法使いで人間の世界のことを知らないといっても、限度がある!手に持てば明らかに噛み切れない強度であることは分かるはずなのに、どうしてそのまま口に運ぼうとするの!
………でも、ネズミだって生で食べようとしてたしなあ。魔法使いの常識、もしかして理解不能なのかもしれない。
「………ありがとう、食べ物を分けてくれて」
慣れない缶切りに四苦八苦していれば、不意に青年がこちらに声をかけた。
「君だって無限に食べ物持ってるわけじゃないのに、優しいね」
「………」
目尻を下げて笑った顔に拍子抜けして、思わず私もちょっと困った顔で微笑んでしまった。
————この人は魔法使いだ。私たちの世界を再起不能に追い込んだ種族、民族だ。
それなのにどうして、この人は分け与えることを優しいと形容するのだろう。蹂躙する側の人間が、当たり前に分けられることに感謝するなんて、想像もしていなかった。
「………はい、空きましたよ」
「果実?おいしそうだね」
青年の興味はすぐに食べ物にうつったから、この話題について詳しく追及されなくてほっとした。能天気で天然に見えて、この人は私の心を読んだような、人を食ったような発言を繰り返すからどうにも得体が知れない。
でも。
「甘い………おいしい………」
「缶詰でそんなに喜ぶんですね………」
いっそ感動したように缶詰の桃を頬張っている顔だけは、子供みたいに無邪気なんだから調子が狂っちゃうなあ。
「ところで君、なんでこんな所にいるの?人間って、大体まとまって生活してるって聞いたけど」
「唐突ですね?」
食料を出すために中のものをほとんど出してしまったので、鞄に荷物を詰め直している最中の私に、今更の疑問を投げかけてくる青年、改め魔法使い。
「私、魔法使いを探してるんです」
「え?そうだったの?」
「あ、魔法使いなら誰でもいいってことじゃなくて」
一つ息をついて、手を止めて。青年の顔を正面から見れば、相変わらず何を考えているのか分からない曖昧な笑みを浮かべていた。
「—————私の友達を治してくれる魔法使いを、探しているんです」
昔の話をしよう。私の友達は、それはそれは素敵な子だったのだ。私には勿体ないくらい、優しい人だった。
誰かを助けることが得意で、私も何度も救われた。でも不器用で、自分のしたことを周りに言ったりはしない、澄んだ湖みたいな落ち着いた人で。
—————それなのに。そんな彼女は今となっては見る影もなく。
「………がらんどうみたいって、言えばいいんですかね」
言いながら、不思議に思う。どうして私は、名前も知らない魔法使いの青年にこんな話をしているんだろう。だってあの世界滅亡がなければ、少なくとも、彼女があんな風になってしまうことはなかったのに。魔法使いは憎むべき相手であるはずなのに。
「身体は………健康とは言えないけど、ちゃんと生きてるんです。でも何を言っても反応してくれなくて。ご飯も食べれなくて。このままだと、身体も死んじゃうんです、きっと、全部私が逃げたせいで、」
「………誰も治せなかったの?」
「聞いては、みたんですけど………」
誰に聞いても同じだった。本部にだって数は少ないけれど魔法使いはいた。何回も彼女を助けてほしいと頼んだ。それでも答えはいつも、申し訳なさそうな一言だった。
「『ごめんね、俺にはどうにもできないんだ』って」
魔法使いに治せないなら誰にも治せない。それは分かっていた。でも、それなら。誰にも治せないなら。あの子は。
「このまま、何も分からないまま、弱り切って死んでいくのを、見てられないんです、私は」
魔法使いがいるのなら、魔法が存在するのなら奇跡だって起きるかもしれないじゃないか。「彼にできなければ誰にもできない」と、他の人は言った。魔法使いが快く人間を助けてくれるわけがないと、誰もが言った。
それでも私は————私自身のために、あの子を見捨てるわけにはいかなかった。
「だから魔法使いを探して………あの子を助けることができる魔法使いを、探そうと、」
声が震える。目の奥が熱い。視界が滲む。握りしめた拳が痛い。ぼやけた視界の向こう側で、魔法使いと名乗る青年がどんな顔をしているかも分からない。
ああ、情けない。みっともない。
何が起きたとしても、あの子はこんな風に泣いたりしなかったのに。私だけこんな風に泣いていたら、卑怯じゃないか。泣くこともできなかったあの子を助けるために、強くあろうと決めたのに。自分の覚悟をあざ笑うように、涙は零れて止まらない。
「君は変わってるね」
そんな軽い言葉とともに、ごしごしと頬をこすられる感触。うつむく顔を上げれば、かすかに笑みを浮かべた青年が服の袖で私の頬を拭いていた。服越しのぬくもりが、魔法使いも生きている人間だという当たり前の事実を伝えている。
「人のためにそんな風に泣くんだね」
違う。人のためじゃない。それもこれも全部、私自身のためなんだ。私は————私の罪を消し去ってしまいたいだけで。
「それなら、俺が手伝おうか」
「————え?」
まじまじと青年の顔を見つめれば、相変わらず何を考えているか分からない笑顔だ。この胡散臭い笑顔以外の表情は知らないのかと不思議に思うくらい、不自然な魔法使いが、これまで誰も成しえなかったことをしてみせると、簡単に言い放つ。
「俺はそんな大層な魔法、使えないんだけどさ。知り合いにそういうことできる魔法使いがいたから、連れてってあげようか?」
「それは………」
またとないチャンスだ、と思う頭の片隅で、それで大丈夫なのかと警報が鳴る。この人は魔法使いだ。私には理解できない行動をする。私にはない常識を持ってる。だけど。
「………お願いしても、いいかなあ?」
青年の真似をして、へらりと笑ってみた。涙のせいできっとすごく情けない顔だ。頭の中の警報も鳴りやまない。
だけど私には、悩んでる時間も格好つけてる時間もない。「いいよ、任せて。食べ物を分けてくれたお礼だから、さ」
目の前で底知れない笑みを浮かべるこの魔法使いに、願いを託すしかない。そうしないとあの子を助けれないと言うのなら。ううん。
————私の命と引き換えにあの子が生き永らえるのであれば、それが最善なのだ。少なくとも、私にとっては。
「じゃあ決まり!これからよろしくね、えっと………俺はキョウっていうんだ」
「私は紅!ありがとう、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げれば「こんな風に頼られたのは初めてだなあ」と眉を下げて笑う青年、改め「キョウさん」。彼がどんな魔法使いなのかはもちろん、どんな人物なのかも分からない。それでも彼が私の求めていることを知っているというのは誤魔化しようのない事実だ。
「それじゃあまず、魔法の世界に行かないとね。紅、歩くの得意?」
「………へ?」
そうやって覚悟を決めたはずなのに、キョウさんが笑顔で突拍子のないことを聞いてきたので思わず呆けた声が口から飛び出してしまった。旅は始まったばかりだけど、私、ちゃんと魔法使いと旅できるのかな。意思の疎通が難しすぎるかも。
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