2.思想は簡単に死ぬ
何かを語るなら作品の中で。
そのように考えていた時期が私にもありました。
いや、何かをべらべら語るトモダチと呼べるトモダチが五人ほど居りまして、その五人にはグループチャットなどでべらべらと話したりしているのですが、ここで書くのはそんな身内以外の本当の外側の世界への語りです。
語りたいことの中には極めて内輪向けの内輪ネタ絡みの話と、外向けの話があります。
私、ツイッターをやっているのですが、外へ向けて自分の創作論的な内情を打ち明けることは、あまりしないようにしていたんですね。
理由は単純です。
蛇足だと思っていたからです。
創作者のはしくれであるならば、創作物こそが自己であり、書き手の個人は裏方でしかないと思っていたんですね。
では。
なぜ本書を書くに至ったのか。その理由の一つを開示していこうと思います。
先述した通り、創作物こそが自己であり、書き手の個人は裏方でしかないと思っていた私は思想の全てを創作物に投影しようとしています。それ自体は今現在も変わりません。
ただ、それだけでは適切に表現し切れないことがあるのだと思い至った。とでも書いておけば、多少聞こえはいいでしょうか。
たとえば。
たとえばですよ?
私、下ネタって結構すきなんですけど、ツイッターでちんちんおっぱいうんちとか開けっぴろげに呟くノリがサムいと感じてしまうタチなんです。
もっと詳しくいうと、いい大人がこんな子供みたいなこと言ってるぜへへへっていうノリを外側に出すのがサミィってことなんですよ(140キロくらいのストレート)。
大人には大人のふざけかたがあり、ともすればもっとナイズドな下ネタがある。なんか話逸れた。
戻します。
自己の思想を創作物に全部入れ込もうとしていた私は、あるとき壁にぶつかりました。
思想全部出すまで果たして生きているだろうか、と。
たぶん、いや無理なんですよ。絶対。
根性論はすきなんですけど、これは絶対ムリ。
話の内容に内輪向けと外向けがあるように、思想のそれにも同様の区分けがあると同時に、創作物にして面白いかどうかという問題もあって、私は結果的に書きたい内容を吟味して創作物に練り込む思想と、なにか別の媒体で放出する思想とを分ける形態を取ることにしました。選択です。
本書はその、なにか別の媒体で放出するものの一つということです。
思想はいつまでも所持者の中に存在し続けます。思い続けられるのなら。
でもムリなんですよね。永遠に生きるなんて。
だから創作物として使いたい思想を選んで形にする。それ以外は何か別の方法で。形にならなかった時点で死ぬ。
なんでもそうですけど、たとえ有るとしてもそれが認識されてないのなら無いのと一緒なんですよね。
観測されるために創作する。観測されたら存在する。
永遠に生きられるとしたら、と聞かれたらまた別の話ですけどね。
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