第32話
一八四六年、徳川慶恕の差配する交易は順調だった。
前年の純利益は千二百四十三万にもなっていた。
本当はもっと利益があったのだが、反射炉の建設、大砲の鋳造、南蛮帆船の建造、各種酒類を醸造するための穀物の輸入、俵物を購入するための穀物に輸入など多くの経費や研究投資や武器生産を行ったので、純利益が減っていた。
だがその投資や武器生産のお陰で、江戸と尾張派諸藩領は好景気となっていた。
貧しい諸藩から部屋住みや浪人、困窮する民が集まってきた。
蝦夷地を領地として認められた尾張家は、その部屋住みや浪人の人品と武芸の腕前を確かめ、番方や役方を務められる者は江戸や尾張に残し、それなりの者達は郷士として蝦夷と樺太の開拓に送った。
困窮する民は無宿人となって江戸に入るので、非人頭に集めさせ、北方開拓人足として蝦夷と樺太に送り込んだ。
「大納言殿。
どうか銈之允殿を会津藩の養嗣子にもらいた」
「頭をお上げください、靱負叔父上。
そのように頭を下げていただかなくても、靱負叔父上の元になら喜んで銈之允を送り出させていただきます」
陸奥国会津藩八代藩主・松平容敬が、甥の徳川慶恕に深々と頭を下げていた。
そうなのだ、実はこの二人、血の繋がった叔父と甥なのだ。
松平容敬は公式には松平容住が父親とされているが、実は徳川慶恕の祖父・松平義和が父親で、徳川慶恕の父・松平義建の弟なのだ。
その松平容敬が会津藩を継いだのには理由がある。
会津藩は一八〇五年に、松平容頌と松平容住の二人の藩主を同年に亡くすという、とてつもない不幸に見舞われた。
後を継いだのは、たった三歳の松平容住の長男・松平容衆だった。
乳幼児死亡率が高いので、非常事態に備えなければいけなかった。
だから、水戸徳川家の部屋住みから高須松平家をつくことに決まった、松平義和の三男・松平容敬を松平容住の実子としてもらい受けたいと、会津藩家老田中玄宰が願い出てかなえられていたのだ。
そして田中玄宰に不安は的中した。
松平容衆が子をもうけることなく二十歳で亡くなってしまったのだ。
そこで松平容衆の弟とされている松平容敬が、一八二二年に会津家を継ぐことになったのだが、不幸にも松平容敬は男児に恵まれず、娘の敏姫がいるだけだった。
松平容敬は懊悩していた。
名門会津家を自分の代で潰すわけにはいかない。
しかし藩祖・保科正之公以来の会津藩家訓がある以上、養嗣子の実家は厳選しなければいかない。
自分のように幼児の頃から家訓を叩きこまれた人間ならばともかく、将軍家よりも皇室を優先するような、水戸徳川家系の子供を養嗣子には選べない。
だがここに甥の徳川慶恕が彗星のごとく現れた。
水戸系とは思えぬ将軍家を立てる姿に、会津藩の養嗣子は徳川慶恕の薫陶を受けた弟達しかいないと考えた。
敬神崇祖からくる皇室尊崇、儒教をもとにした「義」と「理」の精神、そしてなにより会津藩家訓である武家の棟梁たる徳川家への絶対的な忠誠、これを複合させた会津藩家風は、甥達にしか継がせられないと思った。
だが、甥達が次々と他家の養子に決まり、養子先が決まっていないのは銈之允だけとなっていた。
自分の娘・敏姫との年頃もあう。
徳川慶恕に庶子がいる事は知っていたが、尾張家の事を考えれば、そう簡単に養子に出してくれるとも思えない。
だから急いで、頭を下げてでも銈之允を養嗣子に迎えようとしたのだった。
だがこれは徳川慶恕の望み通りでもあった。
将軍家に絶対的忠誠心をもつ会津藩、これに勝る味方はどこにもいなかった。
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