第31話

「大納言殿、いったい何事でございますか?」


「わざわざ来ていただき申し訳ない、掃部頭殿」


 徳川慶恕は、大老井伊直亮と井伊直弼を尾張家の上屋敷に招待した。

 井伊直亮と井伊直弼は戦々恐々としていた。

 これが井伊直亮と世子の井伊直元ならば、井伊家当主と後継者を迎えて親睦を深めようとしていると考えられた。

 実際に井伊直亮の代理として、井伊直元は徳川慶恕と行動を共にしたことが何度もあったのだ。

 それが部屋住みの井伊直弼と一緒に呼び出されると、島津斉興と調所笑左衛門の一件が思い浮かぶのだ。


「埋木舎殿。

 長野主膳に師事しているというのは本当かな」


「はい、大納言様。

 確かに長野主膳殿に教えを乞うています」


「埋木舎殿。

 貴君が尾張大納言の立場ならどうかな。

 尊王の志が強く、いざという時は徳川家よりも皇室に味方して戦えという国学者に師事している者を、井伊家の後継者にしたいかな」


「恐れながら大納言様。

 井伊家の世継ぎは中務兄上で、私は単なる部屋住みです」


「だが世継ぎが当主より若くして死ぬ事はよくある。

 埋木舎殿が部屋住みならば、井伊家を継ぐ可能性はあるのだよ」


「大納言様は、私には何があっても井伊家を継ぐ資格がないと申されるのですか」


「埋木舎殿が長野主膳に師事した以上、将軍家の藩屛たる私はそうする責任がある。

 だが同時に、埋木舎殿をこのまま世に出さずに埋もれさすのは惜しい。

 どうかな、尾張家に仕えないか?」


「私を尾張家で召し抱えてくださるのですか」


「このまま世に出る事もなく、花も咲かさず埋もれていくのが嫌で、埋木舎と名乗っているのであろう。

 石高は千石。

 南蛮帆船を任せよう。

 北は沿海や蝦夷地、南は清国やジャカルタまで交易に向かい、広く世界に羽ばたいたらどうだ?」


「本当でございますか。

 本当に私に南蛮帆船を任せてくれるのですか」


「ああ、任せよう。

 その代わり戦のない時は北前船以上に稼いでもらうし、南蛮が攻めてきた時は、南蛮帆船を指揮して迎え討ってもらうぞ」


「望むところでございます。

 井伊家の漢として、将軍家の先陣を務めるのは本望でございます」


 徳川慶恕と弟・直弼の話が終わったのを見計らって井伊直亮が恐る恐るたずねる。


「大納言殿。

 先ほど言われていたように、世子・直元に何かあった時は、井伊家はどうなるのですか」


「心配には及びません。

 中野家に養子に入っておられる中顕殿の養子縁組を解消すればいいのです。

 その事は上様にも申し上げて許可を頂いております。

 中顕殿なら三人も男児が生まれ健康に育っておられる。

 まだ子のいない直弼殿よりも、井伊家の跡継ぎにはふさわしいのではないかな。

 まあ、玄蕃頭殿に何事もなければそんな心配もいらぬのだがな」


 

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