第10話 真坂野勇者とあいくる椎名従者
何かが目に見えて変わったわけではない。だから俺には、勇者になったとか、チートな雑誌を定期購読することになったというような実感はまだない。それどころか、うっかり者なのかもしれない。財布を取り出したりするゴタゴタで、俺は生徒手帳を落としてしまったみたい。そんなことには全く気付かずコンビニを出ようとした。脚が震えるぜ! そのとき、俺を呼び止める人がいた。
「あの。お、お待ち下さい! 勇者くん」
俺はそのあいくるしい声に思わず振り向いた。あいくる椎名だ。俺の生徒手帳を持っていた。落としたのを拾ってくれたみたい。生徒手帳に挟んでおいた生徒証の俺の氏名は、真坂野勇者になっていて、それを呼んでくれたんだ。
「勇者くんだって、がははははっ!」
野太い声がせせら笑いながらそれを野次る。まぁ、俺だってそうするよな。目の前の弱そうな高校生が勇者を名乗るんだから。そう。俺は勇者だけど、それは名ばかりなんだから。
「いけませんよ、ミラク店長! 名前をバカにするなんて」
「そうだったね。あたしも椎名もそれで苦労したんだよね。がははははっ!」
あの女店長美楽は、ミラクって読むんだ。おかしな名前だよな。でも、俺も名ばかり勇者じゃ同類か。それにしても女店長美楽のやつったら、諭されてるのに全然反省してないな。
「そうですよーっ! ジュウだなんて、他にいないもの」
「隷従しろとか、従業員になれとか、いろいろ言われたんだよね。がははははっ!」
「もぉーっ! どさくさに紛れて揶揄わないでくださーい!」
あいくる椎名は、女店長美楽をグーでポカポカと殴った。あいくるしいぜ。けど、女店長美楽のお陰で、俺はあいくる椎名のファーストネームを知ることができた。従か。いっそのこと、俺の従者になってくれれば良いのにな、なんてね。
俺は自分でも気付かないうちに緊張していたみたい。これから、本当に異世界に行くかもしれないんだからな。けどこの出来事でそれが解れた。あいくる椎名は俺に近付き、生徒手帳を差し出した。
「これから、異世界ですか?」
「はい。まぁ、そんなところです……。」
「良いなぁーっ! 私も1度で良いから行ってみたいわ」
「そ、そうですよねー!」
連れてっちゃおっかなーって思った。俺にもう少し勇気があればそうしていたかもしれない。けど、今の俺は名ばかり勇者。そんなことはできない。
「あっ、そうだ!」
俺は、あることを思い出して、財布を取り出した。たった1枚残っていた10円玉。それが今、役に立つ。俺はそれを、あいくる椎名に差し出した。
「良かったらこれ、使って下さい!」
「まっ、まぁ……。」
あいくる椎名は、恥ずかしがっていた。あいくるしいぜ!
「おや、それは私が使ってたやつじゃないのか」
「そ、そうですか?」
やばい。俺、べったり触っちゃったよ。ばっちい!
「じゃあ、美楽店長が頂いたらどうでしょうか?」
「うーん。そうさせてもらうよ。椎名の代としてね」
「あははははっ。それは、どうも!」
結局、俺の10円玉は、女店長美楽のおっぱいを育てることになった。そのあと俺は今度こそ本当にコンビニを出た。陽光が射しこんだ。満開の花の淡い香りがした。俺が行く異世界にも、桜はあるんだろうか。俺は、左右両方の拳をギュッと握りしめた。
そのとき……。電話が鳴った。MRCからだ! 俺はスマホの通話ボタンを押した。
「いやー、あたしゃヒヤヒヤしたよ。なかなか振込まないから。がははははっ!」
「すみません。ごたついちゃって!」
「がははははっ! もう、準備は良いのかい?」
MRCは笑いながら念を推すように言った。どこかで聞いたことある笑い声だ。俺は、なるべくはっきりと返事をしたけど、少し上擦ってしまった。緊張しているのが自分でも分かる。
「はっ、はい!」
「良い返事だね!」
「ありがとうございます!」
俺は何故か敬語だった。
「装備は、うん。充分そうだね!」
「そ、そうですか……。」
「所持金は、ゼロスタート。これは難儀だね!」
「構いません。勇気でカバーします!」
「勇気ねぇ……使い魔か従者は、連れなくて良いのかい?」
使い魔……。そんなのいないよ。でも、俺は旅立つ決心をして、静かに頷いた。
「……ったく、世話が焼けるねぇ。まぁ、いずれにしろ時間だよ!」
「はっ、はい」
いよいよだ!
「あっ、そうそう。チケットは生徒手帳に挟んどいたから」
「チケット?」
「異世界への入場券さ。あとで確認しておくれ」
それっきりMRCの声は聞こえなくなった。それにしてもいつの間にチケットを挟んだんだろう。もしかしたら落としたとき? 異世界に着いたら直ぐ確認しなきゃ。
そんなことをぼんやり思っていると、俺の目の前の球状の空間が輝きはじめた。不思議な光景だ。眩しい! 目を開けているのがやっとだよ。俺は直感でその光の玉に向かった。その先には異世界があるに違いない。だから1歩ずつ、この世界に足跡を残すかのように踏みしめてゆっくりと歩いた。そんな俺の背後から、俺を呼ぶあいくるしい声が聞こえてきた。
「勇者くーん! 私も連れて行ってよー!」
「しっ、椎名さん!」
「お店、クビになっちゃったのーっ!」
あいくる椎名はそう言うと、俺の左手を握った。そしてその直後、今度は光の玉の方から俺たちに近付いてきた。いや、光の玉は、どんどん大きくなっていたんだ。それに連れ、どんどん明るくなっていく。もう目を開けていられない。俺はとっさにあいくる椎名を光から庇うために、あいくる椎名を抱き寄せた。
「ゆ、勇者くん……。」
あいくる椎名は、はじめは呆気にとられていたみたいだけど、俺が庇っているってことに気付くと、俺の身体をギュッと抱き返した。俺は、あいくる椎名を危険な目に合わせたくはない。だから、飛び込んでくるなんていう軽率な行動をとったあいくる椎名を戒めて言った。
「駄目じゃないですか。勝手なことしたら!」
「はいっ!」
「ずっと俺の側から離れないように!」
「はいっ!」
俺は、子供にでも言い聞かせるように言った。あいくる椎名は、子供みたいに返事をして、腕に力を込めた。光の玉の中、俺はあいくる椎名をずっと抱いていた。あいくる椎名もずっと同じようにしていた。目を閉じていても分かるのは、あいくる椎名のあるところにはあるメリハリボディーのお陰。あいくる椎名も俺と同じように目を閉じていたと思う。凄い明るさだったから。で、俺も目を閉じているから、光の玉を通り抜けたってことを確認するのに、かなり時間を要したんじゃないかと思う。その間、ずっと俺とあいくる椎名は抱き合っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます