2020年2月29日。18時を目前に私が見た夢の話。
木元宗
第1話
「私」の自宅付近には山がある。
尤も、平然と十キロ以上の距離を散歩する趣味を持つような「私」の感覚では、この「自宅付近」という言葉の使い方は、間違っているかもしれない。
兎に角、「私」の感覚では自宅付近である範囲内に、山がある。
好き放題に違法投棄されたテレビや洗濯機の群れが、管理されていないと一目で伝えてくれる山だ。茶色く枯れた草木に覆われ、生物の息遣いを感じない。
吐く息は白くならないが、きっと冬が近いのだろう。もしくはもう冬を越え、春に向かう最中なのか。
まだ微かに白い早朝の空の下、「私」はその山を下りていた。
雑草を踏み分けている訳ではない。きちんと舗装された
家を出る前に、適当に決めた散歩コースの折り返しがこの山なのだ。後は来た道を戻るだけという、つまらない帰路の始まりである。
退屈さから、欠伸が出た時だった。
前方に、こちらを向いて立っている人影が見える。
この時間帯なら幾らでも
ではない。
お年寄りと判断するには、黒いジャージに包まれた身から滲む生命力が若々しいし、背中も曲がっていなければ歩いてもいない。
こんな山の中で、「私」を見てじっとしている。
不審者だろうか。
距離を詰める格好になりながら、「私」は睨むように人影を凝視した。
黒いジャージの人影は、大柄な坊主男だった。目は細く、歳は五十には届かないが、何よりとんでもなく太っている。首の後ろにも脂が溜まっていそうで、腹は子供でも孕んでいるように丸い。
怠惰を体現したようなその姿に、嫌悪感を覚えた。
ダイエットの為に、散歩に出ているだけ。
そう考えたいと、恐怖を殺すように心で呟く。
昔、夜遅くに帰宅途中だった友人の女性が、見知らぬ男に暴行紛いの被害を加えられた事を、どうしても思い出す。
この時間に出会う人間の顔は、散歩コースによって
山道を逸れて、林の中に入ってしまおうか。「私」は何度もこの山に来ているから、林に入ってしまおうとどこからでも出られる。
靴も、いつもの気紛れなコース変更に耐えられるようトレイルランシューズを履いているから、足場が悪くなろうと心配は無い。
それに対し、男の足元は安そうなスニーカーだ。あの体格からも、とても運動に慣れているとは思えない。
これ以上近付く前に、脇に逸れよう。
ジーンズにパーカーという、汚れてもいい格好をしてるんだし。
「君っ、この辺の人かい!?」
しんと静まり返る朝の空気を、男の上擦った声が引き裂いた。
多分男自身は、そこまで大きな声を発していない。辺りが静か過ぎるから、異様に耳に刺さって来る。
面倒な事になってしまった。
突然声をかけられ、思わず立ち止まってしまった「私」は、ゆっくりと口を開く。
「……何ですか」
声をかけられると、無視出来なくなる悪い癖。
それでも露骨な警戒を滲ませていただろう「私」の声に、男は答えた。
「いやっ、この辺、有名な心霊スポットがあるって聞いたからさ! どこにあるのか、ちょっと尋ねたいんだけれど!」
男は近付いて来ながら話すと、少し離れた位置で足を止め、「私」の頭上へ指を向ける。
「もしかして、あれなのかな!?」
「…………」
「私」は、一瞬でも男を視線から外す事に抵抗を覚えながらも、男が指す方を一瞥してから答えた。
「……廃ホテルを探しているのなら、あそこで合ってます」
丁度「私」の頭上には、山のてっぺんに鎮座する廃ホテルが見えている。
いつから放置されているのか知らないし、何であんな所に建っているのかも知らないが、ぼろぼろに老朽化したあの廃ホテルは、心霊スポットとして近隣に知られていた。
男は嬉しそうに、目を細めて言う。
「そうか! いやーありがとう! 助かったよ! いや、僕、こういうのに興味あってさあ!」
「私」は、いつでも走れる心積もりをしながら応じた。
「そうなんですか」
何の感情も入っていない。
でもその事に、男は気付いていない。
「いや、ありがとう! 急に引き止めてごめんね! いや……? 君、朝早くからこんな所で何してるんだい? もしかして、あのホテルの管理人?」
「違います」
「そうか! 引き止めてごめんね! それじゃあ!」
男が廃ホテルに向かおうと近付いて来るので、「私」は道を開けるように脇へ下がる。
そのまま、暫く男の背中を見送って距離を取ると、帰宅しようと歩き出した。
でも、歩き出して何秒だろう。「私」は足を止めると、男へ振り返る。
「あの」
男は立ち止まると、不思議そうな顔で振り返って「私」を見る。
「私」は躊躇いながら、男に言った。
「行くのはやめた方がいいですよ。……危ないですから。幽霊って」
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