第35話 明倫館の大学生
寅次郎が野山獄で囚人達と切磋琢磨していたちょうどこの時期、晋作は明倫館の大学生となり、日々館内の講堂に出ては会講をしていた。
この頃の明倫館は専ら経書の訓古ばかりに終始し、その学風は保守的でかつ時勢の論議を圧殺して、幕府中心主義に追随しようとするものであったため、晋作は日々不満をためにため込んで鬱屈した日々を過ごしていた。
この日も晋作は館内の講堂に出て、儒者の平田新右衛門が行う経学の会講に嫌々参加していた。
「『論語』の一節である朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりとは」
新右衛門は仏頂面で『論語』の内容の講釈を行っており、晋作以外の大学生達はそれを熱心に聴いていた。
「朝に人としての道理、在り方を聞くことができれば、夕暮れに死んだとしても構わないという内容の教えであります。そしてこの人としての道理、在り方とは主君に一心不乱にお仕えする忠誠心や、親への孝行、民百姓への思いやりの心である仁をさすのであります。そしてこの忠誠心の対象となる主君とは毛利家、ひいては幕府のことであり……」
新右衛門はその後も同じような声の調子で論語の講釈をし、他の大学生達が真面目にその講釈を聴いているのに対して、晋作は退屈そうな表情で、ただ会講が終わる時が来るのを今か今かと心待ちにしているのであった。
その夜、晋作が武芸修行とうっぷん晴らしの名目で、いつものように屋敷の庭で素振りをしていると、隠居した祖父の又兵衛が姿を現して近況を尋ねてきた。
「武芸に精を出すのはええが、学問の方も疎かにせずにしかと励んじょるか? 晋作よ」
又兵衛が穏やかな口調で孫に言うと、晋作は竹刀を振っていた手を止め、後ろにいた祖父の方に振り返った。
「学問など一体何の役に立ちましょうか。四書五経の内容を解釈したとて、外夷からこの防長二ヶ国を守り切れる訳ではございません。それならいっそ剣術にのみ、一心不乱に打ち込む方が外夷を打ち払う道にも通づるかと存じちょります」
晋作は祖父に対して皮肉を言った。又兵衛はむっとした表情になるも、黙ったまま何も言わなかった。
「それよりもちょうど今、新しい詩を作成致しましたので、ぜひ聞いて頂けますでしょうか」
晋作はそう言うや否や、突然詩を吟じ始めた。
「自ら笑う、百年一夢の如し」
晋作は高らかに自作の詩の一節を吟じ、それに対し又兵衛は、驚きあっけに取られながらも、ただそれを黙って聞いているより他ないといった様子であった。
「何を以てか歓娯を得ん、自ら笑う平生の拙」
茫然としている又兵衛を尻目に、晋作は引き続き詩を吟じ続けた。
「区区として腐儒を学ぶ」
自身の不平不満を表現した詩を全て吟じ終えると、晋作は深呼吸をしてそのまま竹刀片手に屋敷へ戻ろうとしたが、我に返った又兵衛に「待ちんさい!」と呼び止められ、その場で足を止めた。
「ええか、晋作。高杉家は洞春公以来、代々毛利家にお仕えしてきた譜代の家柄。儂も、そしてお前の父様もその事をしかと肝に銘じた上で、御殿様に奉公してきたのじゃ。決して大それたことをしてくれるな。父様の迷惑になるようなことだけはしてくれるな」
又兵衛は諭すような口調で孫にそう言うと、足早に屋敷へと引き上げていった。
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