第18話 寅次郎と象山

 浦賀奉行所がアメリカとの交渉の矢面に立たされて四苦八苦していた頃、江戸では浦賀の黒船騒ぎが取り沙汰され、老若男女、侍町人を問わず多くの見物客が江戸から浦賀へどっと押し寄せた。

 また見物客の中には海に小船を浮かべて間近で黒船や異人を見物しようとする者や、見物客を狙って怪しげな物品を売りつけようとする者などがおり、浦賀奉行所の役人たちはそれらの取り締まりにも追われていた。

 そしてその見物客には松代藩士の佐久間象山とその弟子でまだ齢二四の吉田寅次郎こと松陰の姿もあった。

「異人共め! とうとう江戸湾に姿を現しよったな!」

 鴨居の丘から遠目で黒船を眺めていた寅次郎は吐き捨てるように言った。

「できることなら我が太刀の切れ味を奴らに思い知らせてやりたいものじゃ!」

 寅次郎はまるで親の仇に対峙したかのような様子であった。

「西洋学を学び始めてはや十年、いつかこのような日が来るとは思っておったが」

 険しい顔をしながら象山は唐突に語り始めた。

「こうして黒船を間近で見ると、改めて西洋の強大さを実感させられるのう」

 そう言い終えた象山の表情はより一層険しくなっていた。

「先生ほどの御方が何を弱気なことを仰られるのですっ! 異人共はこの神州日本の地を汚そうとしているのですよ! 今こそ我ら侍が立ち上がるべき時です!」

 頭にすっかり血が上った寅次郎は師である象山に噛みついた。

「儂とて奴らに日本を成すがままに蹂躙される様を見るのは我慢ならぬ。じゃが感情的になって刀を振り回しているだけでは奴らの侵略を防げぬのもまた紛うことなき事実じゃ。それをゆめゆめ忘れるでないぞ、寅次郎」

 血気盛んな若い弟子を象山は厳しく戒めた。


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