知らないくせに
ぬーの
知らないくせに
一昨日から少女はマスクを三つ必要とした。二つでは足りなくなってしまったから。薬局で右用のマスクと左用のマスクをレジへ持っていくのはひどい辱めを受けているような気持ちだった。今度からは早めにネットで買おうと心に誓う。
朝起きて鏡を見るのは憂鬱だった。ぼさぼさの髪よりも腫れぼったい目よりも耳の近くまで大きく裂けて笑っている口が苛立たしい。毎朝自分に嘲笑われているような気持ちになる。
始まりは左上の親知らずだった。鬱陶しいなあと思っているうちに右上にも生えてきた。それから毎日のように親知らずが歯茎の端、上下左右にポコポコ姿を現し始めた。一日に三本増えた日はさすがにちょっと泣いた。よだれが止まらなくなったから。
第三大臼歯変異症候群――通称「親知られ」。思春期特有のこの症状のことは保険の授業で知ってはいた。しかしこれほどつらいとは思わなかった。しかもこれは一度始まってしまうと四年に一度、閉経するまで続くらしい。絶望だ。
何より歯磨きのために早起きしなければならないのがつらかった。すぐに抜け落ちてしまうといっても歯磨きはちゃんとしておかなければ口臭の原因になる。ただでさえ口は開きっぱなしなのだ。少女は現在上下左右合わせて39本の親知らずを有していた。
「たいへんねえ。まあもう少しの辛抱よ」
後から起き出してきて少女の歯磨き中にメイクを終え洗面所を出ていく母に強い反感を覚えた。知らないくせに!叫びたかったが口の端から終始垂れ流される歯磨き粉と唾液の混じったものが顎をつたっていくのを鏡の中で監視するのに忙しかった。
歯といえば、少女は教室で前に座る男の子のことを思い出した。いつも授業前に自分が当てられそうなところの問題だけ訊いてくるいけ好かないやつだ。けれど彼は短髪がよく似合う爽やかな笑みをもっていたので少女は断ることができなかった。
その男の子は先週歯の矯正のために抜歯をしたらしい。普通、歯は上の方が抜きやすく、下の歯は後回しにされる。しかし彼の上の歯はなかなか抜けず、先に下の歯を処置したところすぐに抜けた。なんでも歯医者が言うには「上の歯は根が曲がっていて、下の歯は根が腐っていた」らしい。
「それ俺の性格のこと言ってんじゃねーかと思って」と彼がいうので聞き耳を立てていた少女は思わず笑ってしまった。
行ってきますも言わず不機嫌に玄関を飛び出した少女は外の寒さに身震いした。マフラーを巻き直そうとすると指が何か硬いものに当たった。朝の日差しに掲げるまでもなくそれは歯だった。
寒さと乾燥で肌の張り詰める朝。その変化は突然起きた。少女は頬の引っ張りがいつのまにかなくなっていることに気がついて洗面台へかけ戻った。
朝のホームルームの後、前の席の男の子が振り返った。少女が最近密かに思いを寄せていた彼は、彼女にいつもの笑みを見せつけながら「何かいいことあった?」と尋ねた。
「別に。ちょっと歯が抜けただけ」
「そう?でもあんたって、そんな風に笑うんだ」
「変?」
「いや?それより数学の宿題やった?見せてくれん」
身を寄せてくる彼に少女は、私の気持ちも知らないくせに、と思いながら笑みを隠せなかった。
「仕方ないなあ」
「わりい、あとでジュースおごる!」
その冬、少女は素敵な笑顔を手に入れた。素敵な彼と一緒に。
知らないくせに ぬーの @makonasu
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