#18:第8日 (5) 真夜中の祈り
極めて冷静な表情を保って、
「無礼な誘い方については謝りましょう。夜の波止場で突然声をかけるのは確かに適切ではありませんでした。そして実のところ、ミス・アヤン・シャイフ、あなたへの誘いではないのです。ミス・エステル・イヴァンチェンコ。あなたを誘いに来たのですよ」
「……なぜ私なのですか?」
私は精一杯大きな声で言った。この声が、旧市街まで届いて、誰か助けに来てくれないだろうかと思いながら。
「……あなたは私がどこに泊まっているのかご存じなのに、そこへ連絡してきませんでしたわ。それに先ほど私は、ミス・ルスリチェンコにお会いしました。あなたは彼女に、私へ連絡させたのでしょう。その時には、会いたいというメッセージはありませんでした。なぜ今、誘うのでしょう? どこへ行って、何をするつもりなのでしょう? それをお答えくださらない限り、あなたの誘いを受けることはできません」
加えて、彼はこれまで私に興味を示すような素振りは、全くなかった。なぜ今夜になって? それにこの状況は……まるで、パンナ・ルスリチェンコを使って、私をここへおびき寄せたかのようではないか。マルーシャがいなくなったことにかこつけて……
いいえ、マルーシャが行方不明なのも、彼のせいだというのに!
「……ミス・シャイフがお帰りになったら言うことにしましょう」
「いいえ、私は帰りませんわ」
またマドモワゼル・シャイフが言い返した。
「私はミス・エステルと一緒に、彼女の姉の、ミス・マルーシャを探しに来たのです。もしあなたがミス・エステルを、ミス・マルーシャのところへ連れて行くというのであっても、私は付いて行きますわ。私もミス・マルーシャを心配しているのです。それ以外のところへミス・エステルを誘うのなら、私は絶対に彼女を行かせません」
彼女の言葉は、私の気持ちを代弁していた。どうして今夜だけという短い時間の中で、私は彼女とこんなにも気持ちが通じ合うようになってしまったのだろう。しかしそれもマルーシャのおかげとも言えて……
「そうですか。では言いましょう。僕はミス・エステルを、ミス・マリヤ……マルーシャのところへ連れて行くつもりだったのです」
「それであれば、最初からそのようにミス・エステルへ言うべきだったのです。あなたのやり方はいかにも不適切ですわ」
「姉の行方を本当にご存じなのですか?」
マドモワゼル・シャイフの言葉に続けて、私は訊いた。彼は手がかりを教えてくれただけのはずだったのに。
「確証がなかったので、場所を言いませんでした。ここへ来るまでの間に、調べていたのですよ」
「ではどこにいるのです? 何のために会いに行くのです?」
「彼女はあの……」
私は思わず息を呑んだ。マドモワゼル・シャイフも同じように息を呑み、私の手を強く握ってきた。
小石が撥ねるような音がして、男たちの足元で火花が飛んだ。2回、3回……それからどこかで花火が上がったような、小さな音。何が起こっているのか私には判らず、思わずマドモワゼル・シャイフと抱き合ってしまった。
「!!!」
3人の男たちは、海に落ちた
マドモワゼル・シャイフは私の身体に手を添えたまま、
「あなたのせいではありませんわ、マドモワゼル・イヴァンチェンコ。あなたのせいでも、私のせいでもないのです」
マドモワゼル・シャイフはフランス語で言い、再び私の身体を抱きしめてきた。私はどう答えていいか判らず、彼女の身体にしがみついているだけだった。
しばらく抱き合った後で、彼女が口を開いた。
「今夜はもう、行動はやめましょう。ホテルに帰るのです。あなたはシェラトンに、私はエクセルシオールに。一人で帰れますか?」
「ええ、たぶん……大丈夫です。一人で帰れますわ。私は……私は、朝一番の飛行機に乗らなければならないのです。ウィーンへ行かなければ……」
その時、なぜだか解らないが、私はマルーシャが、私の元へ必ず戻って来てくれると感じていた。あるいは、
「私も、早く帰らなければなりません。
「では、これでお別れですね」
「
けれど、別れはその場ではなく、波止場へ戻り、旧市街に入ってからだった。私は広い通りを一人で歩き、ピレ門を出て、そこに停まっていたタクシーに乗った。
私はマルーシャが、私の元へ必ず戻って来てくれると信じていた。そしてマドモワゼル・シャイフにもう一度会えることも。ミセス・ナイトや、あの方にもまた会えると……
山頂へは行かず、島の海岸線に近いところを歩いて、検疫所跡を探した。道は海岸に近いはずなのに、上り下りが激しい。海も、木々の切れ間から時々見えるくらいだった。もちろん月明かりの中に、白い波頭がちらちらとするくらい。こんな中で船を出したくないと思うほどだ。
距離感だけを頼りに、林の中をうろついていたら、少し開けたところに出た。この、さやぎの音が遠のく感じも憶えている。そして月明かりの中に廃墟。修道院跡と違って、壁はボロボロで、幽霊が住んでいそうだった。しかし実際には幽霊ではなく、正体不明の連中が一時使用していたわけだ。
地下への入り口を探す。観光客が紛れ込んだら危険なので、判りにくくしてあるかと思いきや、あっさり見つけてしまった。こんな暗い中なのに。
ある部屋の、床に穴が開いていた。敷いてあった石を掘り返したのだろう。その石は穴の周りに積み上がっていた。
しかし連中が去るときには、本来のとおり石を敷き直すつもりだったのだろう。予定を変更したのではないか。階段を少し下りて、様子を窺ってみたが、人の気配も音もない。
そこからは、足が憶えていた。
その先は、もう目が憶えている。階段を下りる。やはり人の気配はない。分かれ道で右へ。ここからは初めて通る。少し先で左へ折れていた。
左を見る。廊下の、ずいぶん先に灯りが点いていた。もちろん例の“広い部屋”だろう。まだ誰かいるのか。そこを見に行くのは罠にはまりに行くようなものではないか、と思いながら廊下を歩く。少し足音を立てれば、誰か部屋から出てくるかと思ったが、反応はなかった。
部屋の、戸口の少し手前で立ち止まる。中がほんの少しだけ見えるが、ランプを灯したような、黄色い光で満たされていた。光は揺れていないので、ランタンより少し明るい電灯であるに違いない。廊下に漏れる光の角度から、天井に取り付けてあることが判る。
物音はしないのに、人の気配だけはあった。コート男がまだいるのだろうか。他には誰もいなさそうなのに。
一息置いてから、中を覗く。真っ赤なローブにヴェイルを被った女が、こちらに背を向けて、跪いていた。他には誰もいなかった。
さっきより少し大きな足音を立てながら、部屋に入る。しかし女は振り返らない。全く聞こえていないかのよう。構わず奥へ踏み込み、女に並びかけて、横顔を見る。この世の美の粋を集めたようなその造形は、マルーシャで間違いなかった。
声をかけるのが憚られるような雰囲気だが、このままに立ち去るわけにもいかない。
「さっきは助けてくれてありがとう」
「あなたたちを助けるためにしたんじゃないわ」
本当かね。しらじらしい。しかし彼女らしくない、かすれたような小さな声だった。
「そうか。しかし結果的に助かった。
「よかったわ」
「それで君はここで何を」
「祈りを捧げているの」
祈りか。しかし彼女の目の前には何もない。壁にも床にも。前だけじゃない。周りのどこにも、何もない。紙一枚落ちていない。
ただ、何かがそこにあったということだけは判る。床や壁の石に、細かい傷跡がたくさん残っている。埃の跡から、机や棚をどこに置いていたかも。探せば、足跡だって残っているに違いない。コート男が言っていた撤収作業とは、そういった痕跡まで全て消すことではないだろうか。傷を昔のとおりに修復し、適度な埃を床に自然に積もらせることまで含めて。それは確かに時間がかかりそうだ。
今日の昼でこの世界が終われば、誰も追及しないというのに。
「何に祈りを」
「この仮想世界で失われた全ての命に」
「実験に使われた犬のことか」
「いいえ、人だけよ」
誰か死んだのだろうか。まさか、彼女が殺した?
「犬には?」
「犬の気持ちは、私には解らないわ。言葉が通じないもの。解るのは、犬を失って悲しむ人の気持ちだけ。命が失われたことは残念だけれど、ほとんどの犬は、望んで実験に参加したのよ。嫌なら逃げたに違いないもの」
「なるほど、確かにそうだ」
長距離を帰還するのが実験の趣旨であれば、犬にとってここに戻ってくることは、喜びであったに違いない。途中で迷子になり横死した犬もいたろうが、実験者はその行方を追い、手厚く葬ったことだろう。実験を秘匿するには、死体を放置してはいけないのだから。
だから悲しんでいるのは、元の飼い主だけなのだ。
「しかし君にとっては実験そのものが許せないことだったんだろう」
「そうよ」
「連中を粛正した?」
「二人だけ。でもきっと巻き添えになった人がいたでしょう」
「二人……一人はコートの男? 奴はいったい……」
「ヘルツォーグ教授。でも詳しいことを知る必要はないわ。ターゲットを手に入れるためだけなら」
そんなこと言って、君は例によって何もかも知ってるんじゃないのか。どれくらい聞かせてくれるのかね。
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