#18:第6日 (9) 犬の研究施設

 建物の外に出るまでミリヤナが見送ってくれたが、「自転車でお越しだったのですか」と驚いている。

「そうだ。近いからね」

「実は私も自転車で来ているんです……5分待っていただけたら、一緒に帰れるのですが」

「一緒に帰るって、どこまで?」

「シェラトンの近くまでです。私、道路を挟んですぐ北に住んでいるので」

 まさか今朝のダルメシアンの飼い主の少年ブラットは君の知り合いじゃないだろうな。帰りはほとんど下り坂だし、彼女のスピードに合わせる必要もないだろうから、「じゃあ一緒に」と言ってやる。

「それに、あなたが興味をお持ちになりそうなことが、もう一つだけ……」

 こんなことを言われたら待つしかないじゃないか。5分待っていると、ミリヤナが着替えて出てきた。ピンクのウィンド・ブレイカーに、黒いレギンス。どちらも身体のラインにぴったり。特に尻の曲線はデンジャラス。彼女の後ろを走ったら大変なものが見られそう。いや、もう真っ暗だから見えないか。惜しい。

「昨日、犬の研究所のことをお訊きになっておられましたが」

 門衛のところまで並んで自転車を押しながらミリヤナが言う。

「ああ、スプリトにあるかもということだった」

「実は私、ある噂を聞いたことがあって」

「ほう」

「ドゥブロヴニクに、軍の秘密研究施設があって、そこで犬の研究をしていると」

 まさかここでこんな突飛な話を聞かされることになるとは。これも彼女の研究のことを真摯に聞いたおかげ? フラグが立ったのか。

「軍用犬として?」

「はい。そこではシェパードやドーベルマンの他に、ダルメシアンが使われているとか」

「ダルメシアンは身体が強いらしいからな」

「はい。重い物をいたり、長距離を走ったりする体力があるからでしょう」

「この近くに軍事施設がある?」

「はい。どこだとお思いになりますか?」

 そういう言い方をされると、聞くには何か交換条件が必要なのかと思ってしまうが。

「空港の近くかい」

「違います。シェラトンの近くまで行ってから教えますわ」

 どうしてそんなもったいぶったことを! 門を出ると「先導します」と言ってミリヤナが先に走り出す。後から追ったが、尻はやっぱり見えなかった。いや、ライトでちらちらと照らされる。レギンスの光沢で曲線の動きが微かに見える。なぜこんなもどかしい思いをさせられねばならないのか。

 道のりの半分以上が下り坂だったので、10分ほどでシェラトンの近くまで来た。しかしミリヤナがスピードを落とし、「少し先まで付いて来て下さい」と言う。

 シェラトンへ折れる交差点を過ぎ、半マイルほど先の、見憶えのある交差点に来た。暗いけど、特徴がある。そこでミリヤナが停まって、南の方を指し示す。

「この向こうにホテルの廃墟がたくさんあるのをご存じですか」

「うん、知ってる」

 朝、その前を走ったのだが、それは言わないでおく。

「海岸の近くに固まっているのですが、一つだけ離れたところにあるのです」

 ミリヤナはわざわざ自転車を降りて、携帯端末ガジェットで地図を表示して見せてくれた。そんなに身体をくっつけてこなくていい。

 海岸に出ると俺は東に曲がったが、西に行くと折れ曲がった道の半マイルほど先に、なるほど、一つだけ建物がある。

「ここが軍事施設?」

「はい。国防省が管理しているので、近付くことはできません」

「そこで犬を?」

「以前はそうだったのですが、今は移転したという噂です。それがここです」

 ミリヤナが地図を西へスライドさせる。ドゥブロヴニクの市街地の沖に、ピーナッツの殻のような形をした島が浮かんでいる。"Lokrum"。

「かつてここに検疫所があったのです。何年か前までは観光で入ることができたのですが、今は立ち入り禁止です。そして犬の声を聞いた人がいるというのです」

「姿は見ていない?」

「ええ、その代わりに、夜中に船で犬を運んでいるのを見たという噂が。市内を飼い主のいない犬がうろついていて、それを捕獲して連れて行くのだという話も」

「軍じゃなくて保健所の仕事のようだな」

「はい。ただ、どこからともなく現れた犬が、次の日にはいなくなる、というのは奇妙な話と思われませんか?」

「そんな噂があるのか。確かに保健所にしては手際がよすぎる」

 ダルメシアンが野良犬なんてのは普通はあり得なくて、訓練された犬がどこかへ戻るのを目撃された、という可能性がある。この話をもっと詳しく聞くにはどうすればいいのか。

「じゃあ明日は時間があればロクルム島へ行ってみよう」

「ご案内したいところですが、私は出勤日なのです。勤務時間以外ならお電話をいただければ……」

 携帯端末ガジェットの電話番号入りの名刺をもらった。「この後、食事しながらお話をいかがです?」とならないのは、節度をわきまえていて好ましい。たぶん、計測機器と関係ないからだろう。

 礼を言って別れる。俺は道を引き返したが、ミリヤナは交差点を北へ向かった。俺のランニング・コースの近くに彼女の家があるのかもしれない。ますますキー・パーソンらしくなってきた。

 シェラトンへ戻り、自転車を返却して、ロビーに入ると我が妻メグが待っていた。

お帰りなさいウェルカム・バック、マイ・ディアー。あなたにお客様よ」

 客? 誰だ。研究所からであるはずがない。帰りに俺を呼び止めればいいだけだものな。マルーシャでもないだろう。彼女なら、我が妻メグはもっと嬉しそうな顔をするはずだ。ではティーラか。それも違いそうな気がする。

 ロビーの一角に連れられて行くと、帽子にサングラスにマスク、コート姿の女。ああ、そういうこと。アヤン・シャイフだっけ。でも、どうしてドゥブロヴニクにいるんだよ。

「論文の感想を書いただけでは気が済まなくて、どうしてもあなたとお話がしたいんですって。あなたの論文の一つの、シミュレイション結果を評価するための小論文を書いていらしたそうよ」

 そういうことをされても困るんだけど。無駄な時間を使わせないで欲しいなあ。しかしとりあえずアヤンの前のソファーに座る。我が妻メグは彼女の横に座る。通訳を務めるつもりか。でも俺の横でもできるだろうに。

 が、アヤンはまた訛りのある英語で言いながら、紙を差し出してきた。

「どうぞ読んで下さい。英文法を間違うところもあると思いますが、寛容して下さい」

 え、今読むの? しかしよく見たら短かった。2枚もの。しかも式だらけ。文章がほとんどない。それでも困ったことに、俺の知らない定理セオレムだの公理アクシアムだのコロラリーだの補題レンマだのが使われているようだ。俎上に載せられた論文は『ゲーム進行の時間制約と最適戦略選択確率の変化について』。

 仕方なくいくつか質問をする。もちろん我が妻メグの通訳で。ただ、彼女は数学の用語を知らないので、訳すのに手間取っている。2枚ものなのに理解するのにかなりの時間がかかった。

「君の作ってくれた評価式の意図は解ったんだが、このままでは使えない。コンピューターで計算可能な式に変形する必要がある。特にこの虚数時間経路積分とか……」

「でも変形したら式がエレガントでなくなってしまいます」

 言うと思った。数学者はこれだから。

「気持ちは十分に理解するけど、速く正確に計算できなければ評価に使えない」

「では私は計算機数学や計算機科学を学ばねばなりませんか? しかしそんな時間は今はありません」

「俺がやっても時間がないと思うよ」

「それはとても困ります」

 いや、そんなことで困るなよ。それに、俺に構わず兄貴の手伝いをしろって。

 こういう時、いつもなら我が妻メグがうまい解決策を思い付いてくれるのだが、数学の話では無理かな。

「君はこの小論文をどこかの学会に投稿したいと思っている?」

「思いますが、数学ではないのでどこへ投稿したらいいかを知りません」

計算機協会A C Mはどうだろう。その際、俺を共著者に入れるといい」

「共著? では私の論文を認めて下さるのですね?」

 もちろんなんだけど、それ、言わなかったっけ? アヤンは嬉しそうな声を出したが、サングラスにマスクでは表情が全く判らない。

「英語の修正は俺がやろう。送り返すから滞在先を教えてくれ」

「それは不可です。兄に知られたら大変な事態になります。明日、私が取りに来ることにしてはいけませんか?」

「君の好きにしたらいい」

「ありがとうございます! ではこれで……」

 アヤンはやはり嬉しいのか、我が妻メグと手を取り合っている。俺が指一本でも触れるとまずいんだろうなあ。

 しばらく二人でフランス語で話し合ってから、ようやくアヤンは去っていった。こんな時間までここにいて、本当に兄貴にバレてないのかね。

「マイ・ディアー、もう一人会わせたい方が」

 エレヴェイターの方へ向かいつつ、我が妻メグが言う。次は誰だ。ウクライナ人か。コスティンかソフィア?

 部屋へ戻るのかと思ったら、我が妻メグは隣の部屋のドアを叩いた。開いて、顔を覗かせたのはティーラだった。我が妻メグが表情に出さずにこんなサプライジングをするとは思っていなかった。

「ハイ、ティーラ。ヴェニスへ行くと聞いていたので驚いたよ」

「こんばんは、ミスター・ナイト。実は事情が……」

「それは私から説明するわ」

 ティーラが言いにくそうにして、我が妻メグがそれを引き継ぐ。部屋に入れてもらう。隣の部屋なので俺の方と対称形の造り。マルーシャの姿はないようだ。

 そしてティーラの部屋なのに、なぜか我が妻メグがお茶の用意をする。俺とティーラはソファーに向かい合って座る。ティーラのしゅんとした表情から、何が起こったかだいたい解るつもり。

「実はマドモワゼル・マルーシャが、昨日の夕方から行方不明になってしまったの」

 ティーラの横に座った我が妻メグが言う。さっきもそうだったが、彼女は困ってる女性がいると俺をほったらかしてそちらの方へ行ってしまう傾向があるようだ。

「手がかりも残さず?」

「それについては……」

 メッセージとチケットのことを我が妻メグが説明する。ヴェニスで泊まる予定だったホテルに連絡して、マルーシャが来ていないことは確認済みだと。

 こちらへ来た形跡は、昨夜遅くヴィラ・プラット――昨夜の夕食会があったレストラン――へ、彼女に似た雰囲気の女性が立ち寄ったことを聞き取り済み。

 まあ、彼女が行方不明になっても、俺は別に驚かない。何しろアカプルコでも同じようなことをやらかしてるし。

 で、今回も俺に探させるつもり? 我が妻メグが探し出してくれそうな気がするけど。実際、そのために既に動いてるようだし。

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