#18:第6日 (5) サーヴィス

 私はドゥブロヴニクに来た。

 しかし、どんなところなのか全く判らない。第一印象というものがない。

 飛行機が着陸する時に、私は眠っていたのだ。

 もちろん、寝不足だったせい。搭乗して、離陸した直後から急に眠くなり、着陸した後でアテンダントに起こされた。他の乗客が、ほとんど降りた後で。

 1時間にも満たない眠りだったが、頭はすっきりしたと思う。その代わりに、町の印象がない。

 着陸する前に、窓から下の景色を見れば、それなりに心の準備が……

 だが、もう気にするのはやめよう。私は観光に来たのではない。マルーシャを探しに来たのだ。ドゥブロヴニクにいるのか、判らないままに。

 降りるのが少し遅れたが、手荷物受取所に着いた頃に、ちょうどターン・テーブルが回り始めた。人混みの少し後ろで、自分のスーツ・ケースが出てくるのを待つ。

 後の方に出てきたのをピック・アップして、到着ロビーに出ると、ミセス・ナイトが待っていた。その笑顔を見た時、私はまるでマルーシャに会った時のように安心してしまった……

ようこそビアンヴェニュ、ミス・ティーラ・イヴァンチェンコ! ご無事に到着されて何よりですわ。レンタカーを用意しましたので案内します。お荷物をこちらへどうぞ。お運びします」

 軽いビズの後で、ミセス・ナイトはまるで重要人物のように私を扱ってくれた。

「まあ、ミセス・ナイト。そんなことまでしていただくなんて」

「いいえ、お姉さまのことがご心配でしょうから、私にぜひお手伝いをさせて下さい。お姉さまのお荷物はどうしましたか?」

「それが、ロジスティクス・センターの受取人が来て、ホテルから運び出してしまったんです。行き先はまだ決まっていなくて、姉が連絡をしたら届ける予定だと……」

「そうでしたか。ではまず、あなたの滞在先へ行きましょう。決めておられますか?」

「いいえ、まだなんです。コンシエルジュに聞いたら、この季節は空いているから当日でも宿泊が可能だろうと……」

「そのとおりですわ。では私が決めても構いませんか? シェラトンに特別安くお泊まりになれるよう、交渉してきました。それとももっとこぢんまりしたところがよろしければ、近くにとても気持ちのいいヴィラを見つけていますが……」

「まあ、そんなことまでしていただいて……どちらでも結構なのですが、先に一つだけ確かめたいことが」

 私はチケットの裏に書かれていた"Villa Plat"のことをミセス・ナイトに伝えた。それに、うっかりしてメモが書かれた半券を、搭乗ゲートで切り取られてしまったことも。だから電話番号らしき数字は判らなくなってしまった。

「そこは昨夜、研究所の皆さんと夕食会をしたところですわ。少しお待ちください。訊いてみますから」

 ミセス・ナイトはすぐさま電話を架けて、相手と話していたが、「お姉さまはお泊まりではないし、あなたの部屋も予約されていない、とのことです」と私に言った。

「では何のためのメモだったのでしょうか」

「お姉さまのお知り合いがそこにお泊まりなのかもしれませんね。それは後で確認しましょう。どうぞこちらへ」

 ミセス・ナイトは私のスーツ・ケースを引っ張りながら歩き出した。私は恐縮しながら付いて行った。

 駐車場で、彼女が借りたという車の助手席に座ってから、訊いてみた。

「ミセス・ナイト、あなたはどうしてこんなにも私に親切にしてくださるのでしょう? たとえあなたが姉のことを大切な友人と思って下さっていても、私とはまだ初対面も同然ですのに」

「そんなに不思議なことではありませんわ。先日、アテネであなたと初めてお会いした時に、私はあなたのことを、お姉さまと同じくらい大好きなってしまったんです! どうしてって、それはもう天啓レヴェラシオンとしか言いようがありません。そして私はあなたが愛すべき人物であり、ピアノに関して素晴らしい才能の持ち主と確信しています。それ以上何か理由が必要でしょうか?」

 その答えを聞いて私は、なぜ先ほど彼女を見て、マルーシャのように感じたか理解した。彼女の笑顔と言葉には、マルーシャや両親と同様の愛情が込められているからだと。

「ミセス・ナイト、あなたのことを愛情を込めて、リタと呼ばせて下さいますか? 姉がそう呼んでいたように……」

「もちろん、そのようにして下さい。私はあなたのことを、敬称を付けずティーラとお呼びしましょう」

 ミセス・ナイトは車を静かに発進させた。空港の駐車場を出て、一般道へ。人家の少ない、山の中のような風景だ。

「ただ、お姉さまやマイ・ハズバンドの前では“ミス・ティーラ”と呼んでしまうかもしれませんが……」

「まあ、それはなぜです? 二人とも私のことをティーラと呼ぶのに」

「申し訳ありません、職業病サイド・エフェクトのようなものなのです。他の人がいると公の場と考える癖が付いてしまっているのです。その場合、あなたは芸術家ですから敬称を付けるべきと、頭が勝手に……お姉さまのことも普段はマドモワゼルとお呼びしていますし」

「そうなのですか」

「でもこれをきっかけに、あなた方と親友、あるいは姉妹のように仲良くなれれば、ティーラ、マルーシャとお呼びするようになるかもしれません」

「ええ、そうなれれば私もいいことと思いますわ。ところで……あなたの夫ユア・ハズバンドがあなたをメグと呼ぶのに、姉はどうしてリタと呼ぶのでしょう?」

「メグもリタもマーガレットの愛称です。でも私のことをメグと呼ぶのは夫だけです」

 ミセス・ナイトはそれ以上説明しなかった。彼女は人の名前や敬称、愛称というものに、特別な意識を払っているらしい。

 場面に応じて呼び方を変えるのは当然のことと言えるが、愛称を使い分けるのは……“メグ”を特別な愛称と位置づけているのだろう。彼女の最愛の人だけが、それを使うことにしているのか。

 それ以上、ミセス・ナイトは話しかけてこなかった。どこかへ落ち着いてからゆっくりと、ということだろう。姉の行方不明のことは、車の中でするような話ではない。

 前方に海が見えてきた。近くなるにつれて、それは左手に見えるようになった。やはりここは海沿いの町なのだ。

 それを見て、私は再びメキシコのことを思い出した。あの方と見たアカプルコの海。暖かかったが、あれも冬のことなのだ。

 そのうちに、左下に海を見下ろし、右に壁のような岩山がそびえ立つ、という風景の中を走るようになった。海は小さな湾になっているが、ずっと先に見えるのがドゥブロヴニクの町だろうか。

「町はもっと先ですわ。ここから15キロメートルもあります」

 ミセス・ナイトが私の心を読んだかのように言った。しかし読んだのは視線の動きだろう。あるいは「どこまで行くのだろう」と考える私の表情か。

「でもこの辺りの方が静かでいいと思いますわ。シェラトンもこの湾に面しています。ずっと向こうの方の」

「そうですか」

「すぐ先にプラットの集落があります。そこへ寄っていきましょう。電話しましたが、見ないと判らないこともありますから」

「よろしくお願いしますわ」

 集落に入るとミセス・ナイトは左へステアリングを切った。複雑に曲がりくねった坂を下りていく。海がどんどん近付いてきて、小さな岬に建つホテルの敷地に入った。ここが"Villa Plat"か。

 ミセス・ナイトが車を降りる。私も降りようとしたが、彼女に止められた。

「私一人の方がいいと思うのです」

「なぜですか?」

「二人で訊きに行くと、重大なことのように思われてしまいます。お姉さまの名声を考えると、それは避けた方がいいのです」

「それはつまり……姉はお忍びインコグニートで来ているはずだから、ですか?」

「はい。それに私は昨夜ここへ来てますから、スタッフにこっそり話を聞くこともできると思うんです」

 たった一度来ただけで、そんなことができるとは不思議でならないが、とにかくミセス・ナイトに任せて、私は車の中で待つことにした。

 心配するほどもなく、彼女は5分も経たないうちに戻ってきた。

「一つ、有力な情報が得られました」

 運転席に座りながら彼女は言った。

「何でしょう?」

「お姉さまと思われる女性が、昨夜遅くここで食事をしたそうです。ここはバーが12時まで開いているんです」

「まあ、そうでしたか。ではあのメモは、立ち寄る予定のレストランだったのですね」

「泊まるつもりもあったのかもしれません。食事の前に部屋の空きを確認したそうです。スタッフは空いていると答えたけれども、少し考えて、やっぱり泊まらないとおっしゃったと」

「不思議な話ですね。でも姉はやはりドゥブロヴニクに来ていて、この近くにいる可能性があるということですね?」

「そうです。希望が見えてきました。本格的に探す前に、ホテルへ行きましょう。やはりシェラトンをお薦めしますわ。すぐ近くにいていただければ、少しでも安心できると思うんです。マイ・ハズバンドにはまだ話していませんが、相談すればきっと力になってくれますわ」

「まあ、では彼はまだ何もご存じないのですか?」

「今日はまだ仕事がありますから、他のことに気を使わせるのは……」

「ああ、そうでした。申し訳ありません。彼が心配なさらないよう、私の方からお願いすべきだったのです」

「お気になさらず。状況の切り分けは私の役割で、慣れていますから。全ての人が気持ちよく動けるようにするのが、私の理想なんです」

「重要で立派な役割だと思いますわ」

 シェラトンに着くと、ミセス・ナイトはあたかもここのスタッフであるかのように、きびきびと動き、チェック・インを手伝ってくれた。他のスタッフも彼女の“指示”に従っているかのよう。実際にはもちろん彼女からの“お願い”なのだが、誰もがそれに“喜んでサーヴィスする”ように見える。

 部屋は5階で、バルコニーから海が見えた。そしてナイト夫妻の隣だと! いったいどんなマジックを使ってこんな部屋を用意してもらったのだろう。

「着替えをなさってください。少し早いですが、昼食に行きませんか? 何か食べると落ち着くと思うんです。それからお姉さまを探す相談をしましょう」

 他のスタッフが去った後で、ミセス・ナイトは言った。私は、なぜマルーシャが彼女をとても大切な友人と考えているかが、ようやく理解できた。

 彼女と一緒に行動すると、本当に心が安らぐのだ。私のことを全て解ってくれている気がする! 昨日の旧市街観光の時には、その一端しか感じることができなかったが……

 そして私はもう一つ理解した。あの方は、彼女をパートナーとすることができて、本当にお幸せなのだろうと。

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