#18:第5日 (10) 夜の有酸素運動

 夕食会は8時半に終わった。俺のいたテーブルと、我が妻メグのいたテーブルでは、盛り上がり方が全然違った気がする。

 俺の方は、例の論文『競合対象……』がまた話題に上った。ザグレブの女たちが、俺の解説をこちらのメンバーと共有したらしい。録音してたなんて知らなかった。それはともかく、唯一の男は――名前をまだ憶えてない――「そういうのを女性研究員だけで共有するのは変だ」と抗議していた。俺もそう思う。

「男性がこれを悪用するのは困るのよ」

「いや、女性だって悪用するかもしれない」

「たくさんの人に知られたら、結果が変わってしまうわ」

「いや、周知した後の行動をシミュレイトするのも一つの研究だよ」

 ミリヤナと男の議論になってしまった。ミリヤナは俺を味方に付けようとするかのように身体を寄せてくるのだが、その実は俺の腕に胸を押し付けるのが目的だというのは判っている。その誘惑にあらがい、俺は最後まで男の側に付いた。

 我が妻メグの方は、向かいに座ったハンサム男がずっと話題をリードしていたと思う。そしてスパークリング・ワインを何度も追加注文していた。我が妻メグを酔わせようとしたに違いないが、俺の目を盗んでどこかへ連れて行けるわけもないのに、何をしているのだろうと思っていた。

 帰りのタクシーの中で我が妻メグに「楽しかったかい」と訊いてみる。「ええ、とっても」などと答えられたらショックだ、などと思いつつ。

「どうしてあなたと席を離されてしまうのかしら。隣にいた方がいろいろ話しやすいのに」

 何と嬉しいことを言ってくれるのだろう。そのくせ、俺と離れているのにあんな楽しそうな笑顔で話していて。我が妻メグの方に身を寄せ、耳元で囁く。

「これも一種の試練なんだよ」

「あなたにとって? 私にとって?」

「もちろん二人にとって。互いの姿が見える距離で、しかし話ができない、という時の振る舞いが難しいんだ」

「あなたを見ずに、楽しそうにしていると気になるかしら? でも私はあなたの素晴らしさを周りの人に伝えようと懸命になっているのよ」

 それもとても嬉しいことなんだが、俺自身、何が素晴らしいのか理解してないのが問題なのかもな。まあ自分で自分のことを素晴らしいと奴にロクなのはいないけど。

「俺も君のことを話したいんだが、誰も訊いてくれないんだ。自分から積極的に言う方がいいのかね?」

「そういう場合は訊かれるまで話さなくていいの。ただこういう場ではそうならないと思うけれど」

 こういう場って、若い女が俺を取り囲むような? 違うな、研究所の関係者が集う場では、ということだろう。自然、研究関係の話題が多く、プライヴェイトは避けられる傾向にある。今日の女どもは虚勢ブラフの話ばかりしたがっていた。

 そして我が妻メグが中心になる方はというと、彼女は研究所勤めではない。よってプライヴェイト以外に話題が少ない。せいぜい合衆国の風土や生活を訊くくらいか。俺も少し訊かれたからな。よって我が妻メグはここぞとばかりに俺との生活を語るわけだ。

 しかし、マイアミでどんな生活をしてるかは、俺の方が訊きたいくらいなんだけど。

「ところで、今夜も料理が少なかったが、後でレストランへ行こう、と提案したら、君は拒否するんじゃないかな」

「ええ、昼に十分食べたと思うのよ」

 そんなわけない。俺の半分しか食べてないのに。

「しかしまだ時間が早い。そこで、フィットネス・ルームを見に行ってはどうかと思うんだ」

「ああ、ここにもあるのね。屋内プールもあるんだったかしら?」

「あるけど、今夜は有酸素運動のマシーンを使ってみてはどうかと思う。ランニングだけでは鍛えられない部位が、たくさんあるからね」

「もちろん、あなたが指導してくれるのね? ぜひやってみたいわ」

 受け容れられて嬉しいが、これまで俺は提案したこともなかったのか、と思う。我が妻メグは運動不足なのではないか。もっとも、運動したところで仮想世界の中のプロポーションは変わらないのだけれども。

 ホテルに着き、部屋へ戻ろうとしたら、我が妻メグフロントレセプション受付係デスク・クラークに声をかけて、笑顔で何か受け取っている。また手紙か、それともメッセージか。訊くと「マドモワゼルと妹さんからお礼のメッセージよ」。午前中のことについてか。律儀なものだ。

 着替えてからフィットネス・ルームへ。と思ったのだが、我が妻メグは「メッセージを返すから、先に行って」と一人でフロントレセプションへ。礼には礼を、ということか。任せることにして、先に行く。意外に利用者がたくさんいる。他にすることがないからだろう。

 しばらくすると我が妻メグがやって来た。いくつも並べられているマシーンを興味深そうに眺めているが、運動を始める前に訊いておくことがある。

「どこか気になるところ、あるいは鍛えたいところはあるかい」

「下半身の形をもっとよくしたいわ」

 尻と太腿か。今でも十分綺麗だと思うのに。まあベッドに入っている間は視覚的に観察することが少ないんだけれども。

「具体的な場所を、手で触って示せるかい」

 我が妻メグが尻に手を回し、持ち上げる。なるほど、大臀筋。一番気にするのはやっぱりそこか。でも俺はちょっと緩んだ感じの方が好きなんだけどなあ。仮想世界のベストはメキシカン・クルーズの、いや、それは置いておこうか。

「それだと実は部屋のベッドの上でもできるんだ」

「あら、そうなの」

 ヒップ・リフト、ヒップ・スラストなどの運動法を、言葉だけで説明する。ついでにリオで習ったカポエイラの運動もいくつか。腰の動かし方が少々なので、実演が難しい。

「じゃあ、ここでないとできない運動は?」

「あるけど、まず脚にどれくらい筋肉が付いているか、確認してみよう」

「ジャージーのパンツを脱いだらいいのかしら」

 それは困る。ここにいる男どもの視線が集まってしまう。なので、パンツの上から俺がことにする。ベッドの中でのとは違うというのがポイント。要するに筋肉に力が入ってるかどうか。

 道具なしで、まずはカーフ・レイズ。つま先立ちを繰り返させる。触るのはふくらはぎの腓腹筋。思ったとおり、筋肉量が少ない。普段、歩く以外の運動をしていないのがよく解る。ただし、足の細さを保つのならそれでもいい。

 次にレッグ・エクステンションに座らせ、ウェイトのほとんどない状態で、膝の曲げ伸ばし。大腿四頭筋、ハム・ストリングスの量を調べる。我が妻メグが、いくら太腿を触ってもくすぐったそうにしないのがいい。したら俺までおかしくなる。

 そういえばオデッサで、女の脚の筋肉美をたっぷり観賞させてもらったことがあった。ユーリヤ。あの余分な脂肪のない曲線はまさしく“美”であり、我が妻メグのように適度な脂肪の付いた曲線もまた“美”である。美の定義は本当に難しい。

 しかし我が妻メグがどのような曲線を理想としているかは定かでない。それは本人次第ということで、まずは運動法を教える。レッグ・エクステンションの使い方。それからスクワット。

 スクワットは荷重なしもできるのだが、せっかくなのでバーベルの棒だけを持ってやらせる。我が妻メグは意外にすぐへこたれた。要諦は“膝を曲げる”のではなく“尻を落とす”ことなのだが、日常の動きに入っていないので、必要な筋肉がほとんどないのだろう。

 そこでスクワットはやめてカーフ・レイズに。一応、バーベルの棒を持って。

「これは“ふくらはぎが鍛えられる”という感じがするわね!」

「こうして鍛えなくても、普段からつま先立ちで歩いていると鍛えられる。ただし同じつま先立ちでもハイ・ヒールを履くのはダメだ」

「解るわ。爪先で地面を蹴る動きが重要なのよ」

 我が妻メグは理解が早くて助かる。しかしいくら鍛えてもアヴァターの造形は変わらないのが残念。

 いや、そんなことはないか。「脚の筋肉を増やしてくれ」という指定はできるはず。10%でも増えたら見栄えも変わるだろう。ただし、この仮想世界は我が妻メグの造形を変えて喜ぶところじゃないんで、こんなことを考えるのはおかしいんだけれども。

 我が妻メグへのコーチングが済んだら、俺のトレイニングをしてもらう。見せるものではないけれども、オデッサの経験から、女に見られるのは意外に楽しいということが解っている。もちろん“美”を観賞する能力のある女が対象で、我が妻メグはその条件を満たしていない。しかしすぐに解ってくれるようになるだろう。現にもう目を輝かせているではないか。

 トレイニングが終わると部屋へ戻り、楽しいシャワー・タイム。「今日鍛えたところを調べてみよう」と言いながら我が妻メグの脚や尻を触ると「筋肉が付いているわけないわ」と言いながらも嬉しそう。

 シャワーを出てバス・ローブに着替えると、我が妻メグが「あなたへメッセージが届いているけれど、フランス語なのよ」と言う。

「イヴァンチェンコ姉妹から?」

「いいえ、ミス・シャイフから」

 そんなメッセージがあるなんて、さっきは言ってなかったじゃないか。「目を通す暇がなくて」と続けて我が妻メグが言う。

「君が返事を書いたのはイヴァンチェンコ姉妹だけ?」

「ええ、そう。ミス・シャイフのメッセージ……というかお手紙は、とても長いの。たぶん、あなたの論文に対する感想だと思うわ」

 とりあえず内容を確認してもらう。フランス語は、会話は勝手に同時通訳されるけれども、読み書きはできないんだよな。簡単な単語や成句が解るくらいだ。

「やはり感想と……指摘もあるみたい。明日、あなたが出掛けている間に、翻訳しておくわ」

「ホテルに頼んで、君は観光に行ってもいいと思うけど」

「観光はあなたと一緒に行きたいもの。ここはサグレブより見どころが少ないから、1日もあれば十分だわ」

 じゃあ翻訳がなければ明日は何をする予定だったんだよ。ホテルのスタッフを相手に“ラヴリー・リタ”の体験談でも話すつもりだったのか? そんなことするなら、研究所に頼んでラボ・ツアーに参加させてやりたいくらいだよ。その方が面白い。

 しかし、我が妻メグの好きにさせておくことにする。他には?

「他に? メッセージはないわよ」

「そうか?」

 我が妻メグは笑顔なのだが、どうも何か隠している気がする。しかし「嘘をついている時の癖」を知らないので、ブラフを使うこともできない。

 とりあえず、ベッドに倒れ込むことにしようか。ビッティーとの通信は、明日の夜でいいだろう。材料がまだ十分集まっていない。

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