#18:第5日 (7) 次の行き先

 フロントレセプションで周辺の詳しい地図をもらって来て、ランニングのコースを考える。お薦めのコースなどというものは存在しないので、町の中の道と海岸沿いの道を適当に組み合わせて3マイルほどのルートを作ってみた。2周すればちょうどいい距離。まだ日は高いし、散歩がてら確認に行くことにする。

「私はどうしようかしら」

 エレヴェイターに乗ってから我が妻メグが呟く。彼女の走れる時間は俺の半分、スピードは8分の5なので、同じコースは走れない。

「自転車を借りたら? ニュー・カレドニアではそれで一緒に走った」

「そうね。訊いてみるわ」

「ついでに俺がその自転車で研究所まで走ることにしてもいい」

「あら、それはよさそうね!」

 ロビーのコンシエルジュに訊くと、借りられるとのこと。明日一日で予約しておく。宿泊客は少ないので、予約なんて必要ないくらいだが、事前に点検してもらえるはず。

 それから外へ。コースの概要はざっと以下のとおり。まず北へ歩いて車道に出る。田舎道とはいえドゥブロヴニクの町の中心と空港を結ぶ幹線道なので、それなりの通行量はある。だからそこは走らず、横断して集落の中へ。

 時々クランクで折れながら半マイルほど北へ進み、西へ折れる。やはり何度かクランクにぶつかりながら半マイル進み、南へ。半マイル行って、道路を渡る。そこから海へ出るまでの間に、ホテルの廃墟が並んでいる。

 立地は悪くないはずなのに、なぜ寂れてしまったのかは解らない。見に行けば理解できるかもしれない。とはいえターゲットとは何も関係ないに違いない。

 海岸に出たら東へ。そこからも廃墟がいくつか並ぶ。それが途切れて、小さな岬を巡ってから北へ行くと、シェラトンの前に戻って来られる。

 では歩いてみよう。まずは北へ。他のホテル、レストラン、そしてわりあい大きなショッピング・モールがある。

 道路を渡る。住宅地の中。急に田舎らしい風景になる。地元の住人らしいのが歩いている。我が妻メグが愛想よく「こんにちはズドラーヴォ」と声をかけるとちゃんと挨拶が返って来る。

 銀行らしき建物や、ペンションらしき家の脇を通る。対向2車線道路が斜めに折れていって、真っ直ぐ行く道は1車線になる。

 "ljekarna"という見憶えのある文字が着いた建物の角を、西へ。あれは薬局だったのである。その先、地図によれば小学校があるが、子供の姿は見えない。とっくに授業が終わって家に帰ったのだろう。

 しかし子供がいるということは犬がいる可能性は高そうに思う。これまでの飼い主はみな大人だったが、物語において犬とペアを組むのはたいてい子供だ。仮想世界のシナリオだってその例に漏れないに違いない。

 その小学校の前で、さっき斜めに折れていった2車線道とぶつかる。それを渡り、少し先で南へ。舗装道路が途中から砂利道に変わるが、気にせず真っ直ぐ歩く。

 周囲に家がなくなり田園の中を行く。季節が季節なので緑はないが、我が妻メグはとても気持ちよさそうな顔をしている。

 砂利道から普通の舗装道に戻り、幹線道にぶつかる。車が来ないうちにさっさと渡る。道の先に、ちょっとした高まりが見えている。

 この先は、真っ直ぐ南へ、などという言葉では表せないくらい、道が曲がっている。海岸沿いの二つの丘の間へ割り込んでいく道なのだ。だから緩やかな上り坂になっている。

 その坂を上がりきったところに、巨大なホテルの廃墟。5階建てのコンクリート造りということは、それほど古い時代のものではない。せいぜい20世紀の終わり頃。しかし窓は全て割れ、白壁は無惨に剥がれ、落書きだらけという有様。倒壊しないのが不思議なくらい。

 その先にも廃墟、また廃墟。海岸に出るまでに四つもあった。近代的ホテルもあれば、窓の上がアーチ状になったゴシック風の窓を持つ古典的療養所風の建物も。

 これらが打ち棄てられた理由は、ちょっと解りにくい。しかし崩壊した様を見ると、建材が海沿いに適していなかったのではないか。

 コンクリートや石造りの建物は潮風や潮水に弱い。特に鉄筋コンクリートは腐食対策をしないとあっという間に劣化が進む。塩害という。シェラトンはもっと頑丈に作ってあるだろうが、100年経ったらどうなっているか判ったものではない。

 もっとも、仮想世界の中で塩害による腐食をきっちりとシミュレイトする必要なんかないし、ターゲットにだって関係ないだろう。

 ただ廃墟を見ると、こんなところに野犬が棲み着いていたらいやだな、と思うばかりだ。夜の間に近付かなければいいだけだとは思うけれど。

 海を見る。冬の海らしからぬ綺麗な青。日はだいぶ傾いて、風が出てきたけれども鑑賞に値する景色だ。

 海岸線を歩くうちに、廃墟をもう2軒見つけた。道は砂だらけだが、タイヤの跡がたくさんある。面白がって廃墟を見に来る観光客もいるのだろう。

 その先に、カフェらしき建物を発見。これは廃墟ではないようだ。たぶん夏の間だけオープンするのに違いない。

 少し坂を登って、崖っぷちの細い道を行く。走るには問題ないけれど、自転車で行くのはどうか。この辺り、我が妻メグは自転車を降りて、押して歩かねばならないかもしれない。

 坂を下りると岬の先端。突堤が作られている。遊覧船が出発するのだろう。今はその船の姿さえない。

 小さな湾と砂浜、その背後に建つシェラトンを見ながらしばらく歩くと、出発地点に戻ってきた。夕食会に行くまで、部屋で少し休憩しよう。



 2時間ほどブンデク公園で過ごし、ティーラが満足したというのでバスで中央駅前に戻った。地下道を抜け、駅前の通りを歩いてホテルへ。まだ日は高いが、この後、列車でヴェニスに向かうことになっているので、準備しなければならない。ホテルには夕方まで滞在する旨を伝え、室料の半額を先払いしている。

 しかしドゥブロヴニクへ行くなら、まだ飛行機はある。夜10時発。決断の時は迫っている。

 それともヴェニスを経由して、ドゥブロヴニクへ行くことができるだろうか? ヴェニスとドゥブロヴニクの間に航空便はない。ザグレヴへ戻るか、それともローマへ行って乗り換えるか。どちらにしろ、丸一日を無駄にしてしまう……

「どうしたの、マルーシャ。考えごと? あの方はアルテムだったのかしら、それとも人違い?」

 ブンデク公園のことを私が気に掛けているのを、ティーラに見抜かれてしまったようだ。スーツ・ケースに服を詰める手の動きが鈍っていたからだろう。私はまだ十分な演技ができないでいる。“気にしていないふりをする”という演技が。

「いいえ、彼はやはりアルテムではなかったのよ」

 私は答えたが、本当のところはまだ私にも判っていないのだ。彼がアルテム本人であると断定する、決定的な情報を掴んでいない。

 公園での会話を思い出す。景色やザグレブの町の印象についてしか話さなかった。過去を訊くことはしなかった。訊いても無駄なのだ。言葉では何とでも言える。キーワードに対する反応も、諜報員なら自己暗示でどうにでもなる。

 身体の動きの癖は? これが厄介で、アルテムにそっくりなのだ。歩く時の手足の動き、話す時の顔の動かし方、そして笑顔の見せ方とタイミング。だが、NPCが彼のアヴァターを使うのなら、同じになるに違いないのだ。

 身体の傷もそう。たとえアルテムと同じところに銃創があったとしても、「軍隊にいた時に受けた傷」で済まされてしまう。

 私が覗きたいのは、彼の頭の中だ。そこに私の記憶があるか? その一点のみと言っていい。

 もちろんアルテムなら「知らないふり」もできる。現に“マルーシャ”が“ウクライナの有名なオペラ歌手”であるということすら知らなかった。それは私がオペラ歌手としての姿しか見せていないからで、諜報員として彼と接すれば、どうか?

 例えば、と同じ体勢で、彼の頭に銃を突き付ければ。あの極限の状況を再現すれば、彼の表情にも表れるだろう。私が引鉄を引くまで保っていたあの笑顔を、浮かべると信じている……

 今からこのヒルトンの、彼の部屋へ行って、それを再現できないこともない。

「コンシエルジュへ、列車の時刻を確認してくるわ」

 スーツ・ケースの蓋を閉めてから、私はティーラに言った。再現するつもりはないが、彼とソフィアの部屋に仕掛けた盗聴器を、回収しなくてはならない。

「いつもの心配性ね。でもあなたはそれだから外の世界で成功したのだと思うわ。あらゆることに対する準備が行き届いているんですもの」

「いいえ、外へ行くようになってから、少しずつ身に付いたのよ。あなたもきっと同じことができるようになるわ」

 電話でコンシエルジュに問い合わせることもできるが、それではこちらの状況や気持ちが伝わらない、直接会う方がいい、表情で伝えることができる、とティーラに話したことがあった。

 部屋を出て、エレヴェイターに乗るが、一つ下のフロアで下りる。コスティアンティン・チェルニアイエフが泊まっている部屋へ。公園で話した時には、もう1泊するつもりと言っていた。

 廊下に人がいないのを確かめ、ドアにノック。返事も、人の気配もないことを確認してから、あらかじめ作っておいたマスター・キー・カードをドア・ノブに当てる。

 ドアを細く開けて中に滑り込み、もう一度、人の気配がないことを確認する。ダブル・ルームを一人で使っているのは判っている。盗聴器は、TVの電源プラグに挟み込んでおいた。

 TVのところへ行く。なかった。まさか彼が外したのだろうか。

 辺りを見回す。スーツ・ケースがない。チェック・アウトしたのか。

 ソフィア・ルスリチェンコの部屋へ。同じくマスター・キー・カードで入り、盗聴器の状態を調べる。やはりなかった。

 現実世界でのソフィアは、諜報員ではない。この世界でも、彼女の行動から推定して、競争者コンクルサントではない。では、彼がこの部屋に入り、外したのか。彼はやはりアルテムで、競争者コンクルサントなのか。

 別の可能性。カミール・シャイフ、あるいは今だ姿を見せないタリア・マイモンがこの部屋に入り、盗聴器が仕掛けられているのに気付いて、外した。

 どちらかは判らない。ただ、確かめられることはある。

 エレヴェイターで下り、フロントレセプションで二人のことを訊く。

「今朝、チェック・アウトされました。荷物はまだお預かりしていますが……」

 コンシエルジュのところへ行く。二人のためにチケットを手配したか?

「今夜のドゥブロヴニク行きのチケットをお取りしました。ちょうど2席残っていたのを押さえることができまして」

 幸運だと思ったのか、余計なことまで教えてくれた。だが、満席でも心配することはない。私は既に同じ便のチケットを2枚持っているのだから。

 やはり私はドゥブロヴニクへ行かなければならない。しかし、理由はどうしようか?

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