#18:第3日 (3) パリの思い出

 とりあえず、先に浴室バス・ルームへ。シャワーの湯の温度がなかなか上がらない。しかし頭と身体を洗い終えたところで、ようやく我が妻メグが入ってきた。荷物の整理をしてたんだろう。仕方ない。

 洗面台の前に立ち、あっという間に化粧を落としてしまう。唇の色が素になったくらいで、他はさほど変わらない。どれだけ薄化粧なのかと思う。

 しかし残念ながら俺の方はもう何もすることがない。シャワー・ストールを出て「ベッドで待ってるよ」と我が妻メグに告げると、可愛らしくふくれっ面をする。しかしこんなところで楽しく過ごしていたらふやけてしまうだろう。

 身体を拭いてバス・ローブを着て、ベッドに腰かけてオレンジ・ジュースを飲んでいると、我が妻メグ浴室バス・ルームから出て来た。肌がつやつやしている。

「この後、楽しいことをする前に、いくつか訊いておきたいことがあるんだけど」

「いくつかって、二つや三つで済むのかしら?」

 鋭いな。たぶん四つか五つくらいだろうよ。とりあえず我が妻メグを横に座らせる。

「列車の中でフォーリー姉妹やシャルロットが言っていた、パリのことだ」

「そんなにたいしたことではないのよ」

「たいしたことかどうかは聞いてから判断するよ」

「どうして列車の中で訊かなかったの?」

「いつ邪魔が入るか判らない。中断すると続きが気になるからね」

「何から話せばいいかしら」

「まずマルーシャのことだな」

 それを聞けば他はどうでもよくなるかもしれないから。

「真珠のネックレスの件は、私は本当に何もしていないの。ただ、他のホテルのお客様への連絡を取り次いだくらいで」

 うむ。マルーシャが自分で取り返しに行ったんだろう。それは想像できる。ニュー・カレドニアのあれを見たから。

「それ以外に何が?」

「パリの地下に、採石場があったのを知ってる?」

 知らないけど、それだけで何が起こったかだいたい判った気がする。

「初耳だな」

「パリの建物には石が使われているものが多いけれど、よく見れば質がほとんど同じだということが判るの。それは実はパリの地下で採掘したものなのよ」

 パリを中心とするパリ盆地は、硬い地層と柔らかい地層が幾重にも重なって傾斜した、ケスタと呼ばれる地質からなる。パリの辺りには硬い岩盤があり、地下からは石灰岩、石膏、砂岩など建材に適した石が掘り出せる。

 採石は紀元前から19世紀まで続いたため、地下は穴だらけで迷宮のようになっている。時には落盤して地上の建物が崩壊したことがあるそうだ。

 現在は基本的に立ち入り禁止。一部はカタコンブ・ド・パリと呼ばれる納骨堂になったり、シャンピニオン・ド・パリというマッシュルームの栽培に使われたりしている。見学ツアーで見ることもできるのだが、不法に入り込む地下愛好家“カタフィル”がいる。

 マルーシャはその採石場跡に興味を持ち、“リタ”にカタフィルを紹介して欲しいと頼んできた……

「どうしてそんなものに興味を」

 いや、ターゲットのためだとは解ってるんだけど。

「『オペラ座の怪人』に劇場の地下室が出てくるからじゃないかしら。実際、オペラ座の下は地下水が湧き出して地底湖になっていて、3年に一度水を汲み出すそうよ。もちろん採石場跡はそれとは関係ないけれど、何かのつながりでお知りになったんじゃないかと」

「それでカタフィルを紹介した?」

「いいえ、情報は持っていたんだけれど、地下へ入るのは不法なことだからと断ったの。でもどうやらマドモワゼルは他の伝手でカタフィルとお知り合いになったらしくて」

 まあ彼女の手にかかればチョロいものだろう。我が妻メグも、たぶん気付かないうちに情報をいくらか漏らしたに違いない。

「それで?」

「彼女はオペラ座ではなく、別の劇場で公演してらっしゃったんだけれど、公演が終わったその夜からホテルへお戻りにならなくて」

「まさか君、彼女が地下迷宮で迷子になったと思って、探しに行ったんじゃないだろうな」

 まさかと言いつつ、絶対そうに違いないと思って訊いてみたのだが、我が妻メグは笑顔を浮かべているだけで答えない。「怒らないから」と優しく言うと「ええ、そうよ」。

「もちろん、広くて探す当てなんてなかったけれど、知人のカタフィルに手助けしてもらって、一晩中……5時間くらいかしら、探し回ったら14区のポール・マオン採石場と呼ばれるところでマドモワゼルが縛られていて……」

 思わず抱き寄せて「よくやった」と言ってしまったが、俺が囚われの身になったメグを探すよりも、遥かに危険なことをしてるじゃないか。マルーシャが感謝する気持ちがようやく理解できたよ。

「君が人を助けようとする気持ちが強いのは解ったけど、やはり危険だ。今後は慎んでくれ」

「でも一つだけ……もしあなたが私の前から消えたら、どんなに危険があると解っていても探すつもりよ。それだけは許してくれるでしょう?」

 何と健気なことを言うのか。抱いたままベッドに倒れ込んでしまった。夜明けまで彼女を愛することになるかもしれない。



 ベオグラードからザグレブまで、こんなに時間がかかるはずではなかった。

 もう3時。本当なら、2時間前に着く予定だったのに。私はその分だけ長く、孤独に耐えなければならなかった。

 いいえ、ザグレブでも、しばらくは一人でいなければならない。マルーシャと会うまで。それにはあと36時間ほどかかるだろう。彼女もちょうど今頃、ウィーンに着いただろうか。

 夜が明けてから、オペラの関係者に挨拶し、私のピアノ演奏会コンサートの関係者に挨拶し、人捜しをして……それから彼女がザグレブに来るか、私がウィーンへ行くか。

 演奏会コンサートは、気が進まない。できれば中止にしたい。私はまだそれほどの腕前ではない。名前も売れていない。祖国ウクライナとその近辺以外では、批判されるかもしれないのだ!

 マルーシャがそばにいれば、彼女が聴いていてくれれば、耐えることができるかもしれない。彼女は私の心の支え。一心同体のような関係。

 けれどそれは今回限り。次の公演からは、一人で行かなければならないのだ。なんと恐ろしいことだろう!

 もし彼が聴いていてくれたら?

 私のお慕いする彼。お名前でお呼びしたいけれど、その響きだけで私の心が熱くなってしまう。だから頭の中では“あの方ドロヘイ”とお呼びすることにしよう。

 もしあの方が聴いていてくださったら?

 この上なく緊張するかもしれないけれど、うまく弾けそうな気がする。あの方一人のために弾いていると思えばいいのだ。

 数時間前の、列車の中での演奏がそうだった。私の行動を助けてくれるはずの、マドモワゼル・メシエからの依頼。変装した私を見て、あの方はお気付きになっただろうか?

 でも私はピアノに向かってからは、そのことを忘れて、あの方のために――それに私と合わせてくださるサワムラ姉弟のために――一心に弾いた。終わってから拍手を受けたけれど、それに値する演奏だったろうか。解らない。でも、私は満足だった。いつもこうであればいいと思うくらいに。

 もしあの方がいらっしゃらなかったら?

 それでもあの方のためと思えば、うまく弾けるだろうか。聴衆のことを忘れて、頭の中にあの方を思い浮かべれば、私だけの世界に入っていけるだろうか。

 この先も、私はあの方を心の支えにして、孤独に耐えていけるだろうか。

 それとも私は、別の心の支えを見つける必要があるだろうか。マルーシャにも、あの方にも代わるような人物。今のところ、全く想像できない。それは男性なのか女性なのかすらも。

 そういえば、あの方の隣にいる女性、ミセス・マーガレット・ナイトの存在が、気にならないのはなぜだろう。あの方と一緒にいることが、あまりにも自然だからだろうか。解らない……

 いいえ、あの方のことばかり考えている場合ではなかった。マルーシャからの依頼を遂行しなければ。

 あの方とミセスは、マリオット・ホテルへいらっしゃった。迎えも来ていた。これはマルーシャが知っていたとおり。

 アルテムに似た男性と、その連れはヒルトンへ。迎えは来ていなかった。

 もう一組、アラビア系の、シュマーグを被ってイカールで留めていた男性と、ヒジャブで顔を隠していた女性。あの姿はアラブ首長国連邦のいずれかの国と憶えているけれど、違ったろうか。

 彼らはエスプラネードから迎えが来ていた。持っていたボードには"Sheikhシャイフ"と書かれていたようだった。迎えの男性は二人のことをカミールとアヤンと呼んでいたように思うけれど、はっきりとは聞こえなかったので自信がない。

 しかしこれらのことは全てマルーシャに報告することにしよう。

 私もどこかのホテルに落ち着かなければならない。マルーシャは私のためにヒルトンとエスプラネードを予約してくれていた。どちらへ行ってもいいと。

 しかしこれは偶然だろうか? あの方とミセス以外の二組が泊まるホテルと一致しているなんて。ザグレブで高級なホテルを上から二つ三つ選べば、その中に入っているということだろうか……

 マルーシャはアルテムに似た男性に――ずっとそう呼ぶのは煩わしいのでАアーという仮名にしよう――注目してほしいと言っていた。なら、彼らと同じホテルの方が好都合だろう。ヒルトンへ行くことにして、エスプラネードに断りの電話を入れる。

 ヒルトンまでは近く、5分歩いただけで着いた。受付をすると、「プレミアム・ツインをご用意しております」と言われた。明日マルーシャが来て、泊まることを想定したのだろうか? もちろん、あらゆることを想定して予約してくれたのに違いない。

 案内されて部屋に入ると、ベッドは二つともキング・サイズだった。二つも要らず、一つで私とマルーシャが寝られるだろう。

 シャワーを浴びるかどうか迷う。一眠りして、起きてからでいいかもしれない。化粧は車内で落としてきた。

 しかし眠る前に、マルーシャに一報だけ入れておこう。フロントレツェプツィヤに電話して、ウィーンのリッツ・カールトンにつないでもらう。「マリヤ・イヴァンチェンコの部屋へ」と頼んだが「まだお着きになっておられません」。列車は間もなくウィーンに着くが、駅からホテルまで来るのにしばらくかかるだろうとのことだった。

 伝言にすると訝られるような内容なので、30分ほど待ってから電話することにした。けれど、落ち着いたらとても眠くなってきた。このまま寝てしまうかもしれない……

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