#18:第1日 (4) オリエント急行

 オリエント急行エクスプレスは19世紀末から20世紀半ばにかけて走っていた、ヨーロッパ横断列車であり、西洋オクシデント東洋オリエントの結節点であるトルコのイスタンブールと、イングランドのロンドンを結んでいた。

 ただし、ドーバー海峡は船で渡る。イングランドの玄関口フォークストンとロンドンの間は連絡列車が走っていた。

 有名なミステリー小説の舞台になったり、スパイ映画の撮影に使われたりもしたが、20世紀が終わる前に、オリエント急行エクスプレスは廃止されてしまう。もちろん航空機と自動車が台頭したことによるだろう。

 しかし廃止を惜しむ人は少なからずいるもので、ある海運会社の社長がオークションに出品された寝台車を落札した。その後も次々に車両を購入し、寝台車から食堂車まで一通り揃ったところで、『ヴェニス・シンプロン・オリエント急行エクスプレス』として復活させた。移動のためではなく、乗ることを楽しむためのツアー列車だ。

 ロンドンを始発駅とし、フォークストンとカレーの間を船で連絡するのは往年と同じ。カレーからはパリを経由し、その名のとおりスイスのシンプロン峠を越えて、イタリアのヴェニスまで走る。週に往復1便ずつ。

 その後、車両が老朽化すると全く同じ車両を新製し、さらに増やした。列車名を『オリエント急行エクスプレス』に戻し、ルートの変遷も重ねつつ、運行し続けているとのこと。気軽に乗ることができない料金であるにもかかわらず、常に大人気なのだそうだ。

 ……というのが我が妻メグが調べて教えてくれた知識。しかし現実世界ではどうなのか判らない。少なくとも、俺の時代にはオリエント急行エクスプレスがまだ走っているとは聞いていない。

 だがここは仮想世界であるから、車両の新製なんてのはデータさえあれば簡単に実現できることだろう。運行のための費用や人員だってどうにでもなる。線路が分断されてたのならつなぎ直せばいい。だから細かいことは気にしないでおく。

 さて、オリジナルのオリエント急行エクスプレスはイスタンブールとロンドンの間を走るのがメイン・ルートだった。だからその両端駅には立派な待合室がある。イスタンブールはスィルケジ駅に、ロンドンはヴィクトリア駅に。

 スィルケジ駅はボスポラス海峡に面しており、対岸のハイダルパシャ駅との間に連絡船があった。そしてハイダルパシャ駅からはイラクのバクダードや、レバノンのベイルートまで国際列車が結んでいた。トルコ中央部のタウラス山脈を超えることから、タウラス急行エクスプレスという。

 オリエント急行エクスプレスにはアテネを発着する列車もあったが、それはあくまでも傍系。ルーマニアのブカレストやコンスタンツァ、ベルギーのブリュッセルやオースデンテを発着する列車もまた同じ。

 しかしこの仮想世界では、アテネ駅にも立派な待合室がある。駅舎は10年ほど前に建て替えられた、神殿を模した立派なもので、待合室も豪勢。内装も神殿のよう……ではなく、地中海風だ。つまり白い壁や床、そして青を基調にした調度品が並ぶ。

 寒い季節ではあるが、不思議と「夏のギリシャでリゾート」という気分にさせてくれる。実際、そのためにオリエント急行エクスプレスは走っていたのだろう。

 高級なソファーに座り、美しいギリシャ人ウェイトレスから飲み物などをもらってくつろぐ。しかし服は観光用のカジュアルから着替えて、インフォーマルにしている。

 オリエント急行エクスプレスに乗るにはドレス・コードがあり、乗車中は個室以外はインフォーマル、ディナーはフォーマルということになっているからだ。もちろん待合室でもそれが適用される。

 フォーマルも我が妻メグが用意してくれているはずで、どんなものなのか大いに興味がある。もちろん俺はタキシードに決まっているから、我が妻メグのドレスがどんなのか、だ。パリでしばらくコンシエルジュとして勤めていたことがあるので、きっとパリ・モードではないかと予想する。

 待合室にいるのは30人ほど。ツアー列車だけあって、人種も様々。ただ東洋人は少ない。日本人らしき顔がいくつか見えるくらいで、その他の東洋系オリエントはいなさそう。やはり料金が高いからか。日本人は金持ちであると共に、鉄道好きでもあるから、オリエント急行エクスプレスのよき客であり理解者であるに違いない。

 そのうちに、マルーシャとティーラが現れた。我が妻メグが「あら、いらっしゃったわ」と言ったが、立ち上がって駆けて行ったりはしなかった。ここではそういう振る舞いは軽率と心得ているのだろう。

 それにマルーシャは黒いつば広帽キャペリンを被って顔を隠している。そういうときは当然声をかけるべきでない。ティーラはベージュのトーク帽で、ヴェール付き。コートを脱ぐと二人とも質素なドレス――もちろんインフォーマル――だったが、それも目立たないためのものだろう。

 が、遠目で俺たちのことに気付いて、それと判る笑顔を見せてくれた。後でお話をしましょうという意味と受け取る。我が妻メグも同じように解釈したはず。

 6時前になると制服を着た男が「プラットフォームに出てお待ちください」と告げて回る。おそらく駅長だろう。案内に従って待合室を出たが、列車は入線していなかった。

「南にあるピレウス駅から来るのよ。港のそばにあって、連絡船と接続しているの。昔のオリエント急行エクスプレスもそこが始終着駅だったんですって」

 我が妻メグは本当によく知っている。客室係もできるのではないだろうか。

 待つうちに日が暮れたが、その夕闇の彼方から一条の光芒ビームが射し、カーディナル・レッドの電気機関車に引かれたダーク・ブルーの客車がゆっくりと進入してきた。磨き抜かれたピカピカの車体が雪に濡れてプラットフォームの灯りを反射し、車体横の金色のワゴン・リの紋章が麗々しく輝く。

 荷物車1両、寝台車3両、食堂車1両の5両編成。ずいぶんと短いように思うがアテネはやはり“傍系”だからだろう。“主系メイン”であるイスタンブール発着の方が長い編成に違いない。

 寝台車3両のうち1両だけがパリ経由ロンドン行きで、他の2両はウィーン経由ブリュッセル行き。ロンドン行き車両に乗り込む。正確にはこれも“カレー行き車両”で、ドーヴァー海峡はいまだに連絡船に乗るのである。

ようこそウェルカム、マダム・エ・ムッシュー・ナイト!」

 制服姿の若いスチュワードが英仏折衷の挨拶で迎えてくれた。名前はエドワール。フランス人か。

「ボンソワール、エドワール。スチュワードはフランス語で何て言うんだい」

「ヴワチュリエです。でもスチュワードで構いませんよ、ムッシュー」

「いいや、エドワールと呼ぶよ」

 エドワールは俺よりも我が妻メグへ、より嬉しそうに挨拶している。我が妻メグがパリジェンヌのように美しいからだろうと思っておく。

 寝台は13号と14号。同じコンパートメントで、2段ベッドだ。隣の11・12号との間にはドアがあり、つなげて使うこともできるが、今は錠が下りている。

 ディナーの時間を訊かれ、早い組ファースト・シーティングを予約する。「それではザグレブまでごゆっくり」と言ってエドワールが去る。

 定刻より5分遅れ、18時05分にオリエント急行エクスプレスは夕闇のアテネ・ラリサ駅を出発した。

「景色も見えないし、夕食までは何をしたらいいだろう?」

「まずフォーマルに着替えることだわ。急がないと!」

 そうだった。早い組ファースト・シーティングは18時半からで、30分もない。俺はすぐに着替えられるが、我が妻メグは化粧を直さないといけないだろう。

 着替える間に、コンパートメントの中を観察する。まず座席シート。二人で座るには横幅が長すぎるほどだが、これが後で寝台に化ける。座るところは下段で、背もたれを持ち上げて上段にする。夕食後にスチュワードか車掌に頼むと寝台を作ってくれるはず。

 クロスは絨毯のような織り柄入りで、とても高級そうに見える。汚さないようにしないと……と、つい思うのは根が下層民だからだろうか。

 座席シートには肘掛けのクッションが左右の端に一つずつ置いてあるが、これは自由に動かせる。寝る時はこれを枕に、というわけではなく、ちゃんと羽毛枕が別に用意されているそうだ。

 それから窓の横に洗面台。テーブルのようになっているが、それを上げると洗面ボウルが出てくる仕掛け。その上にはちゃんと鏡もある。

 鏡の横の壁に丸い皿状のものが付いているが、ワイン瓶置きであるらしい。皿の上にゴム製の小さな輪があって、そこに瓶の口を通すと列車が揺れても倒れない! できればグラス置きも付けてほしいものだ。それとも、グラスはずっと持っていろというのか。

 窓の下に小テーブルがあり、その下には小型の空調機。古い車両では石炭のストーヴが置いてあって、車掌が火加減の調節までしてくれたそうだ。換気が必要だが、ドアにそのための換気口が付いている。昔の車両は密閉性能が低かったろうから、特に意識せずとも適度に換気できたに違いない。

 ドア側の壁には寝台用の装備がいろいろ。まずルーム・ライトのスイッチ、ベッド・ライトとそのスイッチ、車掌を呼ぶボタン、そして懐中時計掛け! 時計はない。国境を越えるとタイム・ゾーンが変わることがあるので、乗客は自分の時計を調整した方が判りやすいのである。タイミングは都度案内してくれるだろう。

 ドアの上には、廊下に張り出すようにして荷物置き場がある。それに、天井からぶら下がっているハンドル。説明板によると――英仏独伊の4ヶ国語で書かれている――危険があったことを車掌に報せるためものだそうだ。つまり非常連絡装置。ボタンにしないのは、軽々しく使うな、という意味かもしれない。

 いろいろとよそ見をしながらも一足先に着替え終わり、スペースを我が妻メグに譲るために座席シートの端で小さくなっておく。そして我が妻メグの着替えを見守る。

 既にティール・グリーンのイヴニング・ドレスを着て、鏡に向かって化粧を直しているところ。上流階級の貴婦人レディーのように美しくなっていくのをつぶさに見届ける。そんなに美しくなると俺と釣り合わないよ、とジョークを言いたくなるくらいだ。

 それからピアスを着け、ネックレスを着け、指輪を着ける。どれも真珠。うーん、もしかして東洋系オリエントってことかな。そんなのいつ入手したんだ。俺はプレゼントした記憶はないぞ。

「いかがかしら?」

 我が妻メグが振り返って、俺を見て微笑む。褒めて欲しそうなので、最上級の褒め言葉をあげよう。

「今日、アテネで見た数々の美しいものの中で、今の君が一番美しいよ」

「ありがとう! そろそろ行きましょうか。あら、ネクタイが少し歪んでるわ」

 立ち上がった俺に近付いてきて、蝶ネクタイボウ・タイを両手で微調整する。しかしおそらくはただの言い訳で、俺に間近で顔を見て欲しいということだろう。

 本当にもう、キスしてやりたいくらい美しいのだが、せっかく引いたばかりのルージュがはみ出すと困るだろうから、我慢しておく。

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