ステージ#18:第1日

#18:第1日 (1) アクロポリス

  第1日-2046年1月20日(土)


 幕が上がる気配と共に、身体が冷気に包まれる。もちろん、防寒着を装備に加えるという時点で心の準備はできていたが、それにしても寒いのはやはり苦手だ。頬に当たる冷たい感触は、まさか雪か。

「なんて立派な神殿でしょう!」

 隣で我が妻メグの声がする。神殿テンプル? どういうことだ。もしかして東洋の寺院テンプルの前にいるのか。

 目を開ける。いやいや寺院じゃない。小雪が舞う中に建っているのは、石造りの古代の神殿だった。しかも、どう見てもこれはパルテノン神殿だよ。写真で見たことがある。規模からしても間違いなし。

 テネシー州ナッシュヴィルにもパルテノン神殿の原寸大レプリカがあるけど、あれはこんなボロボロじゃない。しかも観光客が周りにたくさんいるし。

 ということは、俺はまだアテネにいる? 仮想記憶を探る。2046年1月20日? しかも前回のステージの続きだと?

 冗談じゃないノー・キディング。前回は2033年だぜ。しかも10月だった。年も違うし季節も違うじゃないか。どうしてそれで続きなんだよ。

 おまけに前回の最後は土曜の夜で終わったはずだが、今は土曜の昼だ! 12時を過ぎているが、10時間近く遡っている。

 仮想記憶によれば、クレタ島で国際会議が終了した後、直ちにアテネ行きの飛行機に乗り、1泊して観光している、ということになっている。しかも今日の夕方に出発する国際寝台列車“オリエント急行エクスプレス”に乗るんだってよ。いったいどういう筋書きなんだか。

「柱の上を見て。四角い柱頭が載っているから、ドーリア式よ。でも、部分的にイオニア式の装飾も用いられているらしいわ」

 柱の上に載っている幅の広い梁をエンタブラチュアといい、上からコーニス、フリーズ、アーキトレーヴの三つに分けられる。真ん中のフリーズに凝った装飾が施されているが、それがイオニア式なのだそうだ。

「一つの様式をきっちり守らなければならない、というものでもなかったんだろう。様式を混ぜることに、特別な意味があったのかもしれない」

「そうね。あるいは建設に時間がかかって、その間にデザインの方針が変わったのかもしれないわ」

 一応、記録が残っていて、紀元前447年に建設が始まり、前438年に完成。ただし装飾は前431年まで続けられた、ということだ。そういう古い記録が残っているのは大したことだと思う。合衆国には16世紀より前の文献は存在しないからな。

 もっと近くへ見に行く。あいにくまだ修復中で、中に入ることはできない。しかし、見上げる柱が太く高い。クレタ島やその他の島で見た神殿より、格段に規模が大きいことは明らか。さすがにこれだけで世界遺産に指定されるだけのことはある。

 フリーズの装飾は、すり減っていて判然としない。一説には古代ギリシャ最大の祭であるパンアテナイア祭の行進の様子を模式化したものではないかとのこと。もちろん別の説もある。

 しばらく無言で眺める。廃墟と雪が相俟って、いっそう寒々しさを感じさせる。

 それから周囲を一巡りして、改めて大きさを体感してから、隣に建つアテナ神殿へ。

 アテネのアクロポリスはとても規模が大きく、海抜490フィートの岩山は、頂部の面積が3ヘクタールもある。そこにパルテノン神殿やアテナ神殿の他、少女の姿をした列柱で知られるエレクテイオン神殿、アクロポリスの門であるプロピュライア、青銅器を収蔵していた宝物殿カルコケテ、儀式の準備をする少女たちの住居アリフォリオン、アルテミス・ブラウロニアの聖域、パンドロソスの聖域、ゼウス・ポリエウスの聖域、パンディオーンの聖域、アテナの祭壇などがある。

 またアクロポリスの下には音楽堂や劇場、アスクレピオスの聖域、エウメネスの柱廊などがある。

 とにかく大規模で、全部を見ようと思ったら数時間は……というか、ステージ開始前に、俺たちはホテルを出てからここへ上がってきたはずで、その途中でいくつかを見ているはずなのだが、なぜ仮想記憶にそれがないんだろうか。

 俺にないだけで、我が妻メグにはあるのか? だからプロピュライアの反対側へ俺を連れて行こうとしているのかもしれない。

 そしてそちらには博物館がある。が、手狭になったためアクロポリスの下へ新しい博物館が作られた。2009年だそうだから、ステージ内で37年も前だ。だからここも一種の廃墟であり、数百年経ったら他の遺跡と同化してしまうかもしれない。

 とにかく建物には入れないので、その脇の崖っぷちから、岩山の下を望む。真下に見えるのはディオニュソス劇場。古代の劇場らしい、扇形のすり鉢状の客席が、半円形の舞台を囲んでいる。そこに立っている観光客が、豆粒のよう。

 森を挟んで市街地が広がっているが、その一番手前にあるのが、新博物館だ。あそこには後で行くことになっているのだろうか。

 というか、夕方、列車に乗るまで、ここで観光だけしていていいのか? そんなはずはない。前回のサントリーニ島だって、ターゲットのヒントがあったはず。おそらくワイン博物館だ。メグの意向に反して遺跡を見に行ってしまったのが悪かった。今回は彼女に従うことにしよう。

「寒いわ!」

 雪交じりの風が吹き付けて、メグが笑顔で俺にしがみついてくる。そんなに寒いなら、こんな高いところへ来なきゃいいのに、と思う。とはいえ、こういう時は「温めてあげるよ」と言って抱きしめてやるに限る。

「上は早く見終えて、すぐに下りることにしよう」

「ええ、それがいいわ」

 しかしアクロポリスの最も奥にあるギリシャ国旗掲揚台に行く。そこは一段高くなっていて、アクロポリスの上全体が俯瞰できるヴュー・ポイントだ。

 それからパンドロソスの聖域を見て、エレクテイオン神殿の少女列柱カリアティードを見て、プロピュライアを通って、ようやくアクロポリスから下り……

「まあ、マドモワゼル!?」

 我が妻メグが、今まさにプロピュライアから入って来ようとしている黒いコートの美女に目を付ける。

 もちろん相手も――言うまでもなくマルーシャだが――我が妻メグを見つけて、「まあ、リタ!?」と声を上げる。そして二人は駆け寄って抱擁。周りの観光客が注目してるのもお構いなし。

 何、この既視感デ・ジャ・ヴュ。前回と同じ展開?

 というか、前回の終わりに、一緒にゼウス神殿を見に行ったよな? あの時の記憶はどうなってるわけ?

 ところで今回は裁定者アービター同伴のステージだから、マルーシャがいるならティーラもいるよな。ああ、いた。マルーシャの後ろに、白いコート姿。ちょっとした驚きの目をもって、抱き合う二人を眺めている。

 俺のことにはまだ気付いてないかな? というか、記憶は……メキシカン・クルーズの時からの継続のはずだよなあ。オデッサであるはずがない。

 こちらから声をかけるか、と思っていたら、我が妻メグとの抱擁を解いたマルーシャが、後ろのティーラに話しかけ、俺の方へ視線を向けさせる。「まあオーナイトさんミスター・ナイト!」とティーラの。声になっていない……まさか、気絶するんじゃないだろうな。やめてくれよ、それだけは。

「ハイ、ティーラ、こんなところで会うとは何という偶然だろう。2年ぶりかな」

 メキシカン・クルーズは確か冬で、間にニュー・カレドニアが挟まっているはずなので、そういうことにしておく。その時からも、もちろんオデッサの時からもティーラの姿は変わらず、純潔ピュア無垢イノセントのまま。一生、汚れを知らないでいて欲しいと思うほど。

「ハロー、ナイトさんミスター・ナイトお久しぶりですわロング・タイム・ノー・シー……ええ、何という偶然でしょう。神のお導きでしょうか……こちらのお美しい方は?」

 我が妻メグのことを、マルーシャはまだティーラに紹介していないらしい。マルーシャを見たが、穏やかな笑顔を――我が妻メグが一緒にいる時に見せる特有の表情を――たたえたまま黙ってる。俺が、自分で言えと。いいけど、フォローを頼むぜ。

マイ・ワイフのマーガレットだ。メグと呼んでくれて構わない」

 それから我が妻メグに、ティーラを「マルーシャの妹のエステル」と紹介する。我が妻メグは人懐こい笑顔で「マドモワゼルとそっくりで、とてもお美しい方ですわね。お会いできて嬉しいですわアイム・グラッド・トゥ・ミート・ユー!」と言いながらビズを求める。ティーラは戸惑いの表情ながらそれに応じる。気絶しそうになくてよかった。

「ところでギリシャへは何をしに」

 一応、訊いてみる。本当に前回の続きなんだったら、サントリーニ島で会ったことを憶えているはずだが。

「もちろん、私は公演ですわ。昨夜終わったばかりなんです。ティーラは今朝アテネに着きました。これから演奏旅行へ出るのですが、その前に余暇を利用して、二人で久しぶりに観光を」

「演奏旅行とおっしゃると……」

 我が妻メグの質問に、マルーシャが「ティーラはピアノを弾くのです。去年、プロになったばかりなんですわ」と答える。オデッサでの設定と見事に一致している。

「ショパン・コンクールで入賞したので、祖国のウクライナで記念にピアノ曲集をリリースしたんです。そうしたら国内外から講演の依頼が驚くほど来たので、家族で相談して、プロになることにしたのです。今週はルーマニアやトルコで演奏会コンサートを開いたのですが、来週末はウィーンで演奏会コンサートを予定していて、その合間に……」

 観光旅行中か。むむ、もしかして今夜のオリエント急行エクスプレスに乗るとか?

「ええ、そうですわ。まあ、お二人もそうなのですか! これも何という偶然でしょう!」

 そんなに驚くことないって。シナリオどおりなのにさ。

 しかし、君らはウィーンへ向かうのか? 俺の仮想記憶によれば、オリエント急行エクスプレスはアテネを出てセルビアのベオグラード、イタリアのヴェニス、オーストリアのインスブルック、スイスのローザンヌ、フランスのパリを経由して、イングランドのロンドンへ行くはずなんだが。

 ただし、俺と我が妻メグはクロアチアのザグレブで途中下車することになってて……

「アテネからの列車は、イスタンブールから来る列車とベオグラードで合流して、一部の車両を組み替えて、パリ経由ロンドン行きと、ウィーン経由ブリュッセル行きに分かれるんですわ。私たちはウィーンまでのチケットを持っているんです」

「まあ、では、ベオグラードまではご一緒するのですね。一晩だけですけれど、楽しみですわ!」

 マルーシャの説明に、メグが喜んでいる。

 ふーむ、行き先が違うというのはどういうことなのかな。もっとも、俺もザグレブから先、どこへ行けばいいのかは判っていない。財団のクロアチア研究所――ザグレブとドゥブロヴニク――を訪れる予定ではあるけれど、都合次第で日程は変更できることになってるから。

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