#18:第1日 (2) 第3の姿

 これからアクロポリスを見る、と言うマルーシャ、ティーラと別れ、俺と我が妻メグはアクロポリスを下った。我が妻メグにしてはおとなしく引き下がったものだと思う。

「だって姉妹で仲良く旅行中だもの。久しぶりに、とおっしゃっていたから、お時間を取るのは悪いと思って。それに夜は列車で一緒になることだし」

「列車では話しかけるつもりかい」

「もちろん、お二人のお邪魔でなければ」

「有名人だから、他の人からも話しかけられるだろう。そっとしておくのがいいんじゃないか」

「ええ、そうかもしれないわね。状況を見て判断するわ」

 そのわりに、我が妻メグは「とても楽しみ」という顔をしている。俺と仲良く旅行、という状況の邪魔になるとは、欠片かけらも思っていないらしい。彼女の場合、これまでの流れから、しかたないことではある。

 ただ、今の様子を見る限り、我が妻メグの記憶には、サントリーニ島のことはあっても、クレタ島へ行ってアテネに戻ってきてから夜にマルーシャと再会した、という状況は含まれていないらしい。

 となると、前回の金曜の夜から土曜にかけてのイヴェント、即ち船上のパーティーの最中に拉致されたこととか、地震のこととかは、記憶にないということだ。

 地震はともかく、拉致されたことを憶えてないのは、不用心になっていかんなあ。今回も、俺が目を離すのはよくない、ということになる。

 しかし俺はザグレブやドゥブロヴニクの研究所へ仕事に行かないといけないわけで、その間、我が妻メグは一人ぼっち。見張り役というかボディー・ガードが必要ということになるが、どうすればいいのやら。

 アクロポリスを下りて、岩山の麓のヘロディス・アッティコス音楽堂オデイオンへ。扇形の綺麗な客席だが、これはもちろん修復したもの。毎年、アテネ・エピダウロス芸術祭フェスティヴァルに使用され、過去にはミス・ユニヴァースの会場になったこともあるらしい。舞台に我が妻メグを立たせてみたくなる。ミスじゃなくてミセスだけど。

 それから北へ歩き、アレオパゴスという低い岩山に登る。古代の高等裁判所跡だそうだ。見たところ単なる岩の丘で、建物の礎石があったわけでもなく、なぜ高等裁判所だったと判るのか疑問に思う。

 しかしそこから南東に見えるアクロポリスはなかなか素晴らしい。都市の中に、なぜあそこだけ巨大な岩山が突き出しているのか、と思うが、それが聖なる場所だからだ、と言われたら文句の付けようもない。

 岩山を下りて、さらに北へ。聖使徒教会という石造りの教会があるが、もちろんこれは近代になって造られたもの。その近くにアグリッパ音楽堂オデイオン。アグリッパは古代ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの部下で、美術のデッサンのモデルとなる石膏像となって顔を知られているらしい。もちろん、俺は知らない。

 それからアッタロスの柱廊ストア。ペルガモンの王アッタロス2世がアテネで学んだことに対する謝礼として寄贈したもので、現在は古代アゴラ博物館。

 そのアゴラとは、古代の都市国家ポリスにおいて民衆の重要な集会場であった広場を指す。市場にもなり、また民会エクレシア――市民総会――の場所ともなった。現代ならどういう場所なのか、ちょっと想像が付かない。

 それより、アテネは古代オリンピックで有名だというのに、スポーツの練習施設はなかったのだろうか。

「あったわよ。リュケイオンね。もっと東の方だわ」

「リュケイオンというのは学校じゃないのか」

「学問と共に、身体を鍛える場所でもあったのよ。他ではギュムナシオンと呼んでいる場所。"gymnasiumジムネイジアム"の語源ね」

 gymnasionギュムナシオンの冠詞gymnosは“裸の”という意味であり、gymnasionは裸になる場所を指す。当時、身体を鍛えるためには裸になって訓練し、またオリンピックの競技も裸で実施した。

「裸になる理由は男性の肉体美の鑑賞するためと言われているわ」

「そうすると女性は競技を観戦できなかったんだろうか」

「いいえ、未婚の女性は観戦できたそうよ。参加はできなかったけれど、女性だけの大会もあったんですって。ヘライアというの」

「参加する女性はどこで練習したのかね」

「さあ? でも競技はスタディオン走だけだったらしいから、どこでも練習できたんじゃないかしら」

 我が妻メグの知識は素晴らしい。アテネを半日観光するだけで、こんなにもたくさんのことを憶えている。

「君も未婚だったら、古代オリンピックを見に行きたかったと思うかい?」

「あなたが出場するなら見に行ったと思うわ」

「俺と知り合う前だったら?」

「そうね……」

 メグは右手の人差し指を立てて、顎に当てる仕草をした。考えてます、という意味だが、本当は最初から答えが決まっているのではないかと思う。

「古代のオリンピック出場者はとても人気があって、優勝者を娘と結婚させようとして、父親が連れて行くこともあったそうよ。だから私も、もしかしたら連れられて見に行ったかも」

「そこで俺よりもハンサムで身体が鍛えられてて競技が強い男を見つけたら……」

「目には入るかもしれないけれど、好きになるのはあなただけだと思うわ!」

 いつもながらメグの答え方はうまい。しかしこれ以上訊くと「他の男性を好きになった方がよかったかしら?」などと拗ねるので、やめておく。



「マルーシャ、ナイトさんが結婚したことを、どうして教えてくれなかったの?」

 ティーラの目は、私を責めているのではなかった。ただ自分だけが知らなかったことが、とても寂しいのだろう。

「まさかここであなたと彼が会うとは思っていなかったのよ。次に合衆国へ行く前に、教えようと思っていたわ」

 ステージが始まる前に、裁定者アービターに依頼して、ティーラの知識とすることができたかもしれない。しかし知っていたところで、彼女の反応は大きく変わらなかっただろう。

 彼女の願いは彼と再び会うことであり、彼の隣に立つことではなかった。それは初めから諦めていたのだから。ただ夢には見たことがあるだろうけれど……

「クルーズの後で、彼と会ったことがあるのね?」

「ええ、何度か。彼は常に、あなたにもよろしくと言ってくれたわ」

「旅先からでもそれを伝えてくれればよかったのに」

「そんなことをしたら、あなたはそのたびに彼のことが気になって、ピアノに打ち込めないでしょう?」

 熱っぽかったティーラの瞳が、少し冷静さを取り戻したように見えた。

「本当にそうだわ。教えてくれなかったのは、マルーシャ、あなたが私のことを思ってくれたからだったのね。そのおかげで、彼とここで会えたんだわ。あなたにも神にも感謝しなければ……」

 13ステージ前のクルーズ以降、ティーラの設定がどう変わったか、私には知識としてしか与えられていない。仮想記憶の情報として。

 ショパン・コンクールに入賞したことでプロのピアニストになったのは事実だし、海外公演へ行くようになったのも事実。

 ただ私が本来持っている知識では、そんなことになるはずがない。なぜならティーラは私の第3の姿だから。表の顔としてオペラ歌手、裏の顔としてウクライナ対外情報庁の諜報員オペラティヴである人物に、プロのピアニストとして活躍する時間はない。

 現実世界では、最初に優しいマリヤがいて、第2の人格として攻撃的なハンナがいた。ハンナは、よくいじめられるマリヤを守るために生み出された。

 しかしマリヤは長ずるにつれ、その非常な優しさによって、第2の人格が他人を攻撃することすら拒否するようになった。そしてハンナを抑え込むために第3の人格エステルを生み出した。ハンナがエステルを愛するようになれば、表に出て来なくなると考えたのだ。

 ただほんの何度か、どうしても耐えきれなくなった時に、マリヤはハンナを頼った。ハンナはマリヤを守った後、マリヤが落ち着くまでの間、エステルを表に出すようにした。愛すべき慎ましさと繊細さを持ったエステルを。

 だがエステルは繊細すぎて、他人の目を気にするあまり、また気が弱すぎるあまり、すぐに裏に隠れてしまう。ハンナが甘やかしすぎたのかもしれない。

 ハンナは他人には攻撃的なのに、他の二つの人格には徹底的に甘かった。攻撃する者がいない間は、ハンナがマリアの性格を擬似的に演じ、マリヤが落ち着いたら交替する、ということが多くなった。ハンナが諜報員オペラティヴになったのは、マリヤがとても長く休み、エステルを表に出すこともままならなくなっている間だった。

 そのハンナが、仮想世界の中の“私”。オペラ歌手としては、“ハンナの演技”であることもあれば、マリアであることもある。エステルは凍結されていたようだが、同伴者としてアヴァターを与えられた。

 ハンナもマリアも、そのことをとても喜んでいる。心の中で会話をするより、こうして対面して話す方が、どれだけ楽しいことか!

 だが、エステルが本当に実在したとして、プロのピアニストになれただろうか?

 それにはとてつもなく大きなブレイクスルーが必要だと、私は思う。おそらくマリヤも同意してくれるだろう。

 私とマリヤがいない間に、否、エステルが同伴者として登場しない間に、何かあったのに違いない。

 もしかして、エステルがNPCとして登場するステージがあり、そこへ彼が競争者コンクルサントとして現れたのではないだろうか?

 もちろん、ステージが終わればNPCの設定はリセットされる。次に別の競争者コンクルサントが登場すれば、違うストーリーが綴られる。シナリオの中に用意された何十何百もの分岐の中の一つによって。

 唯一の例外は、彼がやったように、NPCをステージの外へ連れ出してしまうこと。それもリタのような特別なNPCだからできたことに違いない。他の競争者コンクルサントの同伴者を連れ出すことはできない。それはステージ内の行動制限として規定されている。

 だが彼とエステルの間には、特別な関係があるのだろうか? それが、他のステージのNPCであったエステルから、私の同伴者としてのエステルに、フィードバックされているのだろうか。

 そうだとして、そのことにどんな意味があるのだろう……

「アクロポリスを見ましょう、マルーシャ。あなたは前にもここへ来たことがあるのでしょう?」

「あるけれど、その時は珍しく大雨が降って、周りの景色がほとんど見えなかったのよ。パルテノン神殿は見たけれど、とても寂しそうだったわ」

「今日は雪だけれど、同じように寂しそうかしら?」

「いいえ、濡れていないだけでも全く違って見えるわ。上に雪が積もったら、また違った表情が見られるのでしょうね。晴れた時の姿は写真でいつでも見られるし、こんな滅多に見られない姿は、とても貴重だと思う」

「本当にそうね! それに一人で見に来るのと、あなたと一緒に来るのでも、違うと思うわ。気の持ちようだけで、景色も違って見えるはずだわ」

 ティーラは健気にも、夕方まで彼のことを忘れようとしている。愛すべきティーラ。しかし私は今回、彼女のその優しさを、利用しなければならないかもしれない。

 せめて結末だけは、彼女の素晴らしい思い出にしてあげたいし、そうなればいいと思うけれど。

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