#17:第7日 (13) 小旅行
聞き憶えがある。しかし振り返ると見憶えのない女が立っていた。女だよな? 確かに女だが、テオに似ていて、いやフェードラに似てるんだけれども、雰囲気が全然違う。
チェック柄のハーフ・コートのような長めのジャケットを羽織り、その下に若草色の襟付きシャツ、
明らかにマニッシュなコーディネイトなんだが、様相は間違いなく女。テオではなくフェードラ。曙の女神とは真逆のイメージ。
困ったな、何と呼べばいい?
「ヘイ、フィー、一緒に行ってくれる気になったのかい」
「
「それは無理だな。だってフェードラのための香水を着けているんだろう?」
「! そ、そうです……」
ほのかに漂うこの香りを、忘れるわけがない。昨日の朝と微妙に違うのも判るが、言葉で説明するのは無理。しかし女でありフェードラであることを主張しているのは間違いない。女……特に、恋する女。
妻帯者としては、連れ歩くのにちょっと躊躇するところはあるけれども。
「一緒に行ってくれる気になったんだな?」
「あ、はい……それで、タクシーを予約しておいたのを、お知らせしようと」
「君は運転できないのか」
「反射神経が鈍いので、運転免許を取るのはやめろと兄たちから注意されていて」
「俺と同じだ。よかったな」
「そうなんですか?」
「とにかくありがたくタクシーを使わせてもらうよ」
外に出て、待っていたタクシーに乗る。フェードラが運転手にギリシャ語で行き先を告げる。「洞窟のあるプシフロ」と言ったようだ。もちろんディクテオン洞窟のあるところ。
走り出してから運転手が「新婚旅行ですかい」と訊いてきた。つまり彼にもフェードラが女に見えるということだ。まさか同性パートナーとは思っていないだろう。
「まだ結婚前だよ。国際会議で知り合ったばかりでね」
「ああ、昨日までやってたあれで。そうですかい」
隣のフェードラを見ると、帽子で顔を隠してしまっている。しかし首筋が真っ赤。女性で、しかも俺のパートナーと思われたのを、そんなに恥ずかしがることはないだろう。本望じゃないのか。
「ヘイ、フィー。その服は誰が選んだんだい」
「うう……僕じゃないのはやっぱり判りますか」
「新品だから、用意していたはずはないだろう?」
「そうなんです……実は昨日、ミズ・エレンスカからプレゼントされて。いえ、彼女だって、今日のことを予想してたわけじゃないと思うんです。きっと僕が、あなたと、その……これを着て
いちいちまだるっこしい言い訳をするんだなあ。それに、デートと言えばいいのに
「昨日の朝のことも、彼女と相談したのかね」
「はい……ごめんなさい、あなたを騙すつもりなんてなくて……」
「俺は迷惑してないんだから謝らなくてもいいよ」
やっぱりマルーシャの差し金か。フェードラが俺のキー・パーソンと知ってのことだろうけど、彼女にどんなメリットがあるのかなあ。
それに、フェードラは「今日のことを予想してたわけじゃない」って言うけど、彼女のことだから、絶対予想してたと思うぜ。後で会った時に必ず訊いてやる。
タクシーはクレタ島の幹線道、90号線を東に走り、マリアという集落――聞き憶えがある。確か遺跡があるところだ――から南へ折れて、山地に入った。一山だけではなく、二山、三山越えて、奇妙なほど真っ平らな盆地、ラシティ高原へと降りて行った。
平らな部分はほぼ全て耕地らしく、なぜかその西側を迂回するように走って、プシフロの集落に到着。ただし洞窟へ行くには、そこから山道を少し登って、博物館やレストランが併設された観光用駐車場を利用するのが便利。
その駐車場でタクシーを降りると、運転手が「今夜はこちらでお泊まりですかい」と訊いてくる。
「いや、夕方にはイラクリオンへ戻る」
「待っていやしょうか?」
必要ない、と答えると運転手は「
さて、山越えが始まった頃からフェードラの顔色がよくない。おそらく車に酔ったのだと思う。何しろ坂道が
少し休んでから行こう、と言ってレストランに入る。土曜日の昼前なので繁盛しているが、もちろん外国人が多くて、国際会議からの帰国前に見に来た連中かもしれない。
フェードラはまたコーヒーだけを注文したが、俺はラムのトマト・ソース煮とグリーク・サラダにした。グリーク・サラダは実はホリアティキ・サラタで、クノッソスを見た後に港の近くのレストランで食べたものだ。
「たくさん食べるんですね」
「国際会議の昼食は少なかったな。それに栄養が偏っていた。分けてやるから君も少し食べなよ」
「喉を通りそうにありませんよ」
「食べておいた方がいいぞ。洞窟の中で腹が減るかもしれない」
「そんなに長い時間見るところなんですか?」
「中で何が起こるか判らないだろう?」
フェードラが明らかに戸惑っている。それはそうだろう。観光と思って来たんだから。
「……中で何かあるんですか?」
「君は俺が単に洞窟を見に来ただけと思ってるのかね」
「違うんですか? 何か研究することでも……」
「ここはミノア文明時代からの神聖な場所で、貴重な祭祀物がたくさん持ち込まれたらしいな。その一部は、洞窟の奥深くまで運び込まれて、まだ発見されていないかもしれない。それを探索することは学術的に大きな意味を持つ」
「まさか、あなたがそんなことに興味を持つなんて……」
「財団の非公開の仕事として、世界各地の遺跡を訪れ、密かに発掘と調査を行う特別考古学研究チームがある。俺はその一員で、先遣としてここへ来たんだ。本来はもちろん秘密任務だが、現地人の補助が必要な時は、他の研究の話をして、有能で秘密を守れるかを確かめることにしている。今回は君を選んだ。このことは間違っても口外しないように」
「ほ……本当なんですか、それは」
フェードラの顔がさっきより青ざめている。
「嘘だと思うかい。なら、昨夜の騒ぎは何だったと思う? あれは他国の研究チームが俺の行動を阻止しようとしてやったことだよ」
「ま、まさか、そんな……」
「信じられないかい?」
「とても現実のこととは……」
「もちろん、ジョークだ。一瞬でも信じるようなら、君は本当に好ましい人物だな」
「
前のステージのゲームで使った設定を流用したんだが、ネタばらしをする必要はないよな。フェードラの乗り物酔いがまだ醒めないようなので、別のことで緊張させてから、安心させることで気分をやわらげてやろうとしたのだが、うまくいったかどうか。
「スパイ映画のヒロインのような役割を期待したかい」
「ボンド・ガールのような? いえ、そんな想像はしませんでしたけど」
それ、いったい何て映画のキャラクターなんだろう。オックスフォードでも聞いた気がするし、世界的に有名なスパイ映画だったのか。
「でも君が有能で秘密を守れる女性であることは保証するよ。だから俺がここで普通の観光客がしないようなことをしても、見逃してくれ」
「有能なら止めるのが普通と思いますが……」
「そういうところが好ましいな、君は。機嫌直しにサラダを一口どうだい」
「じゃあ、一口だけ……」
しかし俺がキュウリとチーズをフォークで突き刺して食べさせようとすると、恥ずかしそうな表情をする。それでも食べた。さらにラムも一切れ食べさせる。心拍数が上がったのか、顔色がよくなってきた。食べたので血糖値も上がるだろう。気分も直るはず。
「あの……
「いつもは彼女がやりたがるんで、俺が困ってるんだよ。君も困るだろう?」
「僕を困らせたかったんですか?」
「君なら解ってくれると思ったんだよ」
フェードラが顔を真っ赤にして、固まってしまった。そしてもう一口と言っても受け付けてくれなくなった。怒ったのではないだろう。
食事を終え、レストランを出ると、駐車場から石畳の坂を登る。そこもまた
登りきったところに
「アテネのアクロポリスから風景を見たことがあるかい」
「いえ……」
「近いと却って行かないんだろうな。俺もマイアミのフリーダム・タワーに登ったことがないんだ」
「はあ……」
「でもロドス島のリンドス・アクロポリスには登ってきたよ。あそこは海も陸も見えるんだが、陸側には直下の集落以外、荒野が広がっていて、ここの景色によく似ている」
「そうですか……」
今一つ反応が鈍い。しかたないので少々強引な手を使う。
「高いところは怖いか?」
「いえ、そんなことは……」
「しかし落ちると危ないから身体を支えてあげるよ」
「!」
言いながらフェードラの腰に手を回し、少し引き寄せる。フェードラが「
しかしこの後、洞窟の中で道を踏み外す際の“共犯”になってもらう必要があるので、彼女の心をがっちりと掴んでおかなければならない。さっきの昼食の時からの、一貫した作戦だ。打算的で申し訳ないこととは思う。
「
「腰より肩の方がよかった?」
「いいえ……
「そろそろ洞窟へ入ろうか」
「はい……」
腰に当てる手の力を加減しつつ、振り返って洞窟へと向かう。フェードラの足元がおぼつかないが、もはや操り人形も同然だ。ただ、これまでの他のキー・パーソンズと反応が違いすぎて、いささかやりにくくもある。
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