#17:第7日 (14) 洞窟観光

 洞窟に入るには、まず山の斜面の短い階段を登る。幅が狭いので、フェードラの腰から手を放して、胸の目に差し伸べる。自然に手を握ってくる。一度閾値しきいちを超えてしまうと、それに満たないものが平気になるという典型だ。

 次に閾値を超えるのは抱き寄せてキスをする時だろう。ただし予定はしていない。

 10段ほど登ると、すぐ下り階段に変わる。ジグザグに折れた階段を降りていく。すぐ先に洞窟の入り口が見えている。なかなか急な階段で、フェードラに「足元に気を付けなよ」などと言いながら降りる。

「ドクターこそ、前を見て降りないと、危ないですよ……」

 フェードラはいまだ「アーティー」と呼んでくれる気配はないが、パートナーになったのを喜んでいるのは間違いない。足取りが軽くなっている。

 洞窟に入ってもずっと下り階段。かなり深くまで続いているが、中は広くなっていて、ドームのよう。天井や壁に張り付いた石柱や石筍が、緑の光に照らされているのが見える。

 道が二手に分かれる。順路は左。このまま階段を降りていき、底の方を奥へ向かって歩いてから折り返し、右手の階段を登ってくるという、ラケット型の回廊だ。長さは250メートルほど。リーフレットによれば広さは2200平方メートルとある。

 カリブ海の無人島で入った洞窟より、格段に広い。いや、一番最近はニュー・カレドニアのパン島イル・デ・パンだな。何とかいう女王の洞窟。しかしあれは奥行きがほとんどなかった。

「君は他でこんな洞窟に入ったことがあるかい」

 フェードラの手を引いて階段を下りながら訊く。

「ありません。アテネの近郊に観光洞窟なんてないんですよ。それに古い洞窟はクレタ島に多いと聞いています。僕はクレタに来たのは初めてで……」

「洞窟に神話を結びつけるのをどう思う」

「中に何があるか判らないところに、神秘性を見出すんだと思います。あるいは自然の驚異を神の力に結びつけるとか……」

 意外に冷静だな。手を握っていることにもう慣れたのか。そのわりに、手が汗ばんでるから、緊張はずっと続いてるんだろうけど。

 底まで降りてきた。右手へ平坦な道が続くが、まず左手の隅の壁にある窪みニッチを見る。“ゼウスのリクノン”と呼ばれる。リクノンとは穀物を入れる平らな籐の籠のことで、神話では生まれたてのゼウスのベッドに使われたとされる。

 そこの窪みニッチにゼウスが寝たわけではないが、ちょうどこれくらいの大きさでしょう、というだけ。

 右手へ進むともう一つの見どころ“ゼウスの外套マントル”。洞窟内で最大の鍾乳石スタラクタイトだ。天井から底まで、人の胴回りの5倍以上ある太い石がそそり立つ。ただ、外套マントルには見えない。立派なので何か名前を付けよう、と思っただけだろう。

 そして名前が付いているのはこの二つの他に“祭壇”だけ。それは自然地形ではなく、人が削って祭祀物を置けるようにしたものだ。

 神話と結びついてるんだから、もっと命名物があってもいいと思うのに、ずいぶん控えめだ。おそらく日本人ならもっと名付けがうまいだろう。ちょっと形が似ているというだけで、仏像だの皿だの亀だのと付けるに違いない。

 その先でまた階段を降りる。洞窟の底は上下二層に分かれていて、ここからが下層。天井が低くなり、幅も狭まる。鍾乳石が間近に見え、水たまりの上を越えたりする。説明によればかなり古い時代に道を作った跡があるとのことで、古代人も奥まで見に来たようだ。灯りはどうしたのだろうと思う。

 さて、どうやら一番奥まで来た。もちろん洞窟自体はもっと奥があるが、順路がここで折り返すことになっている。この先は幅が狭いからだろう。

 そして実はさっきから俺は、石を見ているふりをして、違うものを探していた。地面の足跡。過去に調査した人のものではない、ついさっき入ったような新しいものを。

 それがまさにここにあった。ただし部分的なので大きさは判らず、男のものか女のものかもはっきりしない。しかし付けた奴の想像は付く。競争者コンテスタントだ。

 しかも一人ではなく、二人、あるいは3人かもしれない。とにかく俺が後手を引いているのは明らか。

 当然、俺もここから奥に入っていきたい。フェードラは見逃してくれるだろう。あるいは付いて来てくれるかもしれない。しかし他の人目はどうか。周りには観光客がたくさんいる。

 もっと早く、オープンしたばかりで人がいない頃に来ればよかったのだろうが、それは8時だ。マルーシャですら、ホテルにいた。せめて10時頃なら、もっと人目は少なかったろう。

 さて、どうするか。といっても、何とか人目を盗んで――あるいは衆人環視の中であっても――奥へ行くべきなのだが。

「フィー、俺が何を考えてるか解るかい」

「何って……まさか、さっきおっしゃってたことを……」

「君、人目を別のところへ引き付ける役をやってくれないか」

 共犯にするつもりだったが、さすがにこれだけの観光客の中では、彼女を連れて行くのは難しい。

「人目を……って、いったいどういう……」

「例えば喧嘩したふりをして、大声で何か言いながら外に出て行くとか」

「そ、そういうことを訊きたいんじゃなくて……」

「頼むよ。それが君に迷惑がかからなくて一番いいと思うんだ」

「そんな……」

 フェードラの、俺の手を握る力が強くなった。我が妻メグなら「何て軽率な」「知性あるあなたの振る舞いじゃないわ」などと言って止めるに違いないが、彼女は果たしてどうか。

「そ、それに、この洞窟に、奥があるわけないですよ。リーフレットに書かれてますが、面積はたった2200平方メートルです。正方形なら一辺50メートルもないような……」

 フェードラが早口になって言う。やはり俺を引き留めたいらしい。もちろんそれが常識的な行動だろう。俺の方がおかしい。連れて来るべきじゃなかったんだ。

「うん、47メートル弱だな」

「いえ、正確な値はともかく、洞窟が続いていても、この先、せいぜい十数メートルくらいしか……」

 フェードラが言葉を切った。そして天井を見上げる。何か落ちてきたわけではない、揺れたのだ、洞窟が。もちろん地震だ。

 そこそこ強いじゃないか。メルカリ震度で5か6くらい? 5は“中くらいモデレイト”で6は“強いストロング”だったよな。周りの観光客が騒ぐ。すぐに揺れは治まったが、洞窟の出口へ向かって皆が通路を戻っていく。階段を駆け上がる足音も聞こえる。ちょっとしたパニックだな。この程度で、洞窟が崩壊するわけでもないだろうに。そりゃあ、上から水滴が降るくらいはしたろうけど。

 それにしても、まさか仮想世界の中で地震まで起こるとは思ってなかった。これはもしかして仕組まれたことか。だとしたらチャンス。

「あっ、ドクター!」

 フェードラの手を振りほどき、手すりを乗り越えた。洞窟の先の、光の届かない暗闇に向かって歩く。フェードラが付いて来るかどうかは、彼女の自主性に任せよう。

待って下さいっプリーズ・ウェイッ!」

 追いかけてきた。振り返ると、洞窟の最下層にはほとんど誰もいなかった。おそらく上から「外へ出ろ」とでも呼びかけがあったのだろう。

「付いて来なくてもいいよ、君は」

「でも……でも、ここであなたと別れるなんて、僕には……」

 フェードラが泣き声になる。俺が出て来るまで待っていればいいだけなのに、大袈裟な。しかし我が妻メグだっていざとなったら「あなたの行くところなら、どこへでも!」と言って付いて来るんだろうなあと思う。

「OK、フィー、一緒に行こうか。俺が無理矢理連れ込んだことにしてやる。君に何の責任もかからないようにな」

 言いながらまた手を握ってやったが、フェードラは「ああ、神様オー・セー・モウ!」と感情のこもった声で呟く。なぜ心の準備ができてないんだ。

 とにかくフェードラと共に、十数ヤード先の、光の届かないところへ。もちろん人目も届かない。そこで用意のペン・ライトを点す。辺りが少しだけ明るくなる。

「ところで、何を探すんですか?」

 少しばかり上気した顔のフェードラが訊いてきた。うむ、実は俺もそれが気になっていた。これに関して、一つ二つ後悔してることがあって。

 要するに、洞窟に関する調査が足りないんだよ。リーフレットによれば、中で発見された祭祀物は、イラクリオン考古学博物館に展示されている、とある。俺は見に行ったが、その展示には気付かなかった。ちゃんと見ておくべきだったんだ。

 思い返せば、マルーシャはあそこで解説本を買って読んでいた。この洞窟のことも書かれていただろう。さすがと言う他ない。

 あるいは下の駐車場の脇にあった、ギリシャ神話の博物館。バックヤードでこの洞窟のことを訊いた時にビッティーが言及していた。わざわざ言ってくれたんだから、何かあると考えてしかるべきだった。

 時間がないからって、洞窟に入ることを急ぎすぎたんだよ。もちろん、今さらどうしようもないことだが。

「さっき祭壇を見たのを憶えているかい」

「ええ、ミノア文明の時代の……」

「その頃から聖地とされていたそうだが、それにしては小規模だったと思わないか」

「そうかもしれませんが……えっ、そうすると?」

「この先に、もっと立派な祭壇、つまり聖堂のように天井の高いところがあるのではと思う」

「でも……リーフレットにはそんな説明はありませんし、地図も……」

「過去にはあったが、土砂が流入して埋まった。あるいは天井が崩落して行けなくなった。そういうこともあるんじゃないか」

「はあ……」

「もちろん、今の装備でそれを掘り出すことはできない。しかし形跡を探すことくらいはできるかも」

「形跡……埋まった跡ですか」

「そういうこと。地質の違いを調べるだけなら、俺でもできる。ただ、君のおろしたての綺麗な服が汚れるかもしれないので、申し訳ないけれどね」

「いえ、そんなことを気にしていただかなくても……ですが、これまでにここで、そういった調査はされなかったのでしょうか?」

 鋭い指摘。何とか理由を付けなくては。

「古代遺跡に関する調査は、強い興味を持つ人だけではなく、莫大な費用が必要なんだよ。例えばクノッソスはどうだ。あんなに有名な遺跡で、アーサー・エヴァンズの時代から130年以上経っても、調査も復元もまだ終わってないんだぜ」

「た、確かに……」

「クレタ島には他にもたくさん遺跡がある。都市遺跡の調査は古代の生活を知ることにつながるから、自然物よりも優先されがちなんだ。それにここは“聖地”だ。古代人は文句を言わないけれど、それなりの配慮が働くのさ。深い地底湖でもあれば、ダイヴァーが潜りに来たかもしれないけどね」

 リーフレットから、ここでは洞窟内の残留物の調査が主だったというのは判っている。開放された場所なので、調査隊以外の人でも勝手に入ることができて、何でも持って行ってしまうのだ。だから洞窟底の泥を深く掘って調べる、などということはせず、表層部を少しほじくって古代の遺物を探す、という程度になる。

 まあ、俺が言ったことの大半は、口から出任せなんだけど。

「そ、そういうことなら、僕も少しはお手伝いができるかも……」

 フェードラは信じてしまったようだ。もちろん催眠術の効果だろう。

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