#17:第7日 (6) いくつものアリアドネ
ドアを開け閉めする音がして、静かな裸足の足音がして、右舷の廊下がぼんやりと明るくなった。蛍のような黄緑に光る、丸いランタンを持ったアリアドネが姿を見せる。顔は正面を向いているが、目はどこも見ていない。
もちろんランタンは行く先を照らすためでなく、自分の居場所を相手に教えるために持っているのだろう。蛍光に照らし出されたアリアドネの表情はとでも穏やかで、やはりフェードラによく似ている。
「フィー、
「ここだよ、リーア」
アリアドネの呼びかけに、フェードラが返事をする。リーアというのが彼女のニックネームらしい。こちらへ歩み寄ってきて、1ヤードほどのところで止まった。少し戸惑ったような表情を見せる。
「もう一人誰かいるのですか?」
なぜ気付くんだ。
「ドクター・ナイトの奥様が。気絶しているんだ」
「ドクター?
疑問点はそこなのかよ。
「君の知らない人がたくさんいると、君を驚かすかと思って言わなかったんだ」
「そうでしたか。でも気絶している方がいらっしゃるなら、教えてくださればよかったのに。気付け薬を取ってきます。少しお待ち下さい」
「フェードラ、アリアドネはどうしてメグがいることに気付いたんだろう?」
暗い中、黙っていては保たないのでフェードラに話しかける。
「おそらく、香水で……彼女は嗅覚がとても鋭いですから」
「でも俺はついさっきまでメグを抱いてたから、身体に香水の匂いが付いてると思うぜ。倉庫の中で、アリアドネは気付かなかったのか」
「そうですけど……彼女のところへ行く間に、香りが薄れたとか……」
いや、10分程度でそれはないと思うなあ。しかし、
「……それにしても、リーアはあなたのことを全く警戒していませんでしたね。こんなことあり得ないと思ってました」
「君の友人だと自己紹介したからな」
「それでも初めて、しかも突然現れて……」
「人見知りが激しいのかね」
「それどころか、この5年くらい、僕ら家族と厨房の
いくら船に乗りっぱなしだって、それは極端だろう。で、家族以外になぜコックが含まれてるんだ。好きな食べ物を作ってもらうには会話が必要だってこと? まさかコックも女じゃないだろうな。
「どんな食べ物が好きなんだ」
「は?」
「アリアドネだよ。コックに作ってもらってるんだろう?」
「一定してないんですよ。同じものを1ヶ月も2ヶ月も続けて食べるかと思えば、毎日朝昼晩と違う料理を作らせたりして。コックは言われるままに作ってるんです。世界中の料理を調べなきゃいけないから大変だと愚痴を……」
ドアが開け閉めする音がして、アリアドネが戻ってきた。迷路を往復したはずなのに、意外に早かった。さっき通ったばかりで道を憶えていたのか、それとも隠された
「フィー、ドクターの奥様はあなたの近くね?」
「僕はここに座っていて、その膝の近くにいるよ」
「ドクター、奥様に薬を嗅がせてよろしいかしら?」
「いいけど、気絶してるんじゃなく、睡眠薬で眠らされているから、起きるかどうか解らんよ」
「そうですか。けれど、やってみましょうね」
アリアドネはまるで見えているかのようにフェードラの側へ寄っていき、床に膝を突いて、ランタンを床に置くと、
それはともかく、アリアドネは
「起きませんか、フィー」
「起きないよ、リーア」
「では致し方ありません。もう少し待ちましょう。ところでドクター、お願いがあるのですが」
アリアドネは言いながら立って、俺の方を見た。俺はアリアドネが戻ってきてからまだ声を発してないのだが、どうして俺がいる方向が解るんだ。やっぱり匂いか。
「ドクターではなくアーティーと呼んでくれたらお願いを聞くよ」
俺が答えると、アリアドネは小首を傾げつつ、不思議そうな顔をした。そういう仕草って、目が見えなくてもやるものなんだな。他人の仕草を見て憶えるのかと思ったが、脳の働きに関係しているのか。考えごとをする時は、自然に斜め上を向くよなあ。
「フィーはあなたのことを、ずっとドクターとお呼びしていましたが……」
「いかんね、フェードラ。俺のことは公私にわたってアーティーと呼ぶんだよ」
「ううっ、ごめんなさい、だって……あなたのことを名前で呼ぶと、胸が苦しくて……」
なんと
「フィーはあなたのことを愛してしまったので、そうなるのですね。ですが私はアーティーとお呼びしましょう。お願いを聞いていただけますか?」
「何なりと」
「お顔を触らせて下さいますか」
何のために。しかし見知らぬ
「首に立派な筋肉が付いてらっしゃいますが、アスリートなのでしょうか?」
「ああ、ヘラクレスに負けてないと思うね」
「フィーが愛情を感じるのがあなたのようなタイプとは思っていませんでした。ですが、きっと私に見えていない特質があるのでしょうね」
そうだな。俺の催眠術は、目の見えない君にはかけようがないから。
「なぜ顔を知りたかった?」
「フィーのために作った香水を、あなたのイメージに合わせて作り直したかったんです。フィーは私に言葉を尽くして説明してくれましたけど、伝わりきらなかったんですもの」
「ああっ! だって、だって、ドクターの顔を思い浮かべると、冷静でいられなくなるから! 胸がいっぱいになって、言葉が出なくなるから!」
ますますもって中学生の反応だな、フェードラ。
「OK、アリアドネ。そろそろここからどうやって脱出すればいいか教えてくれないか」
「まず一つはエレヴェイターを使うことです」
「電源が入るのか」
「いいえ、電気は使いません」
アリアドネがエレヴェイターの扉の前へ行く。扉の合わせ目に両手の指をかけ、左右に広げる。あっさりと開いてしまった。そこには暗い穴が開いているばかり。エレヴェイターじゃない、エレヴェイター・シャフトを使うんじゃないか。そういやナポリのあの島でも、エレヴェイター・シャフトに入ったなあ。
「中に梯子があるのか」
「はい。登ればレヴェル4に出られます」
「使いたいところだが、
「階段から出られないのは、シャッターが閉まっているからですか? あなたが上に行って、それを開けて下りてくれば……」
改めて、閉じ込められた事情を話す。そしてシャッターの鍵穴が潰されているのではないか、エレヴェイターの扉も何らかの手段で空かないようにしてあるのではないかという予想も伝える。
アリアドネは「確かめてきましょう」と言って、一人でシャフトの中の梯子を登っていった。器用なものだ。目が見えないということは、暗闇と高さの恐怖を知らないということでもある。
しばらくしたら戻ってきて「上の扉は開きませんでした」と言う。
「しかし、こんなことをしていれば船員が気付きそうなものですが」
「俺たちが捕らえられたことも気付いてないんだ。船員の中に裏切り者がいるんだろう。ソクラテスにも嘘の報告が行っているかもしれない。お客はもう帰ったようだ、見送った船員がいる、ってね」
「何のためにそんなことをするのですか」
冷静に訊かれてしまった。ここで下手に「奴らは船の中から何か盗もうとしている」などと言おうものなら「なぜあなたがその邪魔になるのですか」と指摘されてしまいそうだ。
「リーア、そんなことはどうでもいいよ。僕だってこうして閉じ込められてるんだ。悪い連中が、船を乗っ取るために、見境なくやっているのかもしれない」
「船を乗っ取るということは、アリアドネの承諾を得ることですよ。彼女がそんな決定を下すはずがありません」
「コンピューターの専門家を連れて来ているかもしれないじゃないか」
「そんなことになったら、電源を落とすだけですよ。再起動は私がやらないとできません」
「だったら次は君を狙いにくるかも……」
「ヘイ、君たち、話が見えなくなってきたぜ。アリアドネ、君が言うアリアドネってのは何のことだ?」
声をかけたら、アリアドネがこっちを向いた。俺のことは見えないんだから、顔を向ける必要なんてないのに。もしかしたら癖なのか。
「フィー、アーティーには何も話さなかったのですか?」
「話してないよ。だって、そんな必要ないもの」
「では私からお答えします。アリアドネはこの船を制御するコンピューター上の人工知能の名前です。紛らわしいから、船の中の人はみんな私のことを、リーアと呼ぶんですよ」
ああ、紛らわしくてしかたないね。船の名前がアリアドネ、人工知能の名前がアリアドネ、末妹とその祖母がアリアドネって、重なりすぎだろうよ。
「じゃあ、俺も君のことをリーアと呼んでいいかい」
「もちろんです。それから、フェードラのこともフィーと呼んであげて下さい。フェードラも船の中で、別の物に名前が付けられてるんですよ。それが何か、お教えしましょうか?」
「絶対教えちゃダメだったら!」
何だよ、フィー、そんなに恥ずかしい物に名前が付けられてるのか。
「名前の件は了解した。さて今の話だと、俺たちの脱出より、先にコンピューターが無事かどうかを確認しに行くことが重要かと思うが」
「船がまだ動いていませんから、何もないと思いますが、見に行きましょうか? もう一つの出口もそちらの方にありますし」
「この後ろか」
「そうですよ。よくご存じですね」
「君に会いに行く前に、ちょっと覗こうとしたんだが、ドアが開けられなくて諦めたんだ」
こういうときは正直に言っておく方がいいだろう。アリアドネは特に表情も変えず、「では、アリアドネを見に行きましょう」と言って、床に置いていたランタンを拾い上げた。
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