#17:第5日 (8) 懐柔の効果

 イラクリオン空港に着くと、またテオが待っていた。ずいぶんと機嫌のいい笑顔。そして俺より先に我が妻メグの方へ声をかけた。

「ミセス・ナイト、いつもあなたの夫ユア・ハズバンドを煩わせてしまい、またあなたと彼の時間を奪ってしまい、大変申し訳ありません。でも今日限りですから」

「まあ、ミスター・クロニス! そんなこと、お気になさらないで下さい。私の夫マイ・ハズバンドは常々、出張中は寝る間以外の全ての時間が仕事だと申しています。今回のように私が同行するのが例外なのですわ。それで彼に余計な時間と気を使わせているようです。それに彼はあなたとの議論を大変楽しみにしています。どうぞ時間の許す限り彼と議論なさって下さい」

 ううむ、テオが我が妻メグを懐柔しにかかるとは思わなかったな。でも最後の最後じゃなくて、もっと前にやれよ。そして我が妻メグの模範的な返答。まるで常々練習しているかのよう。

 ところで、君は俺の時間を余計に使ってるって言うけど、主に睡眠時間を削ってるよなあ? 今夜は少し早めに寝かせてくれないか。

「式に当てはめる数値は集まってるかい」

 タクシーに乗りながらテオに訊く。もちろん彼は俺の横。我が妻メグは助手席だが、昨日より機嫌がよさそうに見える。懐柔効果か。

「難航しています。でもそれは僕の仕事ですから」

「共同研究について確認したが、やはり待ちが長いらしいよ」

「それも僕の方で何とかします。それより、早く議論を……」

 焦っているようで、焦っていない。そして議論は快調に進む。議論というのはだいたいそういうもので、最初の頃は概念や用語で引っかかるのだが、そのを越すと後は坂道を下るがごとし。

 ただし残念ながらタクシーの中だけでは終わらず、ホテルに着いてロビーでしばしの続きが必要だった。

「どうもありがとうございました、ドクター・ナイト! 本当に長々とお時間を取っていただいて」

 テオが照れ臭そうに礼を言う。最後まで俺をアーティーと呼ぼうとしなかったな。

「研究に興味を持ってもらえるのは嬉しいことだよ。それが研究者の存在意義でもあるからね」

「でも僕だけなく、ミズ・エレンスカもあなたと議論がしたいそうで、明日はぜひお時間を、とおっしゃってました」

「それは考えておく」

「それから、プラトンもあなたの時間が欲しいと」

 おやおや、向こうの方から来たか。いったいどういう経緯で。

「どういう話をしたいか解らないから、時間が読めないな」

「それについては、財団のブースへ行って彼自身で交渉すると。だから財団のどなたかからあなたに報告があるはずです。すいません、最初は僕が交渉を頼まれたのに、渋っていたら、彼が短気を起こしてしまって」

「気にするな。君を通じて頼まれたのに断ったら、君も嫌な思いをするだろ」

「断るつもりですか?」

「明日になってみないと判らないんだよ」

「そうですか。では、明日もセッションを聴講したり……」

「もう一回司会チェアマンがあったはずだが」

 言ってから我が妻メグを見る。

「ええ、1時からです。テーマは『見えない流れの可視化とシミュレイション』」

 我が妻メグがさも当然のように答える。そういうの、今朝から準備してたのか。ディナーの後で憶え直すのかと思ってたよ。

「そうでしたか。では午前中か、3時以降ですね。僕も同席するかもしれませんが、時間や場所はプラトンから聞きます」

 それからテオはまじまじと俺の目を見て、いや俺と我が妻メグの目を交互に見てから、言った。

「改めて、ありがとうございました、ドクター・アンド・ミセス・ナイト。ご教授いただいたことは、必ずクロニス・グループとギリシャのために役立てるよう、努力します」

「あまり気負いすぎるなよ、テオ。研究はやっていて楽しいのが一番だ。もちろん、役立つ研究であることが望ましいが、結果が出るまでそういうことは考えない方がいい」

「ええ、僕も研究と議論なこんなに楽しかったのは初めてです。これからもこの楽しさを忘れないように……」

 テオが去った後で我が妻メグが「とてもいい表情になられたわ」と呟く。訊こうと思っていたが、手間が省けた。

「最初と印象が違うかい。たった3日前だが」

「ええ、初めてご挨拶したときは何だか少し苦しそうというか、心配事がおありのような感じで。それにあなたのことを見る目つきが、ただならない雰囲気の時があったわ。それに比べたら今日は、全てが解決してすっきりしたという感じで」

 目つきがただならないのは気付かなかったな。傍目から見ていないと判らなかったのか。しかしその他は俺の感じたのと同じだ。

 あと、不思議に思ったのは、我が妻メグの懐柔の仕方。短かったが、我が妻メグの性格を完全に見抜いた上で、という言葉だったな。でも彼自身で考えたんじゃないと思うなあ。我が妻メグとは挨拶しかしてないはずだ。

 かといって誰かにアドヴァイスをもらったか? それも違う気がする。ここには我が妻メグの性格を把握している奴なんていない。マルーシャもいないし、せいぜい口のうまいエリックくらいか。でも奴はテオを避けてたような気がする。

「ところでディナーは」

「あら、大変、時間を過ぎているわ。急ぎましょう」

 今夜は誰と同じテーブルになるんだろう。インド人と二晩続けてだけは勘弁してくれよ。



 空港の、約束の場所で待つ。がやって来た。充実した技術テクニカルツアーだったようだ。

「頼まれてた見張り、ちゃんとやって来たわよ!」

「ありがとうございます。これはお約束のお礼です」

 に札束の入った封筒を差し出す。マリッサ・アンドレッティ。ペンシルヴェニア大学の地域科学リージョナル・サイエンス研究科の大学院生。事務局から半額補助をもらって会議に参加したと言っていた。あるセッションを聴講した後で、声をかけた。

「まだ何も報告してないのに」

「でもお約束ですから」

「じゃあ、報告するわね。最初、ロドスの城郭都市へ行くまでは、近くで見ていただけなのよ。彼に近付こうとする人はほとんどいなかったわ」

 彼の妻がアリストテレスに頼まれて案内役をすることになり、彼は一人で回ることにしたようだったと。城塞都市では誰にも声をかけず、誰からも声をかけられなかった。

「それで昼食の時に、同じテーブルに座るように勧めたのよ。それからリンドスの遺跡を見終わるまでは、ずっと一緒にいたわ。その間彼は、奥さんヒズ・ワイフ以外とは話をしなかったはずよ」

「何か変わったことは? ハプニングのような……」

「あったかしら? そうそう、リンドスの遺跡を見るとき、二班に分かれたんだけど……」

 彼の妻とソクラテスが率いる班と、アリストテレスとSVが率いる班に分かれた。別々のルートで見て回った後、アテナの神殿の辺りで、見たこともない女性が現れて、アリストテレスやSVに話しかけていた。最初、どちらの方へ話しかけたのかは、見ていない。

 女性は真っ白な長いドレスを風にはためかせていた。観光ツアーで来た客には見えない。顔は東洋系オリエンタルだったように思うが、近付けなかったのでよく判らない。話していた内容も不明。

 ……全く未知の存在だ。どこで見逃したのだろう。あるいは昨日、マリアにもう少し長くいれば、私もその女性に会えたのだろうか。SVに関係しているに違いないのだから。

 その女性は、どこへ行ったのか。クレタ島へ帰ってきたに違いないが、技術テクニカルツアーの一行はチャーター機なので、同じ便であるはずがない。先に帰ってきたのなら見逃したろうが、後からなら? しばらく見張っていれば、見つけられるだろうか。しかしロドスからの便は、この時間以降ありそうにないが……

「重ねてありがとうございました、ミズ・アンドレッティ。もし明日、どこかで彼女を見かけたら、私のホテルへメッセージを入れて下さいますか」

「解ったわ。ところで、どうして彼の行動が知りたかったの? あなた、本当は技術者じゃなくて探偵とか?」

 記者ジャーナリストが流した噂でそう思ったわけではないだろう。まだ彼女の耳には入っていないはず。

「ええ、実は私、CIAの諜報員オペラティヴなんです。でも昨日までに彼に近付きすぎたので、これ以上は警戒されると思って、あなたに頼んだんですわ」

「ワオ、面白いジョークね! 本当は彼のことが気になるんでしょう? ぶっきらぼうだけど、さりげなく優しくしてくれたわよ。彼の奥さんヒズ・ワイフも素敵よね。割って入る隙はなかったと思うわ」

 合衆国人をごまかすにはつまらないジョークに限る。礼を言って別れた。

 さて次は、と思っていたら、後ろで足音がした。うっかりしたのではない。わざと私に聞かせたのだろう。

 SV……スペンサー・ヴァンダービルト。カーキの服は、夕闇の中では目立ちにくい。

「見張りを雇うとはなかなか面白いことをするお嬢さんチックだ」

 帽子を脱いで、手でもてあそびながら、ヴァンダービルトは言った。

「あなたを見張るためじゃありませんわ」

「解っているさ。でも結局は僕の行動も筒抜けだった。しかしそれでも問題ない。そもそもアリストテレスにツアーのガイド役として、僕を推薦したのが君だってことは、ちゃんと知っていた」

「それでも敢えてお受けになったのはどうしてです?」

「その方が都合がよかったんだよ。彼が突然予定を変更して、ツアーへ行くことになって慌てふためいてたら、ガイドの話が降ってきて。本当はクレタ島で仕掛けるつもりだったんでね」

「予定が変更になったのは私のせいじゃありませんわ」

「それも知ってるよ。もう一人の競争者コンテスタントのせいだ。あの記者ジャーナリスト。しかし君にとっては、僕とアリストテレスをクレタから追い払う方が、都合がよかったってだけなんだろう? 僕より彼女の方を警戒してるらしいな」

「どうお考えになっても構いませんわ」

「彼女は僕も苦手なタイプだ。しかしもしかしたら、君の方が食えないお嬢さんチックかもしれんね、歌姫ディーヴァマルーシャ」

 それに対して、私は何も答えなかった。SVも答えを期待していなかっただろう。すぐに立ち去った。

 彼が声をかけてきた理由が、よく解らない。あるいは、私が彼をアリストテレスに推薦したことに対する、礼を言いに来たのだろうか。一見してそれとは解らない形で。

 とにかく、彼のことはもういい。この後のことは。

 まず、テオプラストスともう一度会う。明日の朝のことで、打ち合わせをした方がいい。彼女の、大切な思い出作り。

 二つ、東洋系オリエンタルを捜すこと。これはうまく行くか判らない。SVが適切に隠しているかもしれないから。

 三つ、アステールを捜すこと。警告を与えなければならない。彼は無垢で、欺かれやすすぎる。それとも彼は無垢なふりをして、欺かれることが好きなのだろうか。

 最後に、船に忍び込むこと。ただし深入りはしない。私の懸念を確認するだけでいい。

 あるいはそれは、夜中を過ぎてからの方がいいかもしれない。

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