#17:第5日 (8) 懐柔の効果
イラクリオン空港に着くと、またテオが待っていた。ずいぶんと機嫌のいい笑顔。そして俺より先に
「ミセス・ナイト、いつも
「まあ、ミスター・クロニス! そんなこと、お気になさらないで下さい。
ううむ、テオが
ところで、君は俺の時間を余計に使ってるって言うけど、主に睡眠時間を削ってるよなあ? 今夜は少し早めに寝かせてくれないか。
「式に当てはめる数値は集まってるかい」
タクシーに乗りながらテオに訊く。もちろん彼は俺の横。
「難航しています。でもそれは僕の仕事ですから」
「共同研究について確認したが、やはり待ちが長いらしいよ」
「それも僕の方で何とかします。それより、早く議論を……」
焦っているようで、焦っていない。そして議論は快調に進む。議論というのはだいたいそういうもので、最初の頃は概念や用語で引っかかるのだが、その山を越すと後は坂道を下るがごとし。
ただし残念ながらタクシーの中だけでは終わらず、ホテルに着いてロビーでしばしの続きが必要だった。
「どうもありがとうございました、ドクター・ナイト! 本当に長々とお時間を取っていただいて」
テオが照れ臭そうに礼を言う。最後まで俺をアーティーと呼ぼうとしなかったな。
「研究に興味を持ってもらえるのは嬉しいことだよ。それが研究者の存在意義でもあるからね」
「でも僕だけなく、ミズ・エレンスカもあなたと議論がしたいそうで、明日はぜひお時間を、とおっしゃってました」
「それは考えておく」
「それから、プラトンもあなたの時間が欲しいと」
おやおや、向こうの方から来たか。いったいどういう経緯で。
「どういう話をしたいか解らないから、時間が読めないな」
「それについては、財団のブースへ行って彼自身で交渉すると。だから財団のどなたかからあなたに報告があるはずです。すいません、最初は僕が交渉を頼まれたのに、渋っていたら、彼が短気を起こしてしまって」
「気にするな。君を通じて頼まれたのに断ったら、君も嫌な思いをするだろ」
「断るつもりですか?」
「明日になってみないと判らないんだよ」
「そうですか。では、明日もセッションを聴講したり……」
「もう一回
言ってから
「ええ、1時からです。テーマは『見えない流れの可視化とシミュレイション』」
「そうでしたか。では午前中か、3時以降ですね。僕も同席するかもしれませんが、時間や場所はプラトンから聞きます」
それからテオはまじまじと俺の目を見て、いや俺と
「改めて、ありがとうございました、ドクター・アンド・ミセス・ナイト。ご教授いただいたことは、必ずクロニス・グループとギリシャのために役立てるよう、努力します」
「あまり気負いすぎるなよ、テオ。研究はやっていて楽しいのが一番だ。もちろん、役立つ研究であることが望ましいが、結果が出るまでそういうことは考えない方がいい」
「ええ、僕も研究と議論なこんなに楽しかったのは初めてです。これからもこの楽しさを忘れないように……」
テオが去った後で
「最初と印象が違うかい。たった3日前だが」
「ええ、初めてご挨拶したときは何だか少し苦しそうというか、心配事がおありのような感じで。それにあなたのことを見る目つきが、ただならない雰囲気の時があったわ。それに比べたら今日は、全てが解決してすっきりしたという感じで」
目つきがただならないのは気付かなかったな。傍目から見ていないと判らなかったのか。しかしその他は俺の感じたのと同じだ。
あと、不思議に思ったのは、
かといって誰かにアドヴァイスをもらったか? それも違う気がする。ここには
「ところでディナーは」
「あら、大変、時間を過ぎているわ。急ぎましょう」
今夜は誰と同じテーブルになるんだろう。インド人と二晩続けてだけは勘弁してくれよ。
空港の、約束の場所で待つ。彼女がやって来た。充実した
「頼まれてた見張り、ちゃんとやって来たわよ!」
「ありがとうございます。これはお約束のお礼です」
彼女に札束の入った封筒を差し出す。マリッサ・アンドレッティ。ペンシルヴェニア大学の
「まだ何も報告してないのに」
「でもお約束ですから」
「じゃあ、報告するわね。最初、ロドスの城郭都市へ行くまでは、近くで見ていただけなのよ。彼に近付こうとする人はほとんどいなかったわ」
彼の妻がアリストテレスに頼まれて案内役をすることになり、彼は一人で回ることにしたようだったと。城塞都市では誰にも声をかけず、誰からも声をかけられなかった。
「それで昼食の時に、同じテーブルに座るように勧めたのよ。それからリンドスの遺跡を見終わるまでは、ずっと一緒にいたわ。その間彼は、
「何か変わったことは? ハプニングのような……」
「あったかしら? そうそう、リンドスの遺跡を見るとき、二班に分かれたんだけど……」
彼の妻とソクラテスが率いる班と、アリストテレスとSVが率いる班に分かれた。別々のルートで見て回った後、アテナの神殿の辺りで、見たこともない女性が現れて、アリストテレスやSVに話しかけていた。最初、どちらの方へ話しかけたのかは、見ていない。
女性は真っ白な長いドレスを風にはためかせていた。観光ツアーで来た客には見えない。顔は
……全く未知の存在だ。どこで見逃したのだろう。あるいは昨日、マリアにもう少し長くいれば、私もその女性に会えたのだろうか。SVに関係しているに違いないのだから。
その女性は、どこへ行ったのか。クレタ島へ帰ってきたに違いないが、
「重ねてありがとうございました、ミズ・アンドレッティ。もし明日、どこかで彼女を見かけたら、私のホテルへメッセージを入れて下さいますか」
「解ったわ。ところで、どうして彼の行動が知りたかったの? あなた、本当は技術者じゃなくて探偵とか?」
「ええ、実は私、CIAの
「ワオ、面白いジョークね! 本当は彼のことが気になるんでしょう? ぶっきらぼうだけど、さりげなく優しくしてくれたわよ。
合衆国人をごまかすにはつまらないジョークに限る。礼を言って別れた。
さて次は、と思っていたら、後ろで足音がした。うっかりしたのではない。わざと私に聞かせたのだろう。
SV……スペンサー・ヴァンダービルト。カーキの服は、夕闇の中では目立ちにくい。
「見張りを雇うとはなかなか面白いことをする
帽子を脱いで、手でもてあそびながら、ヴァンダービルトは言った。
「あなたを見張るためじゃありませんわ」
「解っているさ。でも結局は僕の行動も筒抜けだった。しかしそれでも問題ない。そもそもアリストテレスにツアーのガイド役として、僕を推薦したのが君だってことは、ちゃんと知っていた」
「それでも敢えてお受けになったのはどうしてです?」
「その方が都合がよかったんだよ。彼が突然予定を変更して、ツアーへ行くことになって慌てふためいてたら、ガイドの話が降ってきて。本当はクレタ島で仕掛けるつもりだったんでね」
「予定が変更になったのは私のせいじゃありませんわ」
「それも知ってるよ。もう一人の
「どうお考えになっても構いませんわ」
「彼女は僕も苦手なタイプだ。しかしもしかしたら、君の方が食えない
それに対して、私は何も答えなかった。SVも答えを期待していなかっただろう。すぐに立ち去った。
彼が声をかけてきた理由が、よく解らない。あるいは、私が彼をアリストテレスに推薦したことに対する、礼を言いに来たのだろうか。一見してそれとは解らない形で。
とにかく、彼のことはもういい。この後のことは。
まず、テオプラストスともう一度会う。明日の朝のことで、打ち合わせをした方がいい。彼女の、大切な思い出作り。
二つ、
三つ、アステールを捜すこと。警告を与えなければならない。彼は無垢で、欺かれやすすぎる。それとも彼は無垢なふりをして、欺かれることが好きなのだろうか。
最後に、船に忍び込むこと。ただし深入りはしない。私の懸念を確認するだけでいい。
あるいはそれは、夜中を過ぎてからの方がいいかもしれない。
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