#17:第5日 (7) 欺く女
遺跡を去る前に、劇場跡を見る。アクロポリスではなく、下の町中の一角にある。かなり風化が進んでいて、座席となる石段は不完全で半円を為していないし、至るところ角が欠けていたりするのだが、座席の間にスタジアムのような階段が刻まれているのだけは、はっきりと判る。
なぜこれだけが離れたところにあるのかは不明だ。おそらくは今の町があるところが古代も町で、古い建物はみな新しいのに置き換えられてしまった、ということではないか。遺跡として残るには、いったん誰も住まなくなる“廃墟”にならないとな。
バスに乗ると、ようやく俺の横に
「ここでも観光ガイドの仕事ができそうかい」
「いろいろ憶えたけれど、やっぱり本職の考古学者には敵わないわ」
「ミスター・ヴァンダービルトは何を言っていた?」
「それはもういろんなことを。ヘレニズム文化にもお詳しかったわ」
いや、そうじゃない。遺跡じゃなくて、君のこととか、ソクラテスのこととか、アリストテレスのこととか、白衣の女のこととか。そう、あの女は何者だ?
「判らないわ。あの後、バーでも話題に出なかったもの。私も訊こうと思わなかったし」
訊いておいてくれと頼まないといけなかったな。同行者には明確な指示が必要だ。
「君自身は見憶えない? 例えば、初日にファイストスへ行ったろう。その時、ツアーの中にいたとか」
「あんな服の人はいなかったわ」
そりゃそうだろう。あんな
「いいえ、一緒に行った人の中にもいなかったわ。……あら、でも、もしかして、他のツアーの中にいたかしら。確かアジア人のとても賑やかな団体が来ていて、その中に……」
「じゃあ、ミスター・ヴァンダービルトは。ファイストスで見かけなかった?」
「彼かどうかは自信がないけれど、一人で遺跡を見て回っている人がいたのは憶えてるわ。見るというよりは、じっくり観察するというか研究するというか。私たちが場所を移動しても、その人はずっと同じところにいて」
「顔は見なかったと」
「ええ、そう」
しかし、ヴァンダービルト氏がずっと遺跡を回っていて、そのどこかでキー・パーソンを見つけたのは間違いなさそうだ。相手から声をかけてくるパターンはよくある。そもそもテオだって彼の方から声をかけてきたんだ。
「ミスター・ヴァンダービルトの経歴は訊いた?」
「いいえ。だって私から彼に質問する時間はなかったもの。だから、ミスター・アリストテレスが紹介してくださったことだけしか」
「それでも遺跡の説明をするときに、専攻は何時代で、詳しくないのはどの時代、とか言ったりするだろう」
「専攻はシュメールですって。でもメソポタミア文明全般や、古代ギリシャのこともよくご存じみたいだわ」
ずいぶんと守備範囲が広いな。3000年分くらい知ってるんじゃないか。このステージが始まってから、ギリシャのことを憶え直したのかもしれないけどさ。
「君の
「彼はそれほど訊いてこなかったけれど、昼食の時にミスター・アリストテレスから訊かれてお話ししたので、彼も興味深く聞いてくれたわ」
「オーストラリアのことで意気投合しなかったのかね」
「それを話題にするとミスター・アリストテレスに失礼だから、ほとんど言わなかったんだと思うわ。むしろ、プロフェッサー・ヴァンダービルトは私よりミスター・アリストテレスといろいろお話をしたがっていたもの」
だから午後からは、あの
しかし結局のところ、
バスは途中でファリラキという集落に寄った。ビーチとリゾート・ホテルがあったが、それらに用はなくて、ソクラテスを降ろすためだったようだ。ここからまた船に乗って帰るらしい。ロドスの町まで戻ると遠回りになるからだろうが、忙しいことだ。
アリストテレスと
5時少し前にセッションが終了。ブースの方は全て見終わっているので、ホテルへ戻ることにする。テオプラストスに対してはそういうことにしておくが、実際には情報収集。この時間に行動しなければ手に入らない情報もあるはず。そして今夜は忍び込むべき場所がある……
ただ、財団のブースには行こう。もう一度、私の存在を印象づけておく。アビー・グレイという研究員に「明日も伺うのでドクター・ナイトとお話がしたい」と伝える。テオプラストスも付いて来たが、複雑な表情をしている。
会場を出ながら、彼女が話しかけてきた。
「昨日、ドクター……ナイトに聞いたんですが、あなたも彼に時間を作って欲しいとお願いしているんですね」
「ええ、あなた同様、彼の論文に興味があるんです」
「それなのに、僕が彼と会うことを優先してくれるんですか」
「あなたの悩みを先に解決する方が、私も落ち着いてお話ができますから」
「そ……そんなことまで考えてくれるんですか。もし全てがうまく行ったら、僕はあなたにどんなお礼をすればいいのか」
「お礼はあなたの笑顔で十分ですわ」
コンヴェンション・センターの前にタクシーがいなかった。会議の終了時間に合わせて来るからだろう。近くの大学病院へ行くことにした。そこなら常にタクシーがいるはず。
が、駐車場の出口に立っている少年に、目を奪われた。14、5歳くらいだろう。透き通る青白い肌、柔らかにカールした金髪、ほっそりとした顔の輪郭、切れ長で優しげな目、真っ直ぐに通った鼻、そして完璧なカーヴを描く唇。
テオプラストスを“ほとんど中性化した女性”と例えるなら、彼は“男性になりきっていない中性”というところだろう。
私は彼のことを知らない。しかし彼は私のことを知っているようだ。
「アステール……」
後ろでテオプラストスが呟いた。アステール、古ギリシャ語で“星”。そしてプラトン――もちろん古代ギリシャ――が愛する少年へ出した恋文に書かれていた言葉。
もちろん、少年の本名ではないだろう。しかしプラトン――このステージ――の関係者であることを明示している。
「あなたがゼスピニザ・マルーシャ・チュライですね?」
変声期を迎えていない、少年の声。そして私の名を知っている。
「いいえ、人違いでしょう」
「では、ゼスピニザ・ハンナ・エレンスカとお呼びすれば?」
「ええ、それが私の名です。何かご用ですの?」
「特に何も。ただ、僕の友人から、あなたに気を付けなさいと言われたんです。あなたは魅力的な笑顔と優しい言葉で、人を騙すからと」
「ゼスピニザ、彼とは話さない方がいいです。もう行きましょう」
テオプラストスが親切にも忠告してくれるが、話をしなければ少年のことが解らない。もちろん
「私がいつ人を騙したとおっしゃるのでしょう?」
「この月曜日からですよ。偽名で世界会議に参加して、事務局や参加者を欺いている。あなたの後ろにいるフェードラも欺かれた一人でしょう」
「どなたかにそれを聞かされたのでしょうけれど、それは真実ではありません」
「でも、証拠はあるということでしたよ」
「その証拠をご覧になったのでしょうか?」
「いいえ」
「では、なぜ信じられるのです?」
「だってその人はプラトンの居場所を見つけて、僕に会わせてくれましたから」
「ゼスピニザ、もうやめましょう。彼と理性的な会話はできないんです」
焦れたテオプラストスが割り込んできた。少年の視線が彼女に移る。
「フェードラ、君はどうして僕を悪く言うの? どうして僕が嘘つきのように言うの? 君だって、その姿で人を欺いているのに」
「僕は僕のしたいようにしているだけだ!」
「それだったら僕も同じだよ。僕と君は似ているのに、どうして君は僕を嫌うの? ああ、そうか、君は自分が嫌いなんだね。自分の気持ちに従って人を欺くことが、本当は悪いことだって気付いてるんだ。だから……」
「黙れよ、アステール!」
テオプラストスが理性を失いつつある。私は振り向きざまにテオプラストスを抱きしめ、唇を塞いだ。それから耳元で囁く。
「いけませんわ、フェードラ。そしてごめんなさい。あなたのご忠告を容れなかった私が悪いのです。彼と話をするのはもうやめますから、どうかお鎮まりになって……」
「ああ、ゼスピニザ……僕の方こそ、つい気が立ってしまって……ええ、もう大丈夫です」
テオプラストスはすぐに落ち着いた。アステールの性格は十分解った。そして彼の言うことは正しい。私はテオプラストスを……フェードラを欺き、利用している。しかしそれは、この世界のルールで認められた行為なのだ。だから私はそれを、悪いことだとは思わない。
「二人で欺き合っているんだ。不潔だね。それともそれは女性の本能なの?」
「あなたがこの世界の複雑さを理解するには、まだ少しお若すぎるようですわ。では、失礼します」
私はテオプラストスの身体から腕を放し、アステールに別れを告げると、病院の駐車場へ向かった。テオプラストスは無言で後から付いて来る。
「彼はこの後、ミスター・プラトンに会うつもりでしょうか。ミスター・プラトンに知らせておく方がよろしいのでは?」
「そうします」
テオプラストスは歩きながら電話をかけ始めた。本当ならソクラテスにも知らせる方がいいだろう。しかし
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