#17:第2日 (4) 哲学者の系譜
並んで歩きながら、ギリシャ人――名前がもう思い出せない――のことを観察する。中性的な顔立ちだが、ハンサムと言えばハンサム。痩せていて、華奢で、肩幅も狭い。悪く言えば貧相な身体付き。ただし研究者にはありがち。カーキのジャケットに、白の
「それで、何の論文について?」
「『2.5次元ネットワークにおける移動経路選択とその変化の傾向、及びネットワークの進化について』」
「やはりあのシミュレイターの元になった論文じゃないか。俺でなくても、来ている連中はみんな理解している」
「それだけではなくて、他のことも少しお訊きしたいんです」
「他の論文か、それとも俺個人のことか」
「両方です。実は兄から、あなたの話を聞いてくるように言われていまして」
「兄というと、今朝オープニングで挨拶をしたミスター・ソクラテス・クロニス?」
「ええ。ただ、他にも兄がいて、ソクラテスは長男、僕は4番目です。あと、妹が一人います」
食事エリアはレストランではなく、広めの展示場の中に長机と椅子を多数置いたもの。そこでランチ・ボックスを配っている。普通食の他、ヴェジタリアン用、ヴィーガン用、アラビア人用、インド人用などいくつか種類がある。
ただし、ランチ・ボックスは会議の参加者ならただで食べられるというだけで、他のものが食べたければ、ちゃんとしたレストランもある。セキュリティー・エリアの外へ出るだけだ。
俺は普通食とオレンジ・ジュースにする。ギリシャ人も普通食とミネラル・ウォーターを取った。エリックたちを探して少し歩き、見つけたのだが、周りの席は空いていなかったので、少し離れたところに座った。
ギリシャ人は名刺を出してきた。ギリシャ文字とラテン文字で名前が綴ってある。テオプラストス・クロニス。
「テオプラストスも古代ギリシャの哲学者?」
ランチ・ボックスを開けながら訊く。中身は何とムサカとピタ・ギロスだった。それが無難だからだろうなあ。
「そうですよ。アリストテレスの後継者です」
「確かソクラテスの弟子がプラトンで、プラトンの弟子がアリストテレス」
「はい。3人の兄の名前はそれです」
そういうことじゃないかと思った。有名な
「テオプラストスの本名はティルタマスというのですが、僕は本名がテオプラストスです。しかし、長いと思われるのならテオと呼んでいただいて結構ですよ」
「OK、テオ、俺のことはアーティーと呼びな」
「いいんですか? ドクターなのに?」
「名前で本質が変わるわけじゃないだろう?」
「なるほど。理解しました」
テオは穏やかに微笑んだ。そういう表情をすると女っぽく見える。ピタ・ギロスを持ってかぶりつこうとしたが、躊躇してから、食べずにまた俺の方を見た。
「オーケイ、アーティー、では、質問です。『2.5次元』は、高速ネットワークと低速ネットワークの組み合わせを論じるものですね? 論文の中では航空機と陸上交通の組み合わせとするアナロジーが例に挙げられています」
「そのとおり」
「そこに海上輸送を入れ込むことは可能ですか?」
「可能だ。論文をよく読めば、高速とか低速とかいうのは単なる言葉上の分類であることが解る。区分けの必要なんてなくて、各経路の時間当たり輸送量と所要時間が定義されているだけだ。それを現実のどんな手段に当てはめようが、理論そのものには関係ないことだよ」
「理解しました。しかし、シミュレイションでは現実的な物に当てはめるのですよね? 海上輸送を想定した場合はありましたか」
「ない。ただし、シミュレイションのためのデータが揃ってないとか、そういう理由じゃない。単に合衆国をモデルにすると、船の出番が少ないという理由だよ」
東海岸と西海岸の間の輸送は、船よりも鉄道の方が多い。東海岸とメキシコ湾岸の間ですら同じだ。
「なるほど、海上輸送はほぼ国外向け限定だからですね」
「そう。ミスター・ソクラテスに言ったメリーランド州港湾局の依頼は、チェサピーク湾内の港と、他国との間の輸送をモデルにしているが、眼目は港内での積み替えだ」
「それは『2.5次元』とは無関係?」
「全く関係なくはないよ。俺の論文は、どれも同じような方程式を使い回しているからね。港湾局の場合でも、輸送コストを計算する式は共通で、そこに『どの埠頭を使えば最も効率的か』を計算する式を組み合わせただけさ。必要ならそこに使われている式も教える」
「いえ、やはり『2.5次元』に一番興味があります。それを、ギリシャ国内と地中海、黒海周辺に適用したいんです。つまり車と船の組み合わせで」
「飛行機を使わない理由は?」
「物資の輸送がメインだからです。人は飛行機を利用するでしょうが、ギリシャの島嶼のほとんどでは、カーゴ機の離着陸ができないんですよ」
「理解した」
それから少し議論を進める。ただし、食事をしながら式を立てるのは難しい。今日の仕事が終わった後、1時間だけでいいから、と延長をお願いされてしまった。
「1時間を超えることはないよ。その後は予定が詰まってるからね」
「明日は……」
「明日から3日間は
「そうですか」
時間がないと言っているのに、テオはやけににこやかだ。最終日までまだ時間がある、と思っているのかもしれない。俺の時間を無理矢理奪おうとしないでほしいものだが。
そろそろ昼食休憩が終わる。俺は話しながら食べてしまったのだが、テオはまだ少し残っている。彼は聞いている時間の方が多かったはずなのに。痩せているのは少食のせいか。
「ご心配なく。一人で残って食べてしまいますから」
「そうか、では」
ブースに戻って、オリヴァーに様子を訊く。
「好評ですよ。シミュレイションはご覧のとおり待ち行列ができているくらいで」
なるほど、食事に行く前より、少し列が伸びたようだ。4、5人くらい。シミュレイションは10分に1回だから、4、50分待っても体験したい奴がいるというのは驚きだなあ。
「他の展示は?」
「お客との質疑はメモを取っていて、定期的にチェックしていますが、特に問題になるようなものはありません。それよりアーティー、あなたを名指しで話がしたいという人が、数人かいまして」
なぜ名指し。いくら財団が世界的に知られてるからって、俺の名前までそれほどの知名度があるわけないはず。
「後で来ると言ってた?」
「そういう人もいました。名刺を残していったのが一人だけ」
見せてもらう。なんだ、テオじゃないか。他に男女一人ずつ。ただし名乗りもしなかったと。いればラッキー、くらいにしか思っていなかったか。
「会場をうろついていれば、そのうち会うだろう」
「それで結構だと思います」
しかし、そろそろセッションを聞きに行くことにする。大ホールを出て、会議室エリアへ。部屋はB-9。テーマは『
50人くらい座れる部屋に、30人ほど入っている。古いタイプのシステム論のはずだが、根強い人気があるようだ。
発表者は5人。まず『経路案内後の挙動予測アルゴリズム及びその検証』。
通常の
しかしそれに従わない運転者も、もちろんいる。案内を信用せず、自分の勘で行動する人や、単に右左折が面倒だという人など。
そしてその割合は、案内の内容によって異なるだろう。一つの交差点における案内だけでなく、それらが示す一連の経路によっても変わるかもしれない。
よって、案内の内容と、案内に従った割合を突き合わせて、学習を行う。要するに「どのような案内をすれば、従う人の割合が上がりそうか?」。
そしてある町――そこでは
続いて『経路案内の形態による運転者へのストレス比較』。
一方、
なお、
ストレスの数値化方法に若干の疑問があるのだが、とりあえずターゲットに関係ないことだけは判った。
他の3件、『
発表後の質問も少なく、全体的に活気に欠けるセッションだった。
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