#16:第6日 (1) 秘密を教えて?

  第6日-2045年2月17日(金)


 いつもより1時間早く、6時に起きた。メグからのモーニング・コールは後でちゃんと受けるとして、やはりランニングに行こうと思う。

 まだ夜は明けていないが、薄明なので、走れないことはないはず。ただカーテンを開けると、やはり雨が降っていた。どんよりと曇った空から、霧のような雨粒が落ちてきている。

 着替えてビーチへ。準備運動をしてから走り出す。短縮版で、30分だけにする。西へ行くか、東へ行くか、迷うところだが、東の方が少し長いのでそちらを選択。いつもより速く走ればいいだろう。

 ヒルトン前に来ても、スサナの姿はない。もちろんカリナがいるわけもない。走る予定はないと言ったから、見に来ないんだろう。そもそも、昨日までなぜ見に来ていたのか、理由が不明のままだ。聞く必要はないと思う。

 ぴったり30分でスタート地点に戻ってきて、整理運動。ホテルに戻り、部屋に入ると、ちょうど電話が鳴った。受話器を取ってハローと言い、愛しい我が妻メグの朝の挨拶を聞く。1時間前に起きて走ってきたと言うと、「昨夜教えてくれれば、6時にモーニング・コールをかけたのに!」と不平を言う。

「朝、たまたま早くが覚めたから、思い付きで走ったんだ。悪く思わないでくれよ」

「明日は何時に起きて走るか、今夜ちゃんと教えてね!」

「もちろん、そうするよ」

 どうしても俺を起こさないと気が済まないというのは、我が妻メグらしいわがままだ。そういうところが愛らしい。何しろ、それが彼女の一番大事な仕事と思ってるんだから。

 シャワーを浴び、着替えて朝食。もちろん、そのまま外へ出掛けられる姿でレストランに行く。ビュッフェの朝食を終えてロビーを通りがかると、ファティマがもう来て、ソファーに座っていた。約束より10分も早い。俺の顔を見て、嬉しそうに微笑む。

「渋滞が心配なので早めに来たのですが、今日は休みのところが多いのをうっかりしていました」

 ABCアカデミーだって休みなのに、どうしてそのことに思い至らないのか。あるいは、俺が早く来たら、それだけ長く話ができて儲けもの、とでも思ったのでは。

「しかし、早く行っても建物が開いてないんだろう? ここでコーヒーでも飲んでからにしたら」

「コーヒーを飲むところなら、ABCアカデミアの近くにもありますよ」

 とにかく早く行きたいらしいが、俺は出る前にしなければならないことがある。アイリスに伝言メッセージを残さなければならない。いつものように9時に来たって、俺はいないんだから。

 しかし、彼女にやってもらいたいことはちゃんとある。コムブラテルのニコーリの連絡先を調べてもらうこと。課題の“正解”を教えてやらないといけない。

 彼女だって今日は休みかもしれないが、通信会社なんだから連絡方法は何かあるだろう。留守番電話のようなのにメッセージを残すことができるかもしれない。連絡先を、昼までにABCアカデミーへ伝えてくれることを頼む。

 それから今夜の巡査部長との、ディナーの予約。適当なレストランを探してもらう。

 ようやくファティマと共に外へ。しかし、彼女が乗ってきた車のところへ行くと、美女がドアにもたれながら立っていた。ライム・グリーンのタンク・トップに白い膝丈フレア・スカート。モデルのようにプロポーションが良く、豊かな金髪に、綺麗な緑の目の令嬢。オーレリーじゃないか。

「やあ、オーレリー、どうしてここに」

 もちろん、俺に何か言いに来たんだろうが、どうして俺がファティマの車に乗ることを知ってるんだ。

「ボンジュール、ムッシュー。あら、とても聡明な感じのお嬢さんマドモワゼルがご一緒に。ボンジュール、マドモワゼル」

 ファティマはお嬢さんマドモワゼルという年齢ではないはずだが、そう見えないこともないので、気にしないでおく。

「それとも、ムッシューの奥様エプーズなのかしら?」

「いや、そうじゃない」

 一応、二人に互いを紹介する。ファティマは突然現れたオーレリーに驚いているようだ。当然だろうけど。

「それで、オーレリー、今朝は何か?」

「昨夜に聞いたお話のことで、情報を持ってきたのよ」

 マルーシャのことか。昨日の今日で、朝になったばかりなのに、どうしてそんなに早く情報が。

「そうか、ありがとう。早速、聞かせてくれ」

「こんな素敵なお嬢さんマドモワゼルが一緒なのに、別の淑女ダーメの情報が欲しいの? 無節操なのねえ。あなたの奥様ヴォトレ・エプーズはご存じなのかしら」

「いや、そうじゃない。彼女は仕事でここへ来ていて、情報が欲しい淑女レディーは単なる友人だ。昨夜、そう言ったはずだぜ」

「別に、言い訳しなくていいのよ。たくさんの女性フェムを相手にできる男性オムって、頼もしいと思うわ」

 もしかして君は、三人以上でも許容するのか。それはどうでもいいから、情報があるならくれって。

「そちらのお嬢さんマドモワゼルに聞かれてもいいお話なのかしら?」

 隠すようなことではないが、わざわざ聞かせるようなことでもない。聞けばきっと気になるだろう。

「じゃあ、ファティマ、先に車に乗っていてくれ。俺はこの淑女レディーと少し話がある」

「解りました」

お嬢さんマドモワゼル、読唇術ができるなら、こちらの方を見ない方がよろしくてよ」

 できるわけないって。というか、オーレリーはできるんだろうな、きっと。ファティマが車に乗ったら、後ろへ行って話す。

「今のお嬢さんマドモワゼル、独身なのかしら。恋人が欲しいっていう顔をしていたわ」

 なぜそんな観察を。

「いや、きっと研究が恋人のはずだ。ところで、淑女レディーのことは」

「教えてあげたら、どんな報酬をいただけるのかしら」

 オーレリーが無邪気に微笑みながら言う。どいつもこいつも、交換条件を出しやがって。しかし、情報をもらうには、対価が必要なのは常識だし、どうしたものか。

「何かプレゼントでも買おうか。服とかアクセサリーとか」

「あら、そういうのは間に合ってるのよ。あなたもそうでしょうけど、お金には困らないから。だから、報酬は物でもらいたくないの」

 やっぱりそうか。競争者だから、例のカードを持ってるんだろう。ただ、物欲をたくさん持ってそうな女に見えるんだがなあ。

「できれば私と遊んで欲しかったんだけど、あなたの奥様ヴォトレ・エプーズのことを気にして、真剣になってくれなさそうだから、つまらないと思って」

 どうして解ったんだ。このステージでは、絶対に浮気をしないと決めたんだ。だからカリナの誘いにも乗らなかったし、その他の女からの誘惑にも耐えてみせるぞ、と。

 しかし、どうして男と遊ぼうと思うのかね。アルセーヌは、この女にとって、何なんだ?

「だから、情報をもらうことにするわ。あなたの秘密を」

「秘密というと……」

あなたの奥様ヴォトレ・エプーズがご存じなくて、知られるととても困るような、嫌われるか軽蔑されるような、秘密。それを私に教えてちょうだい! もちろん、他の人には言わないわ。アルセーヌにもね」

 何という要求。しかし、ある意味で女らしいという気もする。

「知ってどうするんだ」

「楽しむのよ、あなたの秘密を握ってるってことを。ああ、それであなたを脅したりしないわ。とにかく、秘密を知ってることが楽しいだけだから」

 本当かね。他人の秘密ってのは、脅迫の材料にしかならないと思うんだけど。ただ、俺を脅迫しても、彼女が俺から取れるものは、何もないんだよな。彼女が自分で言ったとおり、金や物は満ち足りてるんだし、俺と“遊ぶ”のはつまらないんだろうし。

 せいぜい、他の遊び相手を紹介するくらいかなあ。しかし、彼女の相手になるような男は、このステージでは会ってない……こともないか。学生とか、ファヴェーラの連中とか。

 彼女が気に入るかどうかは判らないけど。

「そういう秘密は、すぐには思い付かないんだが」

「あら、そういうものなの? あなたの奥様ヴォトレ・エプーズの目を盗んで何か悪戯をするような人じゃないのかしら」

 オーレリーは首をかしげながら、右手の人差し指を、唇の前に立てた。考えるポーズだろうが、なかなか決まっている。

「いいわ、こうしましょう。情報を半分だけあげる。だから、今夜までに何を言うか、考えておいて。私が今夜、あなたのところへ聞きに来て、私が満足するような秘密だったら、情報の残り半分を教えてあげるから」

 いきなり譲歩してくれた。しかし、半分にできるような情報なのか。とりあえずは、ありがたくもらっておくことにするが。

 オーレリーはタンク・トップの胸元から!小さな紙を取り出してきた。プリントした写真だった。胸に自信がある女というのは、どうして胸の谷間に物を隠すんだ。

 手渡された生温かい写真を見ると、見知らぬ女が映っている。粗野な美人だということだけは判る。アマチュア・バンドのヴォーカルと言ったところか。

「これは?」

「あなたが探している淑女ダーメが、変装した後の姿よ」

 巡査部長から、マルーシャが変装したというのは聞いていた。その姿がこれか。巡査部長徒は電話で話したので、容姿が聞けなかったんだよな。聞くには何か交換条件が必要だったろうし。

 しかし、マルーシャ本人とは似ても似つかぬ姿。美人と言っても2ランク落ちくらい。髪の色も長さも違うし、顔の形すら違って見える。胸が全然小さいじゃないか。無理矢理押さえ込んでるのか?

 ごまかしようがないのは身長くらいかなあ。それでも、間近で見ても彼女だと気付きそうにないぞ、これは。

「彼女は、別の誰かになりすましてるんじゃないのか」

「よくご存じね。そのとおりよ」

「その誰かの素性は判ってる?」

「もちろん」

「どういう人物?」

 もしかして、それが残り半分だろうか。

「ジョルジーナって画家よ。水彩画家。ファヴェーラ出身で、何年か前からリオで評判になってるの」

 そこまで教えてくれるのはありがたいが、それ以上の情報って?

「どうしてこの女に変装したんだろう?」

「それは教えられないわ」

「判ってるのか」

「ええ」

「マラカナンに、ヴィデオ・ゲームのエクシヴィション・プレイを見に行ったらしいが」

「あら、それを知ってるんじゃないの。その先は?」

「知らない。判ってるのか」

「ええ」

「じゃあ、それを今夜教えてくれる?」

「あなたの秘密を教えてくれたらね」

 彼女が満足するような秘密って何だろうか。現実世界でのことをバラしても意味がないだろうし。

「今夜は遅くまで、部屋に客を迎えてるんだ」

「そこのお嬢さんマドモワゼル?」

「いや、別の淑女レディーだ」

「オーララ! あなたって奥様エプーズがいるのに、本当に淑女ダーメと遊ぶのがお好きなのねえ。それもとっかえひっかえして」

「真面目な議論をするんだよ。とにかく、来る前に電話してくれ」

 本当に真面目な議論になるのか、ちょっと自信がない。

「解ったわ。あなたたちが何をするにせよ、お邪魔にならないようにしないとね」

「ところで、アルセーヌはなぜ来ないんだ」

「疲れて立てないのよ。昨夜、あの淑女ダーメのお相手をしたから」

 ちょっと待て。やっぱりカリナって、そういうことをするのか? まさかアルセーヌが、カポエイラのトレイニングをするわけないよなあ?

 とにかく、オーレリーには礼を言って、帰ってもらった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る