#16:第4日 (6) 話法紋

「さて、プロフェソール、個人の話し声の特徴というと、まず何が思い浮かびますか」

声紋ヴォイスプリント

「はい、そのとおり。言い換えると、音声波形の特徴です。生体認証にも使われるのですが、個人を完全に特定できるかというと、そうではありません。なぜでしょうか」

「似た声というのは多いからな。耳で聞いて区別できないような声は、波形解析にかけても判らないことが多い。それに、個人だっていつも同じ声紋で話せるわけじゃない」

「まさにそのとおりです。個人の声紋の変動誤差を許容すると、他人の声と区別できなくなるのです。しかし、声が似ていても、人なら聞いて判る場合があると思います。どういうときに?」

「話し方に特徴があれば判るかな。イントネイションやリズム。それから、特定の言い回しもあるか」

「完璧な答えをありがとうございます。例えば、電話が架かってきた。親しい友人の声のようだ。しかし、話しているうちに、話し方がいつもと違うんじゃないかとか、彼または彼女はこんな言い方をしないんじゃないかとか、疑問を感じることもあるでしょう。ああ、それから、話の内容もありました。彼はこんな考え方をしないだろうとか。最後の疑問は、相当長いこと話さないと気付かないでしょうね。とにかく、はっきりと理由は説明できないけれども、似てるけど違う人じゃないかと思う場合があるわけです。ですね?」

「そうだろう」

「我々の理論では、それを数値化しました。声紋ではありません。イントネイションと、発音の癖、単語内および単語間の発声リズム。そういったものから個人を特定する値を取り出すことに成功した、と思っているのです。ただ、発表もしたのですが、残念ながら注目されませんで。しかし面白いので、ぜひプロフェソールに紹介しようと」

「それで、俺の声の、いや、話し方の特徴を取るために、マイクを?」

「そういうことです。完全な値を取るにはもっと話していただきたいですが、既にデモンストレイションができるくらいの値が取れたんじゃないかな」

 イタリア系はそう言って、アラビア系の方を見た。アラビア系はラップトップの画面を睨んでいたが、いいよという感じで首を縦に振った。彼がサンプリングを確認していたらしい。

「さて、念のために、決まり文句を登録してもらいます。『こんにちはボア・タルヂご機嫌いかがコモ・ヴォセ・エスタ』。これを言って下さい。どうぞ」

 英語か、それともポルトガル語か。英語でも自動翻訳されるだろうけど、ポルトガル語にしておくか。

こんにちはボア・タルヂご機嫌いかがコモ・ヴォセ・エスタ

「ありがとうございます。これで解析と登録が終わりました。さて、次はこちらをご覧下さい」

 イタリア系は横に置いていたディスプレイを点けた。コンピューターのデスクトップの中に、カメラ映像のウィンドウがある。どうやらこの部屋の中のようだ。俺の座っている辺りを、右横から撮っている。学生たちの姿も入っている。

「僕が話し始めると……ほら、もう表示されていますね、字幕レヂンダスが。僕が話している内容を、リアル・タイムで解析して表示しています。そして、話しているのが僕であると表示されています。"Mauricio"と。あれ、僕はまだ自己紹介していないんだったかな?」

 周りから軽い笑い声が起こったが、それはもしかして予定どおりではないのか。

「では、自己紹介しましょう。僕はマウリシオ・マッサラニです。次はヴァレンチナ」

「オーラ、私の名前はヴァレンチナ・エスピノラです」

 字幕サブタイトルに"Varentina"と表示された。「次はジォヴァーナ」。

「初めまして、私はジォヴァーナ・パソスよ」

 字幕サブタイトルは"Giovana"になった。アラビア系は自己紹介せず。

「断っておきますが、声紋分析ではありませんし、彼女たちの決まり文句があるわけでもないです。ではプロフェソール、改めて自己紹介をどうぞ」

「財団の研究者、アーティー・ナイトだ」

 もちろん英語で言ったが、字幕に表示されたのはポルトガル語。そして"Artie"。

「お解りですか。あなたの声のサンプリングを始めてから、財団という言葉もアーティーという名前も、あなたは話していません。それなのに、この解析ロジックは、発話者があなたであると特定したのです。主にイントネイションと、発音と、リズムから」

「何人の声の中から聞き分けている?」

「10万人です。主に学生、卒業生、教育及び管理職員、その家族、何万人かの市民にもお願いしました。もっと増やしたいのですが、あいにく、本人の許可を取って名前を登録しないといけないので、なかなか増えません」

「もっと増やすと認識を間違う可能性は?」

「あるかもしれません。誤差評価ではサンプル数が100倍になっても大丈夫なはずですが、試せないのでは何とも」

「近い声、いや、近い話し方の話者のデータを取り出すことは?」

「可能です。サンプリングしたデータから、音声合成もできるんです。試しに、あなたに近いデータを五つほど取り出してみましょうか。もしかしたら、全然違う声かもしれませんよ」

 アラビア系がラップトップを操作して、5人の合成音声による“自己紹介”を聞いたが、似ていると思える声は一つもなかった。

「これに声紋解析結果を合わせれば、個人特定の信用度が上がるな」

「そうなのですが、少なくとも指紋並みの個人識別率でないと実用にならない、という評価ばかりでして」

「警察に提案して、補強証拠として採用してもらって、実績を重ねるくらいかな」

准教授アソシアードを通じて話をしてもらったのですが、あまりよろしくない返事で」

「科学捜査研究課の技官を一人知っているから、話してみるよ」

 ちょうどこの後、会おうとしている。

「本当ですか! よろしくお願いします」

「他の使い途は」

「先ほどお聞かせしたように、音声合成ができます。しかし、音素分析したパラメーターからできるので、それを掛け合わせて作った指標値は、ただの余分な要素でして」

「指標値からパラメーターが逆算できる?」

「いえ、不可逆です。圧縮変換に不可逆手順が入りますから。パラメーターを呼び出すIDには使えますね」

「ところでその指標値に名前はないのか」

「ああ!?」

 イタリア系が、解りやすい表情で驚いた。いや、ブラジル人でもこれくらいの表情をするかな。

「言い忘れてましたよ。どこで言うべきだったんだろう?」

「どこでもいいよ、今言えば」

「インプレッサン・ロクーサンです。英語論文では話法紋ロクシオン・プリントとしました」

 縮めて話紋ロクプリントがいいかな。それは俺が決めることじゃないか。

「他に使い途や研究テーマを考えているのか」

「はい、それは」

「君じゃなくて、他の3人に聞きたいね」

 ヴァレンチナとジォヴァーナがなぜか楽しそうに笑う。アラビア系はまだ黙っている。まずはヴァレンチナ。

「指標値に対して単純な計算をするだけで、性別や年齢が判るようにしたいと思ってます」

「年齢によって個人の指標値が変わるのか」

「まともにしゃべれるようになってから、つまり小児期以降はほとんど変わりません。個人変動値の範囲内です。老人になって話し方が怪しくなってくるとまた変わりますが」

「変声期でも変わらない?」

「変わりません。個人の話し方の癖ですから」

「人種というか、母語が判ったりしないものかね」

「ブラジル・ポルトガル語と英語以外のサンプルが少ないので、揃えてから……」

 何年かかるか判ったものじゃないな。続いてジォヴァーナ。

「双子の一方が他方を真似る時の指標値の変化を研究しています」

「双子はやはり似ているのか」

「似ていますよ。でも、声紋分析ではコンピューターを騙せても、インプレッサン・ロクーサンでは騙すのがもっと難しいんですよ。ただ、他人よりも近いのは間違いないですから、それを調べれば個人識別率を上げることができるようになるかと」

 声は違うが指標値が近い二人を見つけ出すよりは、やりやすいだろうな。そして最後にアラビア系。

『インプレッサン・ロクーサンは発話中の脳波と関係していると考えているので、それを調べています』

 しかし、アラビア系は口を動かさなかった。声は彼の持っているラップトップから聞こえてきた。どういうことだ。

 イタリア系は穏やかな笑みを浮かべて黙っている。ヴァレンチナとジォヴァーナも何も言わない。ベルトゥラニ准教授アソシアードはもとより。

「……単語の選択や発音には脳の特徴的な働きが関わっているに違いないから、それを調べたいと?」

 俺の質問に、アラビア系は黙ったままキーボードを叩く。そして声が聞こえてくる。

『そうです。私はそれこそがインプレッサン・ロクーサンの本質に違いないと考えています。あるいは、それを解析すれば、より正しい、インプレッサン・ロクーサンの値を得ることができるのではと』

「つまり、脳の言語中枢の神経パターンそのものであろうと」

『正確には、発話に関する運動性言語中枢、ブローカ野の神経ネットワーク・パターンです。それを数値として取り出すことになります』

「理解した」

 さて、彼はなぜラップトップを使って話しているのだろうか。話法紋ロキューション・プリントを使ったパフォーマンスというわけではあるまい。

「君はもしかして、発話機能に障害が?」

『はい。病気で声帯を失いました』

「その声は、彼の子供の頃の声から合成したものですよ、プロフェソール。今の彼なら、そのように話すだろうと、調整したのです」

 ようやくベルトゥラニ准教授アソシアードからフォローが入った。

「頭の中の話し声を、再現していると」

「そのとおり。人が考えごとをするとき、無意識に、頭の中で言葉にしますね。それを口にしたら独り言です。しかし、頭の中で“声を出しながら”考えていると感じることもあるでしょう?」

確かにサータンリー

「それはインプレッサン・ロクーサンの単語選択とリズムに関わる部分です。もちろん、ブローカ野が制御している。発話・発音に関しては、骨格や筋肉に関わる要素もありますが、それを除いてしまえばブローカ野の働きによるものです」

「なるほど」

「脳波の働きを観測することによって、本人の意識の中にある声のとおりに合成音声で会話することができるのではないかと、彼は考えて、研究しているのです」

『申し遅れましたが、私の名前はジゥリオ・カラスコです。どうぞよろしく』

 もう一度、ラップトップがしゃべった。

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