#16:第3日 (1) トレイニングの観客

  第3日-2045年2月14日(火)


 朝7時、モーニング・コールで目を覚ました。メグにおはようと答え、頼み事を一つして、愛してるよと言って電話を切る。実に清々しい目覚めだ。

 “カリナの陰謀”は未遂に終わった。しかも平和的なの結果として。やはり現代はこれでなくてはいけない。

 隣のベッドを見る。カリナはブランケットにくるまって、そこに寝ている。あのブランケットの下が、どうなっているのかは知らない。

 昨夜1時過ぎ、ベッドに入ってから今まで、俺は彼女に指一本触れなかった。いや、肩に手を置き、腰に手を回して、お休みの挨拶として頬に軽くキスをしたかな。それだけだ。カリナはおとなしくベッドに入り、そのまま朝を迎えたというわけ。

 彼女はまだ寝ているのか。声をかけるべきか。それはよく判らない。ただし有能な秘書が、電話が鳴ったのに気付かないなんて、あり得ないと思う。だから彼女は目が覚めているだろう。もしかしたら、目覚めのキスを要求されるかもしれない。挨拶として。それくらいなら、我が妻を裏切ることにはならない。

 ひとまず起きて、カーテンを開けに行く。部屋の中に朝日が射し込む。今日も天気がいい。振り返ると、カリナはベッドから上半身を起こしていた。ブランケットで胸元を押さえている。背中は素肌が丸見え。下半身は見えない。昨夜、ベッドに入る直前はバス・ローブを着てたんだけどな。

おはようモーニン、カリナ」

おはようございますボン・ヂーア、セニョール」

「ぐっすり眠れたかね」

「あなたが隣にいると思うと、興奮してなかなか寝付かれませんでしたわ」

 何に興奮したんだよ、俺は何もしてないだろ。俺も、君が1時間くらい悩ましい声を出してたんで、耳栓が欲しいと初めて思ったよ。

「出社は何時か知らないが、眠いのならもう一眠りすればいいよ」

「いいえ、朝の光を浴びながら散歩でもすれば、頭がはっきりすると思います」

「では、服に着替えてくれ。シャワーを使ってくれていいよ」

「ありがとうございます。あなたはどうなさいます?」

「ランニングだ。スサナと約束がある」

「では、それを拝見します。ボールは投げますか?」

「その時間は、たぶんない。トレイニングのドリルを教えることになってるんだ」

「では、それも拝見します」

 そんなに面白いものでもないと思うが、別に止める必要はないだろう。カリナがベッドから立つ。ブランケットがはらりと落ちるのが見えたので、目を逸らしておく。バス・ルームのドアが開け閉めされる音を聞いてから、着替え始める。あっという間に終わる。カリナもすぐに出て来た。いや、なぜ水着なんだ。

「あの服はビーチに合いませんから」

「歩道に立っていればいいんだよ」

「水着姿でも、あなたのご迷惑にはなりませんわ。それとも、何か心配なことがありますかしら」

 通りがかるみんなが君の尻をじろじろ見ると思うけど、それは俺が気にすることじゃないからいいか。ただ、ホテルの中を歩く間だけは、バス・ローブを着てもらうことにする。


 外に出て、ビーチで準備運動。砂が湿っている。どうやら夜の間に雨が降ったようだ。しかし空は綺麗に晴れ渡っている。気温が低めなのは嬉しいところ。なのにカリナはバスローブを脱いで、たたんでウエストの前で持っている。脱ぐ必要ないのに。

「ところで、着替えるために家に戻らなくていいのか。昨日と同じ服で出社することになるぞ」

「社のオフィスに、着替えを一組置いています」

「じゃあ、今夜は着替えに帰らないといけないな」

「インナーは朝クリーニングに出せば、夕方にはできあがりますわ」

 泊まり込みの時には、そういうことをするのかねえ。下着はどうするのさ。ビーチの東西の端まで行ってくる、とコースを説明。戻ってくるときにはおそらくスサナと一緒だとも言う。それから走り出す。俺がいない間に、彼女の尻は何人から見られるのだろう。

 雨が降った後の砂は、硬くて走りやすい。砂粒の舞い上がりも少ない。既に朝の散歩をした人の足跡が、くっきりと残っている。

 西へと走り出し、折り返し、カリナの前を過ぎて1マイル。ヒルトンの前辺りまで来ると、スサナがいた。準備運動をしている。もちろん、例の女子陸上競技スタイル。ただし、昨日と色違い。グリーンだった。サングラスはしていない。

「おはよう」と声をかけるとなぜか「ブエノス・ディアス!」とスペイン語が返ってきた。

 俺が通り過ぎても、追いかけて来ない。行きの行程では一緒に走らないのだろう。ビーチの東端で折り返して戻ってくると、砂の上でステップを踏みながら待っていた。俺が来る前にスタートし、俺が追い付いて並びかける。

「昨日は私の都合で早く帰って申し訳なかったわ。今日、この後でドリルを教えてくれるんでしょう?」

「そのつもりだ」

「ところで、カリナがカポエイラのトレイニングをしているか、訊いてくれた?」

「忘れてたよ。この後で訊く」

「いいえ、私が自分で訊くわ」

 それきり、スサナはしゃべらなくなった。スピードが速いからだろう。1マイルなので、手加減しないでおく。しかしスサナはやっぱり俺に食いついてくる。素晴らしい筋力だな。トレイナーにしておくのは惜しい。

 1マイルを並んで走って、カリナのところまで戻って来た。砂の上に、カリナがそこらを歩き回った足跡が付いている。宣言どおり、散歩をしたらしい。しかし歩道では男が数人立ち止まって、カリナのことを、正確には尻を、見ていた。

 走り終えたスサナが、また身体を前屈みにして膝に手を突きながら、呼吸を落ち着けようとしている。カリナが水のボトルを差し出す。どこから持って来たんだろう。

「どうぞ、あなたのもありますわ」

「ありがとう。しかし、どうしてキャップが開いてるんだ」

「私が先に一口いただきました」

 そういうのはスサナの瓶でやってくれないかな。何か、怪しい薬でも入れられたんじゃないかと疑ってしまうよ。しかしせっかくなので一口飲む。スサナが、まだ息が荒いながらも「ドリルを見せて」と言う。

「その前にカリナに訊くことが」

「そうだったわ。あなた、カポエイラのトレイニングをしたことがある? もしあれば、私にも基本を教えて欲しいの」

「あら、どうしてそんなことをご存じなんですか? ええ、ほんの少しだけ習ったことが。でも初心者ですから、あなたに教えることなんて何も」

 スサナが重ねて頼んでも、カリナはなかなか承知しない。何だろう、何かの取り引きに使おうとしているのだろうか。結局「教えることを思い出さないといけないので、後日。明日か明後日」ということになってしまった。

 明日か明後日……それは彼女は毎朝か毎夕、ここに来るということじゃないだろうか。でも、もし俺が今夜のゲームで負けたら、彼女の送り迎えの仕事は終わりだぜ。今夜はまた無理矢理俺の部屋に泊まって、明朝この場にいることはできるだろうけど、夕方は……

 もしかして、ここに来る理由を作ろうとしてないか? トレイニングの件にかこつけて、俺に会おうとしてるとか。俺がゲームで負けたときの保険として。何だろう。すごく不安になってきた。

 カポエイラの件はともかくそれで終わり。俺のドリルを説明する。基本は、ウクライナでテニス・プレイヤーに教えたのと同じ。

 まず、砂の上に目印を作る。小さな砂山でいい。そこから歩測して、3ヤードあるいは5ヤードの位置にも目印を作る。これで準備よし。スサナには、コーンを置けばいいと言っておく。

 そしてプロ・アジリティー・シャトル、スタッガード・シャトル、ラン・シャッフル・ラン、ラン・シャッフル・シャッフル・ランの四つを教える。ただし、少なくとも野球に役立つとは思わない。

「構わないわよ。今日は野球だけど、明日と明後日は女子フットボールだし、その後ヴァレーボールやバスケットボールも行くの。後の二つは視察だけだけど。アジリティーならバスケットボールに使えそうね」

「バスケットボールのトレイニングもフットボールに役立つよ。似たような動きがあるからね」

「ともかく、教えてくれてありがとう。それで、お礼の夕食なんだけど、実は今夜は都合が悪くなっちゃって。明日でも構わないかしら?」

「問題ない。実は俺も今日の夕方は都合が悪い。明日の朝はまた走るんだろう? その時に決めよう」

「それがいいわ。じゃあ今日はこれで。よい一日を!」

「ああ、君も」

 スサナはビーチを走っていった。俺もホテルに戻る。もちろん、カリナを連れて。彼女はいつまで俺の部屋にいるつもりだろうか。

「あなたと一緒に朝食をいただきたいですわ」

 エレヴェイターに乗ると、カリナが笑顔で言う。ビュッフェだから彼女の追加料金を払えば食べられる。それを俺が出すべきなのか。いや、昨夜のによれば、出さざるを得ない。

「それでも君の仕事開始に間に合うのかな」

「ええ、9時ですから。それまでに電話があればその場で対応するだけです」

 部屋に戻る。俺がシャワーを浴びている間に、「必ず服に着替えるように」とカリナに言っておく。カリナは笑顔で「スィン・セニョール」と答える。しかし俺の方が動揺していて、着替えをバス・ルームに持って入るのを忘れていた。浴びた後、バス・ローブで出て来て、鞄の中から着替えを出して、またシャワー・ルームに入って着替えた。

 それから1階のレストランで朝食。カリナはよく食べる。いや、すごく食べる。胸が大きいからといって、そんなところまでマルーシャに似ないで欲しい。

 ところで、マルーシャはどうしているだろうか。昨日一日、姿を見ていない。俺が気にする必要はないかもしれないが、後でメッセージだけでも入れておくか。

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