#16:第2日 (3) リオの交通 (1)
迎えの車に乗っていたのは、若い女だった。やはりラテン系の、驚くほどの美人。浅黒い肌に、ブラウンの髪なので、髪は染めているのかも。ベージュのシャツに、ダーク・グレーのパンツは、交通局の制服かな。ヘーベと名乗った。アイリスやレジーナもそうだが、どうしてファミリー・ネームを教えてくれないのか。
「
「初めまして、ヘーベ。俺のことは教授でなくアーティーと呼んでくれると嬉しい」
「あら、本当ですか! でも、各部門に紹介するときはプロフェソールとお呼びしますね!」
「しかし、俺はどこの教授でもないよ。ただの研究員だ」
「あら、本当ですか! でも、研究をする方はみんなプロフェソールとお呼びするんですよ!」
しかもとても元気がいい。これもラテンの気質か。車はなんとタクシー。だが、彼女がタクシー運転手というわけではなさそう。
「まず、ブラジルで一般的に使われている乗用車の説明をしようと思いまして」
いいけど、ホテルの前でやるのか。運転しながら説明ができない? でも交通局へ行ってからじゃダメなのか。
「そうですね。そうします」
ヘーベは一人納得したように、何度も頷きながら言った。何となく、頼りないな。何歳なんだろう。20歳くらいかも。「ぜひ助手席へ!」と言われ、隣に乗り込む。
「ご存じと思いますが、ブラジルではバイオマス燃料車が主流でして……」
エンジンをかけるのと、走り出すのとの合間にヘーベが言う。それからアトランチカ通りへ出て、いったん西行きの車線を走り、少し先の交差点でUターンして東行きに入るつもりらしいが、きょろきょろして、一言も話さない。
ついでながら、俺はブラジルでバイオマス燃料車が主流というのを知らなかったのだが、続きを聞くまではしばらく待つんだろうな。
「この車はタクシーですが、法律ではタクシーは全てバイオマス燃料車です。一般車両については……」
言葉が止まったのは次の交差点に差しかかったからで、ここで左折して北へ向かうらしい。さっき北へ行かなかったのは、南行きの一方通行だからだ。コパカバーナの、アトランチカ通り以外の道路は、ほぼ全てが一方通行になっていて、方向が交互に配されている。だから回り道が多い。
「バイオマス燃料車と電気車が混在しています。水素燃料車もありますが、高級車がほとんどで、給水素施設も少ないですので、少数です。バイオマス燃料と電気のハイブリッドもあります。その割合は、ええと……」
無事交差点を左折し、フィゲイレド・ヂ・マガリャインス通りに入ったのでヘーベはまたしゃべり始めたが、前を食い入るように見ながらで、危なっかしい。もしかして、運転免許を取り立てなのかなあ。
「無理に思い出さなくてもいいぞ。交通局に着いてからで」
「ありがとうございます、プロフェソール!」
アーティーと呼べって言ったろうが。運転していると、他のことが考えられないんだろうな。いいよ、初々しくてさ。
真っ直ぐ走っていくと小山が迫ってくる。あの裾野にも、きっとファヴェーラがあるだろう。そこへたどり着く直前で車は右折し、トンネルへ。ボタフォゴ地区に入り、巨大な墓地の脇をかすめて、街中で右左折を9回繰り返してから、住宅地の中の場違いな
しかし走った距離に比して、9回は曲がりすぎだな。いかに一方通行が多いといっても。駐車場に車を停め、シート・ベルトも外さないままに、ヘーベがしゃべり出す。
「すいません、燃料の割合を忘れてしまいました」
「いいよ。たぶん後で聞ける。ところで、バイオマス燃料車の主燃料はエタノールだな」
「スィン・プロフェソール」
だからアーティーと呼べと。
「部品の腐食が問題だったと思うが、ブラジルでは何かいい解決策を見出したのか」
「スィン・プロフェソール! そうです、金属、ゴム、プラスティックのいずれについても、十分な腐食対策が取られています。この車のエンジンをご覧に入れて、説明するんでした」
この車の? いや、今、
「では、いつ説明すれば……」
「最後でいいよ。別に、その説明がこの後に必須じゃないんだろう? それに、俺の専門とも関係ない。終わりは2時だったな。最後に送り出す役目も君だろう。その時にすればいい」
「スィン・プロフェソール」
なぜアーティーと呼ばないんだ。
「うまく説明できたら、昼食に連れて行ってやろう」
「本当ですか! では、それまでにちゃんと憶え直します」
ようやく笑顔に戻った。俺が泣かしたと思われたら困るんで、つい言ってしまったんだが、本当に食べに行きたいのなら連れて行ってやるか。
車を降りて建物に入り、エレヴェイターで7階に上がって応接室へ。落ち着いた感じで、椅子は革張りの豪華なものだが、なぜか誰もいない。
「本日の予定を説明します」
ヘーベが直立不動で、タブレットを見ながら言う。その説明が終わるまで誰も来ないのか。10時から副所長の挨拶、10時15分からCETの業務についての説明、10時半から道路交通管制システムの視察、11時半から軌道交通管制システムの視察、1時から昼食と意見交換。おやおや、昼食が予定に入ってるじゃないか。軽食だろうけど、その間にヘーベは昼休み、とかなら昼食に連れて行けない。本人は全く気付いてなさそうだが。
「では、副所長が間もなく参ります」
10時からって言ってたと思うけど、既に10時10分だ。万事、この調子なんだろうなあ。10時15分になって、どやどやと人がやってくる。男が5人。みんな、ヘーベと同じような制服姿。副所長、営業部長、技術部長、道路交通マネージャー、軌道交通マネージャー。
「
そして髭の副所長の最初の挨拶がこれ。今週はみんな、カーニヴァルのことしか考えてないんじゃないだろうか。
続いてCET-Rioのあらまし。発足当時はバス路線の運営と道路交通の管制を担当していたが、後に軌道交通、即ち
「鉄道の方は、定時運行性が近年大幅に向上したのですよ。化石燃料車の運転が都市部で禁止されてから一般車の台数が減って、バスが遅れなくなったのが大きい。今後はバス路線を増やしていく予定です」
そうなのか。しかし、路線バスは時間が読めないとアイリスに言われたんだがな。それに、昨日は道路が渋滞していた。それを言うと副所長は「日曜日はやはり渋滞が発生します」と平気な顔で答えた。
「特に市の
そして、問題は地形にあり、市の中心部を通らずして、海岸地区へ行くのが難しいのだ、と言った。やはり市内に多数存在する岩山の影響なのだった。きっとトンネルも掘りにくいのだろう。
次に太った営業部長から、近年の営業成績の紹介。これは俺の技術と何の関係もないが、ここ数年大幅な黒字を出していると宣伝したいのだろう。とりあえず聞かねばなるまい。
それから背の高い技術部長による、管理範囲の紹介。もちろん、広大なリオ・デ・ジャネイロ市内全域だが、交通信号は市の中心部と幹線道路沿いにしかない。中心部は市の最東端なので、交通網は道路も鉄道も、北から西への放射状に広がっている。唯一の例外が、東の対岸とを結ぶニテロイ橋。
今後の計画路線まで説明してもらってから、管制システムの紹介に移る。
「道路の管制システムはここにありますが、軌道交通は中央駅の近くにあります。最近、分かれたのですよ。ここは元々、陸運局があったんですが、新たに建て替えまして。システムの本体は向こうにあり、ここは言わば道路交通の司令室です」
下のフロアに移動しながら、眼鏡に山羊鬚の道路交通マネージャーが言う。つまりこの説明の後、移動が必要なわけだ。ヘーベと白髪の軌道交通マネージャーがくっついてきてるが、白髪マネージャーはそっちで待ってりゃよかったんじゃないか。月曜日は仕事が忙しくないから大丈夫って? 本当かな。
管制室に入ると、よくあるように、壁一面に巨大なパネル・ディスプレイ。地図と監視カメラ映像と様々な情報の表示。実は道路交通だけでなく、電力、ガス、水道の管制システムも統合しているそうだ。もちろん、それらの運営は別会社なので、管制担当者だけがここに派遣されているとのこと。
「実はリオは洪水被害を受けやすい立地でして、21世紀の初頭に2度も大被害を受けたものですから、ライフラインと災害情報を一元管理する統合管制センターを作ったのです」
はあ、そしてそこに俺の交通ネットワークの論文が参照されてるのかね。違うって?
「多数の運転者に交通情報を与えた場合の、経路選択の変化をシミュレイションした論文があったでしょう。タイトルは思い出せませんが」
「ああ、あるね」
俺もタイトルを思い出せないが、論旨はすぐに思い出したよ。とにかく、それによる渋滞予測の精度がいい? 本当かな。何を比較していいと言ってるんだか。
「もちろん、これの前のシステムですよ。去年更新したんです。州立大学が研究材料にするということで、前のプログラムとデータを渡して、調べたらそういうことだったそうで」
「車のライセンス・プレートの追尾データがあったのか」
「そうです。リオの交通網の特徴は、先ほど技術部長から説明したとおり、ちょっと特殊でしてね。言わば尖った半島の末端部に市の中心があるようなものだから、同心円状ネットワークの論理が適用しにくいというのが判ったのですよ」
そこで俺の論文を基にして式を立て、パラメーターを求め、シミュレイションをしたら実際の交通流データとよく一致したと。でも俺のその論文も、同心円状と格子状しか言及してなかった気が。いや、扇形状もあったか。通り抜けができないネットワークの例だったかな。
「たまたまだろうけど、うまくいってよかったな」
「たまたまだって構いませんよ。うまくいけばそれでいいんです」
褒めてるのか偶然を喜んでるのか、よく判らないコメントだな。まあいい。路線バスと
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