#16:第1日 (8) コルコバード山
奥の席に案内してもらい、向かい合って座る。メニューを渡されたが、ポルトガル語で読めない。早々にメニューを投げ出してマルーシャに言う。
「君と同じものを食べるから、二人前頼んでくれ」
「量も同じでいいのかしら」
「ディナーではなく、夕方の軽食として。もしディナーが必要なら後で付き合う」
ポルトガルやブラジルのディナーに、どれだけの皿が出てくるか知らないので、予防線を張っておく。うっかりディナーの約束をしてしまったが、それはまた後で考える。
「解ったわ」
カルド・ヴェルデ、バカリャウ・ア・ポルトゲーザ、サラダ・デ・アウファーシ・エ・トマーチ、フィレ・コム・アホス・エ・フリタス、パステウ・デ・ナタ。
聞いていて意味が取れたのはサラダだけで、それもトマトと何かのサラダだということしか解らない。
料理が来たらどんなものか判るだろうが、何を頼んだか一応聞いておく。
「ポテト・スープ、鱈のポルトガル風、レタスとトマトのサラダ、フィレ・ステーキにライスとフライド・ポテト添え、エッグ・タルト」
軽食でも5品なのか。フル・コースとしか思えないが。
「飲み物を頼んでくれたか」
「ワインでいいかしら?」
「オレンジ・ジュースだ」
ポルトガル語ではスコ・ヂ・ラランジャというらしい。もちろんマルーシャはワインを頼んだようだ。
「何か話せよ」
料理を待つ間、マルーシャに言ってみる。こうでもしないと、彼女はずっと黙ったままだ。俺の方が話題を持っていないのも情けないことだが。
「ディナーに付き合ってくれるの?」
軽食を食べる前からそれかよ。
「付き合うのは構わないんだが、逆に君は、そんなに遅い時間まで俺と一緒にいたいのかね」
「今日は、そうね」
「それはさっき君が言ってた、“不安”に関係があるのか」
「ええ」
「何時まで?」
「あなたの時間が許す限り」
明日の朝までって言ったら、俺のホテルの部屋に付いて来る気かよ。
「
「そうなれば諦めるわ」
「俺の代わりになりそうなのが、いればいいんだけどね。あのフランス人の二人はどうだ。もし彼らが
「そうね。居場所は知ってるから、考えてみるわ」
やっぱり知ってるんじゃないか。
「俺も彼らに会いに行くかもしれない。ヴァケイション中の
前回のジゼルのような例外もあるけど、気を付ければいいだけだ。
「ええ、別に構わないわ」
ポテト・スープが運ばれてきた。思っていたのと少し違う。青菜を刻んだものが入っているようだ。真ん中に浮いている赤いものは、ソーセージの切れっ端かな。
「不安の原因、というか、明日から何が起こるか判ればいいんだがな。いつもながら俺にはさっぱりだから」
「一つだけ、判ったことがあるわ」
「何が?」
「私は見張られている」
視線でも感じるのかねえ。しかし……
「ここは仮想世界だし、俺たちは何かの実験の観察対象になってるんだから、見張られてるのは当然で、いつものことだろう?」
あのさあ、俺がしゃべってる間に、スープを飲み終わるのはやめてくれないかな。不安があるにしては、いつもどおりの速さじゃないか。俺、まだ4分の1しか飲んでないんだけど。
「ええ、それは判っているわ。でも、外の世界からだけではなく、中の世界でも見張られている気がするの」
「中の世界……ということは、尾行者がいる?」
「尾行者はいないわ」
それはそうだ。タクシーの後ろを付いて来た車はない。そもそも、車の数がやたら多くて渋滞してるところがたくさんあるんで、尾行に向いてないんだよ。すぐに見失って置いて行かれるはずだ。
「それはどこから?」
「このステージに入ったときから、ずっと」
「他のステージではそうじゃなかったと?」
「ええ」
とすると、このステージ独特の仕様があるということか。
鱈のポルトガル風が来た。ポルトガル風というのが何を指すのかよく判らないが、ニンニクとオリーヴ・オイルだろうか。だとするとスペインも似たようなものじゃないかと思う。
「なら、俺も少し注意してみよう。もっとも、君に見張られていても気が付かないくらい鈍感だがね」
「いいえ、あなたはときどき油断するだけで、それ以外の時に注意深いのは判ってるわ」
それは褒めてるのか?
多すぎる軽食を終えて、駅に戻る。列車は30分に1本出ており、次の列車の客が、既に駅舎の中で待っている。2両編成で、200人ほど乗ることができるから、狭い駅舎から溢れるくらい人がいる。
マルーシャは、不安がっているわりに、俺にくっついてきたりしない。見張られてると言うが、尾行者ではないので、襲ってこないと思っているからだろう。
しかし尾行していないとなると、いったいどうやって見張っているのか。まさか町の人が全員見張りというわけではあるまい。
出発の10分前になると、赤い電車が入ってきた。降りてきた客も200人ばかりいる。それがはけてから、プラットフォームへ。
観光客はたくさんいるのだから、長編成にすればいいかというと、そうはいかなくて、理由はラック式軌道の“登山鉄道”だから。要するにラック・レールという、線路の間に設置した歯型レールに台車の歯車を噛み合わせて、急勾配を登る仕組みなのだ。だから編成を長くすると重くなってしまい、登れない。
おまけにカーヴがきついので、車両を長くできない。しかも、線路の幅が“メーター・ゲージ”、即ち1メートルちょうど。これは普通の鉄道よりもかなり狭い。もちろん、“登山鉄道”だからそうなっているわけ。
一緒にいるのがメグなら、これらを縷々説明するところだが、マルーシャはきっと何でも知っているだろうから、説明しない。
傾斜のあるプラットフォームで、他の観光客のために写真を撮ってやったりしながら――ここでもマルーシャと一緒に撮りたいという厚かましい男が何人もいた――、出発を待って、直前に乗り込む。もちろん指定席。
窓際の席をマルーシャに譲り、俺は通路側に座る。車両が小さいので、椅子の幅も狭い。隣に座ったマルーシャと、腕が触れ合ってしまう。彼女の二の腕は、ひんやりしていてすべすべで、とても気持ちいい。
出発すると、すぐに森林の中に入る。うねうねと蛇行しながら、坂を登っていく。床下からの音がけっこううるさいが、これはラック・レールと歯車が噛み合う音だろう。
3分ほどすると、駅を通過する。もとより、乗る人も降りる人もいない。基本、単線なので、列車の行き違いのために設置されているのだ。
さらに2分走ると、右手に
そこからは、本格的に森林の中。さっきまで右手の木立越しにちらちらと見えていた家々が、全く見えなくなる。
10分ほど走り、左手の山を巻くように大きく曲がりながら、パイネイラス駅に到着。ここは
2分後、列車はコルコバード山南側の、切り立った崖の縁に出た。右手の車窓に、イパネマ地区の景色が広がる。眼下にロドリゴ・ヂ・フレイタス湖があり、その向こうがイパネマの町並みとビーチ、そのさらに向こうが大西洋だ。他の客が大騒ぎする。マルーシャは黙って見ているだけ。
最後の3分も急坂を登り、列車はクリスト・ヘデントール駅に到着。“
駅からの細い通路の先に、エレヴェイターがある。しかし俺たちは健脚なので、階段で登ろうと思う。エレヴェイターの向こうにバス・ターミナルと売店。その横に階段。バスで来た観光客と共に、登る。
何段あるかは、誰も知らない。普通、数えてリーフレットに載せるものだが、ブラジル人はそういうことをしないのか。
曲がりくねった山道のような階段を延々と登ると、像の大きな背中が見える。像は東を向いて立っており、頂上に至る参道は西から、つまり背後から近付く形になっている。
途中、崖っぷちの少しだけ平坦なところに作った狭いレストランの脇を抜け、さらに階段を登る。最後、台座下の広場に上がる階段は、南北二手に分かれているのだが、上りと下りで分けられたりしていないといういい加減さ。
眺めのいい南側の階段を登り、像の足元へ。前に回り込んで、見上げる。黒い石造りの台座に、白い石像が、両手を広げて――十字架の形になって――立っている。台座の高さは26フィート、像の高さは92フィート。
ちなみにニュー・ヨークの
「何か感想は?」
横に立って像を見つめるマルーシャに訊く。救世主を見ているとは思えないほどの、無感動な視線だ。
「写真で見て知っていたけれど、装飾が少ないわ」
「確かにそうだ」
要するに、服の襞が少ない。司祭が着けるような、シンプルなローブ姿だからだろう。自由の女神は古代ローマのトーガのような服なので、襞がたくさんあり、立体感が豊かだ。もちろん、どちらのデザインが優れているかを評論するつもりはない。シンプルなデザインには、それなりの良さがあるだろう。
それから、像の先に延びている通路へ。たぶん、そこに立って像を見上げれば、形がよりよく解る、という意図なのだろうが、観光客は像でなく周りの景色を見ている。
山の高さは2330フィートもあり、ポン・ヂ・アスーカルの2倍近いから、眺めがいいのは当たり前だ。観光ツアーできた客も、像のデザイナーや製作者の名前より、景色の方が記憶に残るだろう。ところで、マルーシャはデザイナーや製作者を知っているのだろうか。
「デザインはフランスの彫刻家ポール・ランドウスキ、内部構造の設計は同じくフランスの建築家アルベール・カコー、顔を彫刻したのはルーマニアの彫刻家ゲオルゲ・レオニーダ、製作総指揮はブラジルの土木工学者エイトール・ダ・シウバ・コスタ」
どうしてそんな細かいことまで憶えてるんだよ。タクシーの中でも列車の中でも、リーフレットを読んでなかっただろ。俺は自由の女神だって、デザインはバルトルディで内部構造設計がエッフェルだってことしか知らないんだぞ。
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