#16:第1日 (9) 山上からの夕日

 周りの観光客が、「写真を撮ってくれ」と言ってくる。もちろん、マルーシャと撮りたいという意味。そのマルーシャは像を見上げるだけで、返事もしないので、俺が代わりに断る。彼女はどこへ行ってもこんな感じなのだろう。

 だが、15分経っても動こうとしないので、「まだ見るのか」と耳元で囁く。

「もう少し」

 他の誰から話しかけても反応しないのに、俺の言うことだけは聞こえている。そういえば、以前もこんなことがあった。スペインで、マドリッドにピカソの『ゲルニカ』を見に行ったときだ。あの時は、何時間あそこにいたんだっけ。

 今回はそこまで長くならないだろうと期待する。もっとも、夕日が見られるまでにはまだだいぶ時間があるので、それまで動かないという可能性はある。

 周りの観光客が、マルーシャの写真を勝手に撮り始めた。ただ空を見上げている女の顔の、何がいいんだ。あちこちに、撮らないでくれと言い回る。俺がやってることは、まるでセレブの付き人だな。

 もう15分したら、ようやくマルーシャが見上げるのをやめた。俺の方を見ている。「行くか」と言うと「ええ」と返事をしたので、像の足元の方へ歩く。観光客が何人か、付いて来るようだ。

「聖堂に入る?」

 像の足元の台座が礼拝堂になっていて、観光客が入ることもできる。ただし常に満員御礼。

「いいえ、必要ないわ。祈りは像に捧げたから」

 見上げているときか。そんな様子には見えなかったが、祈り方に決まりがあるわけじゃなし、本人がそれでいいならよしとする。

 が、とりあえず像の足元を一回り。礼拝堂が混雑していることだけ確認して、下へ。レストランには寄らず、バス・ターミナルまで降りてきた。ヴァンのようなミニバスがたくさん停まっている。

 鉄道で一駅手前にあった観光案内所ヴィジター・センターからここまでは、山道が細く、激しく曲がりくねって、かつ急勾配なので、この車両しか入れないのだ。だからコパカバーナ方面行きバスは、観光案内所ヴィジター・センターで乗り換える。

 ターミナルの南側に、低い鉄柵がたくさん置いてある。バスを待つ人の列を作るためのものだ。

 では、タクシーは上がってこられないのか? それが実は可能で、バス・ターミナルから一段低くなったところに、狭い駐車場がある。そこまで来ることはできる。もっともそこは、レストランや売店の従業員のためのものなので、タクシーがそこで客待ちをすることは、基本的に、ない。あくまでも“可能”というだけであって、普通は観光案内所ヴィジター・センターで待っている。

 さて、俺たちはまだバスには乗らず、夕日を見ようとしている。日没は7時半頃の予定で、時計は7時過ぎ。ちょうど空の色が変わり始めている。

 バス・ターミナルの、一番西側の柵のところへ行って、空を見る。まだ日が白くて眩しいので、見てられない。少し話をする。

「君はいつも観光地へ行くと、こんな風に写真をせがまれるのか」

「食事やお茶に誘われることが多くて、写真は少ないわ」

「国民性の違いだろうか」

「いいえ、観光客の人種構成の違いでしょう」

 確かに、周りは観光客ばかりで、ブラジル人はほとんどいないんだった。おそらくは北米からが多いか。ヨーロッパやアジアは少ないだろう。それでどういう違いがあるのか。

 振り返って、バス・ターミナルの方を見る。上の展望所と違って、人はあまり寄ってこない。遠くから携帯端末ガジェットを向けている奴はいるが。

「もしかして、君をオペラ歌手と認識していないとか」

「ええ、たぶん」

 なるほど。ヨーロッパではどこもたいていオペラの人気があるが――イングランドは違うが――合衆国はさほどでもない。有名人が近くの都市に公演に来れば、見に行くという程度。カナダもきっとそうだろう。南米での関心はもっと低くなる。唯一、アルゼンチンで人気があるくらいか。

 だから「オペラ歌手のマルーシャ」と気付いた者はいない。天から降りてきた美女、という程度の認識なわけだ。

「そういう、いつもと違った注目のされ方が、君の不安になってるんじゃないのかね」

「近いかもしれない。場所によって、不安が高まったり、落ち着いたりするから」

「今は?」

「高い方」

 ジーザス・クライストさえ背を向けているというのに、おかしなものだ。

 待っているうちに、日が傾いてくる。俺たちと同じように、夕日を眺めようと西側の柵に人が集まってくる。バスに並ぶ列と混じりそうになるので、ちょっと迷惑をかけてるかもしれない。

 マルーシャの背後を、たくさんの人が通る。不安を抱えていると言うわりに、背中をケアしている様子はない。人は近付いてこないのは、判っているということか。それでも、一応俺が背後を気にしておいてやる。

 西の空が赤く染まって、マルーシャの横顔も赤く照らされる。ギリシャ神話の女神の彫刻よりも美しいが、彫刻同様、表情に乏しい。それでも美しいことに変わりはない。夕日を見るより芸術的だ。どんな下手なフォトグラファーが撮っても、第一級のポートレイトが物にできるだろう。しかし、今、それを眺めているのは俺だけ。

 そもそも、俺は夕日を見たいと思っていない。世の他の男もたいていそうではないか。女を誘うために、夕日や夜景を見に行こうと言うんだ。そして女は、素晴らしい景色を見せてくれた男を素敵だと思う。それは勘違いであろう。

 しかし、マルーシャがどういう思いで夕日を見ているのかは、定かでない。とにかく俺は、夕日をほとんど見ずに、彼女の横顔ばかり見ていた。


 天頂が暗くなって、星が輝きを見せ、赤い日輪が彼方の山へ溶けるように沈んでいって、やがて没した。あの山はまさか、アンデス山脈ではないだろう。ここからでは、遠すぎる。

 残照が西の空を赤く染めているが、地平はもう真っ暗だ。左手、町の方を見ると、明かりが灯っている。もうあと30分もすれば夜景が見られるだろうが、バスの時間に間に合わない。

 マルーシャがこちらを見た。もう十分見た、ということだろう。手振りで、バスの列に並ぶことを促す。しかし列は俺たちの後ろどころか、バス・ターミナルを半周して、階段近くの売店の前まで延びている。もちろん割り込んだりせず、最後尾へ行く。

 ミニバスは次々にやって来て、並んでいる人を捌いていく。観光案内所ヴィジター・センターまでは10分ほどのはずで、3分に1台くらい来るから、6、7台はあるのだろうか。100人は並んでいたと思うが、30分ほどでようやく順番が回ってきた。その頃には、もう空は真っ暗。像はライトアップされているが、どうやら正面からだけらしく、十字型をした大きな影が後光を発しながら夜空に浮かび上がっているだけだった。

 ミニバスは13人乗りで、後ろの5人掛けに当たった。また窓側をマルーシャに譲るが、俺の横――5人掛けの真ん中――に身体のでかい男が座ってきて、彼女の方へ身体を寄せざるをえない。オックスフォードで投げ飛ばされた時を除けば、最も密着したことになるだろう。

 右側の席は坂を下りるときに、景色が見えない。とは言え、右側の窓からだって、夜景が見られるのはほんの一瞬だけなので、大差はない。

 走り出すと、急な下り坂をUターンするかのように曲がりながら、それを左右に繰り返す。列車はこんなに曲がらなかったから、道路以上の急勾配を登っていたわけで、ラック式軌道の登攀力がいかに大きいかが解る。

 右に曲がるときはマルーシャが寄りかかってきて、左に曲がるときは俺が寄りかかる。隣のでかい男をブロックしようとするのだが、天井以外にどこにも手を突っ張るところがないから、マルーシャを押しつぶしそうになる。寄りかかるたびに「済まないキューズ・ミー」と言うのだが、彼女は平然としている。

 狭い山道を、対向のミニバスとたびたびすれ違いながら――すれ違うためのぎりぎりの幅しかない――予定どおり10分で観光案内所ヴィジター・センターに着いた。コパカバーナ行きに乗り換えるが、そのバスも全く同じタイプのヴァン。こんなので客が乗り切れるのかと思ったのだが、他の客はほとんど大型の観光バスで来ているようで、そちらへ乗り込んでいく。

 コパカバーナ行きは俺たちを待ってくれていたらしく。乗るとすぐに出発した。今度も後ろの5人掛けだったが、真ん中の客がいないので、余裕を持って座った。

 さっきの道ほどではないが、カーヴを何度も繰り返して山を下り、コスメ・ベリョの街中からトンネルを通ってコルコバード山の南へ。山の上から見た湖の畔で東に折れ、星空の下で暗い影となった名も知らぬ岩山を迂回して、コパカバーナの市街地に帰ってきた。

 予定どおりセルゼデロ・コレイア広場で降りたときには、8時45分を回っていた。

「一緒に観光してくれてありがとう」

 薄暗い街灯の下、マルーシャが俺の顔を見上げながら言う。彼女から礼を言われるのは、珍しいことでなくなってしまった。そして彼女は表情に出さないのに、本当に感謝してくれているのだという心は伝わってくる。これも不思議なものだ。

「ディナーでどこか行きたい店はあるか?」

「付き合ってくれるの?」

「時間が許す限りと頼まれたからね。俺はこの後、何もすることがない。せいぜい、裁定者アービターと通信するくらいで、それも日付が変わる頃だな」

「なら、こっちへ」

 マルーシャが振り返って歩き出す。歩道から車道へ。また強引に横断するのかと思ったら、横断歩道があって、信号が青に変わったところだった。早足で歩くのに付いて行く。

 北へ向かい、2ブロック歩いて西へ。小さな広場に出たと思ったら、地下へ降りる階段があって、Siqueira Camposシケイラ・カンポス駅だった。そういえば、ホテルへは地下鉄に乗ると言ってたっけ。シェラトンへ行くのだろうか。

 チケット売り場へは行かず、そのまま改札口トル・ゲートへ。「あなたのカードが使えるわ」とマルーシャが言う。本当かね。マルーシャはチケットを既に持っているらしく――何て用意のいい――、彼女に続いて俺も改札機ゲート・マシーンにカードでタッチし、プラットフォームへ。

 すぐに西行きが来て――なぜ彼女はこうも乗り物の時間に恵まれているのか――、10分乗って、五つ先のAntero de Quentalアンテロ・ヂ・クエンタウ駅で降りた。

 階段を上がって外に出ると広場になっていて、道路を渡ったところにタクシーが列をなして客待ちしている。マルーシャが横断歩道へ差しかかると信号が青になって――まただ――、タクシーの横に立つ。もちろん、俺がドアを開けて乗せてやり、俺も横に乗って、マルーシャの言葉を待つ。

「シェラトン、ポル・ファヴォール」

「スィン・セニョリータ」

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