#16:第1日 (6) セラロン階段と水道橋

 マルーシャをエスコートしてからタクシーに乗り、運転手に、セラロン階段、水道橋、大聖堂を回って、登山鉄道の駅へ、とルートを説明する。長距離のいい客を捕まえたと思ったか、若い運転手は「スィン・セニョール!」と元気よく走り出す。

「山へ登るんですね。降りてくるまで、駅で待ってましょうか、セニョール」

「いや、帰りは頂上からバスでコパカバーナへ降りるんだ」

「ですが、そのバスは駅のあるコスメ・ベリョの方、つまり北へ降りてきてから、トンネルを抜けてコパカバーナへ行くんですぜ。それにホテルによっちゃあ、タクシーの方が早く帰れます」

 リド広場行きバスは途中で、ホテル近くのセルゼデロ・コレイア広場を通るので、そこで降りればいい、とアイリスが言っていたと思う。しかし、マルーシャが一緒なら? 彼女はシェラトンだっけ。どこにあるかは知らないが、タクシーの方が都合がいいだろうか。訊いてみる。

「帰りはバスでいいわ。あなたと同じところで降りて、地下鉄に乗るから」

 そういうわけなので、運転手には諦めてもらう。夕日を見てから降りるから、2時間くらい待つことになるぜ、と言っておく。

「新婚旅行じゃないんですかい、セニョール」

 余計なことを言うな、とも言っておく。

 タクシーは海沿いの曲がりくねった、景色のいいところを通って、15分でセラロン階段の前に着いた。都合よく、近くに駐車場がある。運転手が降りて「案内します」と言うが、なぜかマルーシャが断る。

「1時間後に、大聖堂の駐車場に来てくれればいいわ」

「スィン・セニョリータ」

 それまで、他の客を乗せて稼いでこいということかな。運転手は素直に返事して走り去った。

 さて、セラロン階段。街中の狭い四つ辻の、一方向だけが階段になっているのだが、両脇の壁は赤いタイル。階段の“段面”が青・黄・緑のタイルで装飾されていて、派手な色使いに目がチカチカする。そしてそれらのタイルに、絵が描かれている。

 付近は観光客で混雑しているが、それを当て込んだ露天の売店がたくさん並んでいる。シャツ、帽子、サングラス、アクセサリー、ココナツ・ジュースと様々。しかしもちろん無視する。

 階段を見上げる。215段、全長410フィート。2000枚以上のタイルが使われている。全容が見えないほど、人通りが激しい。

 ホルヘ・セラロン氏は20年以上に渡ってタイル張りを続けたそうで、欠片を使ったモザイク模様もあれば、世界中から送られた絵入りタイルもある。一つ一つ見ていくと、時間がいくらあっても足りなさそう。

「君はこれを見に来たことがあるか」

 横で黙って立って、階段に見入っているマルーシャに訊いてみる。

「いいえ」

「じゃあ、お薦めの絵柄があるかも知らないんだ」

「見ながら上がるだけでいいわ」

 そういうものかね。とりあえず、階段を進む。上がり口の段に"ESCADARIA SELARON"、"RIO DE JANEIRO"の文字がモザイクで書かれている。その他の絵柄はほとんど認識できない。

 階段の途中の踊り場に、家のドアや門がある。要するに、ここは“生活道路”なのだ。朝から晩まで引っ切りなしに観光客がうろついて、住民は迷惑していないのだろうか。とは言え、セラロン氏がこの階段を装飾するのに、付近の住人の協力があった、とのことなので、迷惑でないということなのだろう。

 そもそもなぜこんなところに階段があるかというと、“ここに丘があるから”だ。サンタ・テレサ丘という。ポン・ヂ・アスーカルから見たとおり、リオ・デ・ジャネイロには大きな岩山が多いが、こうした小さな起伏もたくさんある。

 短い踊り場と長い踊り場が、ほとんど交互に現れる。起伏の角度が一定しているようだ。段を踏み外さないよう注意しないといけないのだが、絵入りタイルは両脇に並んでいる。細かい絵入りのものが多いのだが、とても見切れなくて目が滑る。モザイクで描いた文字しか判別できなくなってしまった。

 120ヤードほど一直線に上がると、先が二手に分かれていた。左は平坦な道だが、門で封鎖されている。右が短い階段。そちらは装飾されている。目の前の壁には、モザイクでブラジル国旗が描かれていた。

 もちろん右手へ行く。残り40段ほど。登り切ると、何ということはない普通の道路に出た。他の観光客は、引き返して降りていくようだ。しかし降りるときは“段面”を見ることができず、普通の階段にしか見えない。現にここから見下ろすとそうだ。なので、あまり面白くないのではないだろうか。両脇に絵はあるけれど、さっき見たし。

 で、降りるのか? マルーシャの顔を見る。

水道橋アケダクトを見に行きましょう」

 マルーシャが右を見て言う。石畳の坂を下りていくと、水道橋アケダクトの付け根に出られるのだそうだ。来たことがない割に、よく知っている。

 二人並んで、坂を下りる。一言も話すことなく。俺は別に気詰まりでないが、彼女はどう思っているのだろうか。

 それにしても、あまり綺麗な道ではない。坂だというのに路駐だらけだし、ゴミが散乱していたりもする。家は古びていて塀も壁もボロボロ。加えて無数の落書き。こういう落書きをする奴は、いったい何が楽しいのかと思う。

 坂の角を曲がるところで、家の屋根越しに、町の中心街の高層建物群が見えた。ここはスラム街のようなところなのに、大違いだ。そのまま曲がってさらに坂を降りるのかと思ったら、マルーシャが角の隅に作られた、細い道に入り込んでいく。

 階段を上がって、上の道に出た、と思ったら、そこに線路が。そして右を見ると、橋になっている。

 まさか、これが水道橋? その上を、路面電車トラムの線路が通っている?

 地図をよくよく見ると、確かに水道橋の上に路面電車の路線がある。サンタ・テレサ・トラム。そして4分の1マイルほどあるこの橋を渡りきったところが、路線の終点であるカリオカ電停なのだった。

「渡る?」

「何だと?」

「この橋を」

 マルーシャが、水道橋を見ながら言う。橋の上は単線だが、ここから先は複線に分かれているようだ。いや、そうじゃなくて。

「しかし、電車が来たら?」

「この区間は、1日2往復しか走らないの。朝8時と、午後3時。定員も制限されているわ」

 橋が老朽化してるから? だから何? 今、3時半だし、もう列車は来ないから、歩いて渡ろうって? そんな無茶な。

「興味深い提案だが、橋を渡ってしまうと、橋の姿がよく判らない。俺は橋を渡るよりも、見る方に興味があるね。昔の水道橋らしい、二段アーチ橋なんだろう? 降りて、下から見て、どうしても渡りたくなったら、明日にでも電車に乗ればいいんじゃないかね。朝、8時に来てさ」

「なら、降りましょう」

「何なら明日の朝、乗りに誘おうか? 俺の仕事は、10時からだそうだし」

「私は明日、朝早く出掛けると思うわ」

「それは残念」

 さっき上がってきた細い階段を降りて、さっきの坂の続きを降りて、100ヤードも行かないうちに、橋の下に出た。

 リーフレットの写真にあるとおり、白く塗られた二段アーチ橋。ラパ地区にあることから、別名をラパ・アーチ。建造は1750年。高さ58フィート、長さ300ヤード。サンタ・テレサ丘のカリオカ川の水を引いて、市の中心部に運ぶために作られた。

 残っているのはこれだけだが、かつてはもっと北のカリオカ広場や、東の港の桟橋まで水路が延ばされていたそうだ。

 水道橋の下の、カルデアウ・カマラ広場から見上げる。定期的に白く塗り直しているらしく、今はとても綺麗だ。もっとも仮想世界のことなので、一番綺麗な状態を再現してあるというだけかもしれない。

 これでメグと来ていたら、写真を撮ってやったり、一緒に写真を撮ったりするのだが、相手はマルーシャである上に、カメラ付き携帯端末ガジェットすら持っていない。もちろん、マルーシャが嬉しそうに写真を撮るなんて、考えられないことだから、撮ろうかと言わなくて済む。

 周りにたくさんの観光客がいて、水道橋を眺めているが、ハンサムな男の二人組が寄ってきた。橋の前で写真を撮って欲しいらしい。しかも「隣の美しいセニョリータと、ぜひ一緒に!」などと言う。何を考えているのかと思う。しかしとりあえず、マルーシャに訊いてみる。

「ごめんなさい。仕事以外では写真を撮らないことにしているわ」

 仕事って? ああ、のオペラ歌手ね。肖像権が絡むからかな。しかし、「マイ・ダーリングと一緒じゃないと撮らないわ」などと言われなくてよかったよ。言うわけないか。

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