#16:第1日 (5) 食べ物か飲み物か

 さて、ロープウェイの駅を降りた広場の向かい側に、レストランがある。クラッシコという。そのテラス席から、北、東、南の景色を眺めながら食事することができる。

 彼女のことだから、ここでいつもの大食いぶりを発揮しているのではと思う。店に入って、テラス席に案内してもらった。

 北側の、グァナバーラ湾を望む席へ連れて行こうとするウェイターを無視し、立ち止まってテラスを見回す。女の一人客を捜せばいい。あるいは、男に声をかけられて、相席を断っている現場を見られるかもしれない。

 テラスの南端で、海を見ている女を発見。見覚えのある白いつば広帽キャペリンを被っている。あれは彼女の目印のように思えてきたな。半袖の白い涼しげなドレスだが、横から見てはっきりと判る、メロンのように大きな胸の盛り上がり。テーブルの上には空になった皿が多数。もう間違いなし。

 ウェイターに声をかけ、そのテーブルへ向かう。俺の足音が聞こえているに違いないが、彼女は気にせずに海を眺めている。すぐ脇に立ってテーブルをノックすると、ようやくこちらを見た。もちろん、マルーシャその人。珍しく、物憂げな表情をしている。

「セニョール、そちらのお客様は相席をお断りになってまして……」

 後ろからウェイターが余計なことを言う。

「そうなのか?」

「入るときに名前を言えば案内してもらえたのに」

 平然としてマルーシャが呟く。言うのは俺の名前か君の名前か。それはどうでもいいが、振り返ってウェイターを見る。動かない。

 マルーシャの方に向き直ると、彼女の目が動いて、ウェイターを見た。途端にウェイターが「セニョール、そちらのお席へどうぞ」と言う。相変わらず、目で人を動かすのがうまいなあ。

 椅子を引いて、彼女の隣に座る。正面に海を見る方角。

「料理か飲み物を注文した方がいいかな」

お好きなようにアズ・ユー・ライク・イット

 久しぶりに聞いたな、その言葉。でも俺はついさっき、昼食を摂ったばっかりなんだった。

「じゃあ、オレンジ・ジュース」

 脇にまだ突っ立っているウェイターに言う。

はいスィン、セニョール」

ハンバーガーハンブルゲルフライド・シュリンプカマラウン・フリート

はいスィン、セニョリータ」

 いや、君も注文するのかよ! 何皿目なんだろう。見えているだけで4枚は重なってるんだけど、既に下げたのもあるよなあ?

 とりあえず、気にしないでおくか。訊くべきことは他にある。

「それで、何の用? 鞄を引ったくられないようにっていう注意なら、もうちゃんと反省しているが」

 ウェイターがあたふたと下がってから、マルーシャに訊く。

「今回はこの後、最終日まで会えない気がしたから、挨拶を」

「それはわざわざありがとう。しかし、この後の展開を知っているのか?」

「知らない。でも、あなたと敵対しなければいけないのは判っている」

「それはいつもそうだろう。協力してターゲットを獲得したのは、イタリアくらいだ」

「今回は情報交換もできないみたいだから」

「前回のハンガリーも途中から情報交換を禁じられたよな」

「でも、会うことはできたわ」

 それはそうだが、いつもと何が違うんだろう。顔も見ることができなくなるってこと? 会いたいなら約束して会えばいいし、禁じられてから諦めればいいじゃないか。

「それで、明日から会えないとどうなる?」

「何が起こるか、私にも判らないから、不安で」

 不安。彼女の口に最も似合わない言葉という気がする。いつだって、全てをお見通しという感じだから、先行きを心配するのは俺の方だよ。

「俺と会うことで、その不安がどうなるんだ?」

「少しだけ、和らぐわ」

 よく解らんな。俺がどうして彼女の精神安定剤になるんだ。それとも、見知った顔なら手の内が読めるから安心なのかね。

「誰かに相談したいなら、メグに電話しても構わんよ。俺の記憶では、彼女はここへサンバを見に来たいと言っていたから、君が誘えば飛んでくるかもしれない」

「来ない方がいいわ。危険だから」

 危険ねえ。俺と同じように、町で襲われる心配をしてるんだろうか。どうも少し違っているような感じだが。

 注文の品が運ばれてきた。俺の前にオレンジ・ジュースとハンバーガー。いや、ハンバーガーはマルーシャのだから。でも、ウェイターが行ってしまってから彼女の方へ押しやるか。このハンバーガー、どうして半分に切ってあるんだろう。串は1本しか刺さってないのに。

「他に話すことは?」

「食べ終わるまで、待っていて」

 なぜそうなる。しかし、マルーシャの食べるのは早いから、気にすることはないか。シュリンプにサワー・クリームを付けて、次々に口に放り込んでいく。一噛みか二噛みで飲み込んでいるかのよう。シュリンプは飲み物じゃないんだけど。

 皿の上のシュリンプは1ダースほどあったはずだが、1分ほどで無くなってしまった。ハンバーガーの皿を押しやる。マルーシャはかぶりつくような真似はせず、テーブルに置いてあったフォークとナイフを取り、ハンバーガーを小さく切っては口の中に収めていく。それはもう、流れるようなスピードで。

 ハンバーガーの早食いというのは一つ15秒くらいで食べるはずだが、もちろんかぶりつくのであって、フォークとナイフで食べる競技があれば、彼女が世界チャンピオンなんじゃないかなあ。

 30秒かからなかった。しかも、フォークを置いた途端に、口の動きが止まってる。ハンバーガーは飲み物じゃないんだけど。

「飲み物はいらないのか」

「ええ、お腹が膨れるから」

 食べ物では膨れないのだろうか。不思議な胃袋だな。


 食べ終わっても、マルーシャは黙っていた。口元を拭うこともない。早食いをしたのに、汚れていないのだ。いったい、どんな食べ方をしたらそうなるのか。

「それで? まだ何か食べるのか」

「いいえ、もう終わり」

「では、何か話す?」

「この後、どこへ行くの?」

 どうしてそんなこと訊いてくるんだ。しかし、言いたくないわけではないので、セラロン階段とその近くの水道橋、大聖堂を見に行ってから、コルコバード山へ行くと話す。

「私も同じところへ行こうと思ってたわ」

 マルーシャが無表情のまま言う。本当に? 別に同じところでもいいけど、だからどうしたって?

「なら、一緒に行くか」

 あれ、どうして俺は彼女を誘ってるんだ? 別に、目で促されたわけでもないのに。

「ありがとう、そうするわ」

 さほどありがたそうな顔をしていないが、マルーシャは俺のことをじっと見ている。エスコートを待ってるのか。

 とりあえずウェイターを呼んで、支払いをする。彼女の分も払っておくか。カードを渡すと、ウェイターが携帯端末ガジェットでスキャンし、「指を……」と言って携帯端末ガジェットを差し出してくる。指紋認証か、静脈認証か。どちらでもいいが、サインせずに精算できるんだ。2045年にもなれば、ブラジルでもそれくらいのことができるんだな。

 指を携帯端末ガジェットに載せるとピッと小さな音が鳴って、「ありがとうございます、セニョール」。

 立って、マルーシャを促し、エスコートしながら店を出る。周りの観光客の視線が、俺より半歩遅れて歩く彼女の姿に集中しているのがよく解る。悪かったよ、釣り合わなくてさ。ロープウェイの駅で、次の出発を待ちながら訊いてみる。

「ここでも何人か、男から声をかけられた?」

「ええ」

「ホテルからさっきのレストランまで、何人くらい」

「憶えてないわ」

「数え切れないほどか」

「それほどでもないわ。2ダースには足りないくらい」

「俺がいなかったら、夜までに3桁は行くかな」

「明日以降、数えておけばいいかしら」

「最終日だけでいいよ」

 冗談のつもりだったが、一度、数えておいてもらおう。少しは彼女を困らせていいかもしれない。

 しかしそれっきり、マルーシャはしゃべらない。俺が景色を見ると彼女も見ているようだが、俺が彼女に目を戻すと、同じようにこちらを向く。しかし麗しい唇は閉じたままだ。いい色の口紅を使ってるなあ。

「何かしゃべれよ」

 ロープウェイに乗ってから言ってみる。

「フランス人のカップルクプルは見つかった?」

 やっぱり知ってるんじゃないか。

「どうしてそれを?」

「あなたが鞄を奪われたとき、犯人をその二人が追うのを見たわ」

 何てこったい、あの二人、偶然ってのは嘘かよ。しかし、何が目的で引ったくりを捕まえようとしたんだ? あるいは俺が、競争者コンテスタントだと判っていて、恩を売ろうとしたか。

「君は彼らのことを知ってるのか。存在じゃなくて、名前とか素性とか」

「いいえ。ただ、犯人を追うときの身のこなしが普通じゃないと思って。あなたは後を追ったけど、彼らは先回りしようとしているように見えたわ」

 やっぱりか。偶然にしてはおかしいと思ったんだよ。女が反対側の歩道にいるとか。

「つまり、プロの泥棒の可能性がある」

「ええ」

「女の方も?」

「ええ」

「つまり、競争者コンテスタンツの可能性がある」

「ええ」

「でも、ライヴァルならそんなことしないだろう。ヴァケイションかな」

「今のところはどちらとも言えないわ」

 そうだな。俺を単なる観光客と思って、親切心を発揮しただけかもしれない。マーシアンのような“いい奴”なら、するだろう。

 それっきり話が進まないまま、ロープウェイを乗り継いで、ジェネラウ・チブルシオ広場に戻ってきた。タクシーを待たせてあったはずだが、姿が見えない。待っている間に一稼ぎ、とか考えて、客を取ってしまったのか。さすが責任感に欠ける国民性。

 マルーシャが別のタクシーの横に立って、乗って、と言うかのように目で促す。さっきのタクシー、料金を後払いにしてるんだけど、いいかな。文句があればホテルに来るだろう。

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