#16:[JAX] レストランの新メニュー

  ジャクソンヴィル-2065年12月26日(土)


 今日も6時40分に起き、来客に備える。しかし7時になってもチャイムは鳴らなかった。昨夜、ベスが帰るときに「朝はここに来ないかもしれないわ」と言っていた。

 あんな相談をしてしまったから、一夜明けて平常心ではいられないのだろう。あるいは眠れぬ夜を過ごしたかもしれない。本当に申し訳ないことをした。

 とりあえず、今日は朝食を作ってくれる人がいないので、出掛ける服に着替えてスタジアムのレストランへ行く。コックがまた驚いた顔をしている。この前の驚き方とは違うようだ。俺が久しぶりに来たからか。いや、久しぶりと言っても、来なかったのは昨日と一昨日だけだぜ。大袈裟な。

 いつもの料理を取って、テーブルへ行こうとしたら、そのコックが声をかけてきた。何だ、その中途半端な表情は。いつもなら、どこの国の人種だか解らないようなエキセントリックな顔を楽しんでるのに。

「アーティー、その、何です、以前と味が変わりましたかね?」

「今日の料理はまだ食べてないが」

「そうじゃなくて、今週の火曜か水曜のことですよ。あなたがいつもと同じ時間に来なくなって……」

「自宅で用があっただけだよ。気にしないでくれ」

「本当に?」

 まさか、味が気に入らなくて来なくなったとでも思ったのか。しかし、今日は前と同じ時間に来てるじゃないか。いや、屋内練習場に寝泊まりしてたときより、7分くらい遅くなったな。

 あくまで疑り深いので、ちょっと待ってろと言って、料理を一口ずつ食す。スクランブルド・エッグ、以前と同じ。チキン・マリネのサラダ、以前と同じ。バゲット・スライス、以前と同じ。フルーツ、以前と同じ。オレンジ・ジュース、以前と同じ。

 だいたい、俺は味覚がさほど鋭敏でもないんだから、味が多少変わったって判るわけがない。このスクランブル・エッグなんて、マギーが作ってくれたのと何が違うんだと思うほどだ。

 特に気になることはないし、これからはこの時間に食べに来るつもりだと告げると、コックがほっとした顔をしている。大袈裟な。

「そうそう、アーティー、その、何です、あなた、ラムは好きですかね」

「俺は何でも食べるよ。ここにラム料理なんてあったっけ。ラムズ戦の前には出るって聞いたような気がするけど」

 今シーズンは第5週にラムズとアウェイで対戦しているはずだが、俺はまだここにいなかったんだ。

「その時に作って好評だった料理をアレンジしてみたんですよ。試してもらえますかね。いや、夕食に出すような重いのじゃない。朝でも昼でも食べられる軽いのです。ラムはビタミンヴァイタミンB6が効率よく摂取できるらしくて、代謝にもいいと……」

 能書きはいいから持って来てくれと頼む。本来なら俺も栄養素を細かく気にして食事するべきなのだろう。そうすれば40歳になってもQBクォーターバックとしてプレイできる……こともあるらしい。トム・“GOATグレイテスト・オヴ・オール・タイム”・ブレイディがそうだった。しかし、どうせ俺の契約は今シーズンで打ちきりだろうから、そんなに先のことを考える必要もない。

 厨房へ飛んで行ったコックが、料理の小皿を持って戻って来た。ラムの薄切りを軽くボイルして油を落とし、冷やして、野菜――ミズナというそうだ――を添えて、バルサミコ酢をベースにしたドレッシングをかけてある。サラダ風だな。

 一口摘まむ。コックが凝視している。そんなに見るな、味が変わる。

「どうです?」

 それほど緊張して訊くようなことかよ。

「昼に、大鍋ごとグラウンドに届けてくれるかい? 他の連中にも勧めてやりたい」

「気に入ってくれたんで?」

「毎日作るのは大変か?」

「もちろん、毎日作りますよ!」

 コックはエキセントリックな顔を歓喜に歪めて厨房へ戻っていった。あんな喜び顔もあるんだと感心する。

 HCヘッドコーチのジョーが来た。彼がここへ来るのは、俺に用があるときだよな。

「よう、ジョー。ここのコックが作った新メニューの、ラムの……湯通しパーボイルドサラダ風を食べてみろよ」

 あのコック、料理名を教えてくれなかった。これから何て呼べばいいんだ。「ラムのあれギズモ」か?

「アーティー、パントの練習はどうだ」

 俺の言うことを無視して向かい側にジョーが座ったので、ラム肉を一切れフォークで突き刺し、奴の皿の上に置いてやった。

「トリック・プレイのこと? 1ダースくらいは練習したかな。スペシャル・チーム・コーチのアルバレス親方マスター・アルバレスに聞いてくれよ」

 “アルバレス親方マスター・アルバレス”は御年86歳のNFL最年長コーチで、カレッジとプロを通じてスペシャル・チームに携わること65年。まさに導師グールーだ。コーチ生活50周年と60周年にはNFLの公式動画で紹介されたこともある。あのレジェンドキッカーアダム・ヴィナティエリの現役時代のプレイを“NFLコーチとして”見たことがあるのは彼しかいない。

「アントニオに何を教わったかじゃない、お前ができるようになったかを訊きたいんだ。それにJ・Cとケヴィン」

 そして皆が陰で親方マスターと呼ぶコーチを、アントニオとファースト・ネームで呼ぶのなんて、さすがHCヘッドコーチ。彼の半分の歳にもならないくせに。

「そうだな。明日のゲームで、第4クォーター開始直後、10点ビハインド、自陣35ヤードから4thフォース10テンという状況で、俺が確実に決められそうなトリック・プレイが半ダース。フェイク・スナップでJ・Cとケヴィンがやれそうなプレイが三つずつ。ケイデンスで使うコード・ネームをそれぞれに付けてあるんで、相手の隊形を見てからでもプレイを変えられる」

「ケイデンス? 明日はホームだからオーディブルが使えるが、敵地アウェイでもできるようにしておいてくれ」

「そうだった。じゃあ、スナップ前の準備運動に見せかけたシグナルを考えておくよ。ただし練習は明後日から」

「それでいい。それから明日は、前半ファースト・ハーフでダニーの調子がよくなかったら、後半セカンド・ハーフはお前を使う」

「調子がよくない、を具体的に定義してくれるか。明日はRPOラン・パス・オプションをベースにするんだろう? キーを読み違えてるのが10プレイ中何回あったら、とか」

 RPOラン・パス・オプションスナップ前の読みプレ・スナップ・リードでキーとなる守備ディフェンシヴプレイヤーを一人見極め、RBランニングバックにハンドオフをする際、キーがランに反応すれば渡すのをやめてパスを投げ、パス・カヴァーに行けばRBランニングバックに走らせる、という選択オプションをする。

 当然のことながら、キーを読み違えれば――あるいはその動きがちゃんと見えていなければ――ランにしろパスにしろ進まないということになる。

「プレイの合い間にサイド・ラインで調子を訊く。お前も一緒に聞いていてくれ」

「あいつ、正直に言うかな。タブレットでリプレイを見る方が正確なんじゃないのか」

「本当のことを言っているのか聞き分けるのが、コーチと控えQBクォーターバックの役割だろう」

「解った。ただし、替えるときはハーフ・タイムにロッカー・ルームで攻撃オフェンシヴチーム全員に対して発表してくれよ。ジョー、あんたか、攻撃オフェンシヴコーディネイターが」

「もちろんそうする」

「ラム、食えよ」

 俺が勝手に置いたからか、ジョーの皿の上のラム肉がほったらかされている。ジョーは目を細めて肉を睨み、フォークで突き刺して無造作に口に入れた。

 もぐもぐとやっているが、表情は特に変わらない。しかし、いきなり俺の方へ手を伸ばしてきたかと思うと、小皿の上の肉を二つ三つ、フォークでかっさらっていった。気に入ったらしい。

「昼食の分は俺が全部もらうことになってるから」

「グラウンドへ持って行かせるのか。こっちにも半分残すように言っておいてくれ」

「あんたもたまにはグラウンドで食べなよ」

「外で食べるのは好かんね。それに今日は昼前から雨だ」

「ほんとに?」

 朝、出てきたときはいい天気だったんだけど。


 9時。いつもどおりマギーのオフィスへ。今日の彼女は平常だろうか。開けっぱなしの部屋の前に立つと、デスクからマギーがこちらを見ている。ドアにノックを二つ。

おはようございますグッド・モーニング、ミスター・ナイト」

おはようモーニン、マギー。噂で聞いたんだけど、明日からの休みはカルフォルニアへ行くんだって?」

「はい、親戚に急用で呼ばれましたので」

 噂も何も、俺とベスが夜中に考えた、スパイの依頼者あぶり出し作戦の一環だ。マギーにとっては慣れない一人旅だろうが、何とか頑張ってもらわなければならない。

「そうか。何か不幸でもあった?」

「いえ、そういうわけではありません」

「先走って申し訳なかった。嫌なことが起こらないことを祈るよ」

「私もそうあって欲しいと思います」

「明日はホーム・ゲームなのに、スタジアムで観戦してもらえなくて残念だ」

「はい、私も残念です。ですが、向こうでライヴ中継を必ず見ますので」

「君がどこかで見ていれば、俺にはそれが伝わると思うので、せいぜい頑張るよ。とは言っても、出番はパントしかないかもしれないけど」

QBクォーターバックとしても出番があることをお祈りします」

 残念ながらその判断をするのは俺じゃないんだな。ただ、出るとしたら接戦で逆転しなければならないときか、ボロ負けのときか、どっちかだろう。いずれにしろ負けている展開しかないはず。

 まあ、それはさておき。マギーのデスクのところへ行って、指令が書かれた紙を無言で置く。カリフォルニアでの要訪問先。の関係者の名前と居場所だ。思い出すのに一晩かかってしまった。

 メールやメッセージで伝えないのは、もちろん証拠を残さないため。口頭で言わないのは、もちろん盗聴を回避するため。「訪問後、焼却すべし」という指示も書いてある。まさにスパイ並み。

 マギーが紙に目を落として、無言で頷く。その後、上目遣いに見つめてくるが、早くも緊張した面持ちだ。出発は明日の朝なのに。

土産スーヴェニールに買う物は何がいいか、ベスに訊くといいよ。チア・リーダーのエリザベス・チャンドラー」

「はい、彼女にはリストを作ってもらいました」

 ベスの方も、要訪問先をマギーに伝えている。どういう順番で回るかは、今夜二人で相談すればいいだろう。

「ところで、君が明日スタジアムへ行かない分、チケットが余ると思うんだけど」

「はい、余ります。ですが、職員用のチケットですので、あなたのご友人へ回すわけには……」

 察しがいいな。そうしようと思ってたんだよ。

「でも、今までにチームからの招待チケットを渡した相手なら回せる、という特例があったんじゃなかったっけ」

「ありますが……」

「キッズ・イヴェントも対象範囲内だよな」

「はい」

誕生日訪問バースデイ・ヴィジットの当選者も」

「はい。……では、ミス・ジェシー・スティーヴンスへの移譲手続きを取っておきます」

「君は話が早くて助かる」

「ですが、入れるのは彼女一人だけで、彼女の両親は入れません。彼女は一人で来るでしょうか?」

「断られたら教えてくれ。たぶん、断らないだろう」

「了解しました」

 いつもはマギーが見てくれているから逆転カムバックできるんだが、彼女がいないのでは心許ない。だがジェシーならきっと、マギーの代わりに“勝利の女神”になってくれるだろう。

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