ステージ#15:第4日

#15:第4日 (1) それぞれの通信

  第4日-2039年8月17日(水)


【By 主人公】

 バーから帰り、アネータにはもう寝ると言って部屋へ戻った。シャワーを浴びて、メグに電話した後、日付が変わってから抜け出してきた。明日の朝、6時に起きられるか自信がない。

「ヘイ、ビッティー」

「ステージを中断します。裁定者アービターがアーティー・ナイトに応答中です」

 アールパード橋の、マルギット島の上。裁定者アービターのアヴァターと化したメグの姿を見るのは楽しい。表情が冷たいので「早く寝なさい」と怒られそうな気がする。でも、本物のメグなら、俺が寝たふりをしながら彼女にいたずらしても、笑顔で許してくれる。

「惑星物理学について教えてくれ。俺の記憶では、地球物理学をより一般化したもの、あるいは地球と他惑星の比較を論じるもののはずなんだが、それで合っているか」

「そのとおりです」

「俺がネーメト・ユーノと話した内容は、記録にあるよな? 彼女は何について話したんだっけ。大まかでいいからまとめられるか」

「惑星における重力の分析、電気・磁場・電磁波の測定、大気・海・マントルの流動、地質の組成と形成が主な話題でした」

「地球物理学として何か抜けている気がするが」

「辞書的な比較では、地震についての言及が少なかったようです」

 そうか、ヨーロッパは南部のイタリア、ギリシャ、トルコ辺り以外はほとんど地震がないから。合衆国も西海岸以外ではまず発生しないけどな。それはさておき、ターゲットの“西風の神”と関係するのは? もちろん、大気の流動、いわゆる大気循環だ。

「中緯度地帯は偏西風ウェスタリーズが吹くんだったか。大気循環に名前が付いていたように思うが」

「フェレル循環です」

 そうか、一つ聞けば他も思い出す。低緯度がハドレー循環で、高緯度がポーラー循環。いや、これってターゲットに関係してるのかな。よく解らん。しかし、西風は地球物理学と無縁ではないということだけは確かだ。そういう話をして、ユーノが喜ぶかどうか。

 もし彼女がキー・パーソンだとしたら、明日以降にもどこかで会う必要があると思うが、アカデミーに籠もって象牙の塔みたいな研究生活をしてるはずだから、そこへ行くしかないんだよな。連れ出すのは至難の業だろう。

 何か作戦と立てるとして、いつにする? 明日――もう今日だが――は大学へ行かなきゃならないのに。

「エトヴェシュ・ロラーンド大学について教えてくれ」

 本当は調べてるはずだし、忘れててもアネータに教えてもらうべきだと思うが。

「1635年、大司教で神学者のパーズマーニ・ペーテルにより創設されました。当初はナジソンバト、現在のスロヴァキア共和国トルナヴァにあり、イエズス会系大学でした。芸術学部と神学部が置かれ、後に法学部と医学部が追加されました。1777年にマリア・テレジアの援助によりブダ王宮に移され、ペスト王立大学となり、1784年に現在地に移転しました。1873年にブダペスト大学に名称変更、1921年に創設者にちなんだパーズマーニ・ペーテル大学に名称変更。1949年に理学部が置かれ、翌年、物理学者のエトヴェシュ・ロラーンドにちなんで現在の名称となりました」

「エトヴェシュ・ロラーンドの業績は?」

「主に重力と表面張力に関する研究で知られます。重力質量と慣性質量の等価性を示したエトヴェシュの実験、見かけの重力加速度が静止時と異なる現象を表すエトヴェシュ効果、浮力と表面張力の比を表すエトヴェシュ数などに名を残しています」

 西風とは関係なさそうだな。大学の有名な卒業生を挙げてもらうのも……いや待て、何か頭に引っかかった。昨日は思い付かなかったことだが。

「ビッティー、ずっと前の、ドイツ……みたいな国のステージで、ハンガリー人の競争者コンテスタントがいたな。彼が最後に名乗った名前を憶えているか」

「記憶の補助については、口答で指示された事項のみ記録されます」

 マルーシャみたいに憶えさせないといけないのか。

「じゃあ、ゲートからバックステージに入るときに交わした会話を再生できるか」

「アクションの再現は必要でしょうか?」

 そんなことができるのか。もしかしてここにホログラフィーで再現されるとか?

「不要だ。音声だけでいい」

「再生します」

『ヘイ、ジョン! 君はたった一つだけ俺に嘘をついたな』

『何のことです?』

『名前のことだ。ジョン・ハーレイ、つまりハーリ・ヤーノシュってのはハンガリーの伝説的ほら吹きの名前だろ。本当の名前は何ていうんだ?』

『ハルシャーニ・ヤーノシュ』

『それもどこかで聞いたことがある名前だなあ。本当なのか?』

「以上です」

 懐かしい。とはいえ、そんなに前じゃない。たかだか10週間ほど前だし。

「ハルシャーニ・ヤーノシュというのはハンガリーの医学者か」

「数学者で経済学者です。ゲーム理論の研究と経済学への応用により、1994年の“経済科学におけるノーベル記念賞”を受賞しました」

 経済学! 俺の一番嫌っている学問だな。マーシアンは気付いていたのか、それとも単に有名なゲーム理論家セオリストの名前を出しただけか。

「エトヴェシュ・ロラーンドの卒業生?」

「はい」

 ここで急に思い付いたのもきっと何かの予兆だ。憶えておくか。

「今夜は終わりにしようか。ビッティー、君は別れ際に『愛してるアイ・ラヴ・ユー』とか『夢で会おうシー・ユー・イン・マイ・ドリームズ』と言えるかい」

「指示があれば言います」

「今は言わなくていい。おやすみ、ビッティー」

「ステージを再開します。おやすみなさい、アーティー」

 夢でビッティーに会えないのはなぜだろうか。



【By オペラ歌手シンガー

 マルギット橋の上。競争者コンクルサンティの二人が会っている。彼らは警告を受けていないようだ。ようやく名前を知ることができた。ビアンカ・ミノーラとクリストフ・ラインハルト。

 ビアンカ・ミノーラはおそらくステージ・ネームだろう。シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』から取ったのかもしれない。本名は不明。クリストフ・ラインハルトは本名かどうか判らない。それでも構わない。一度は対面して、話さなければならない。

 いつものように、記号化しよう。ビアンカはB、クリストフはC。ジゼルはどうしようか。可愛いジゼル。その名前は好きだし、彼女も好きだから、記号化はしないでおこう。

 会談は終わった。Cが横断歩道を渡ってくる。私も歩き出す。彼は真ん中を歩く。私は左端を歩く。可能な限り離れたのに、すれ違うときにビリビリとした殺気が伝わってきた。きっとわざとだろう。私に対して、敵意を示すために。あるいは二度目の挨拶の代わりに。

 渡りきると、Bがいた。街灯の下、スポット・ライトを浴びるようにして。裁定者アービターとの通信は、まだだろう。近くに私がいたら、同じバックステージに入ってしまうから。私が橋の反対側にいたことに気付いているだろうし、近付いてきたことにも気付いただろう。私に向かって、貴婦人の礼レヴェランスをして見せた。

 長い金髪を横分けにして、額を出している。目はアーモンド型で、色はヘーゼル。顔の輪郭はふっくらとしていて、あどけなさを残す。が好みそうだ。身長は私より10センチメートルは低いだろう。バレリーナにしては胸が大きいが、それより下はスレンダーだ。

 すれ違うとき、Bが何か言いたそうな目をしたが、言葉は交わさず、彼女は立ち止まったまま、私は島へ坂を下りる。坂の真ん中、50メートルほど進んだところで振り返ったら、街灯の下に彼女の姿はなかった。

 下の広場へ行って、共有自転車に乗る。橋の反対側までは、2.5キロメートル。歩いて行ったら、通信の時間帯を過ぎてしまう。誰もいない公園内の道を――いや、時々人の気配はあった。見えないところにいる――走って、島の北側へ。アールパード橋への階段を上がり、道路を渡る。車は通っていなかった。

 胸の中に提げたペンダント時計に向かって、裁定者アービターを呼び出す。

ステージエタップを中断します。裁定者アービターがハンナ・イヴァンチェンコに応答中です」

 天から男の冷たい声が降ってくる。暗闇の中にスポット・ライト。木の床と、ディレクターズ・チェア。その他には何もない。裁定者アービターに訊きたいことも、ほとんどない。

「第1区警察署のフロア・プランは表示できる?」

「公開されていません」

 もちろん、そうだろう。仮想世界としては再現されていても、個人が参照できないものは知ることができない。迷宮ラビリントゥスの地図なら出してくれるだろう。

「女神フローラについて教えて」

「フローラはローマ神話の豊穣の女神の一人で、花と春の季節の女神です。元はギリシャ神話の精霊ニンフクローリスであり、西風の神ゼピュロスによってイタリアに連れて来られ、女神になったとされます」

「フローラを描いた絵がいくつかあるけれど、表示できるかしら」

「画家とタイトルが特定できれば表示します」

「では、ティツィアーノの『フローラ』」

 スポット・ライトが消え、暗闇の中に絵が浮かび上がった。濃いブロンドの澄ました女性が、首を傾げた姿。右手に花とその葉、左手にピンクの上着。シャツの胸元が大きく開いて、豊満な胸を晒している。高級娼婦クルチザンヌを描いたものとされるが、女神のように優しげで美しい。確か、ウフィツィ美術館で見たのだった。

「レンブラントの『フローラ』」

「同名の作が何枚かあります」

 そうだったろうか。

「エルミタージュ美術館所蔵のものを」

 彼の妻サスキアをモデルに描いたもののはず。髪にたくさんの花を飾り、衣装は女神らしくなく、牧歌的で、羊飼いのものだったろうか。表情としては、はっきりしない。

「アレクサンドル・ロスラン」

 大樹の根元に座る、金髪で巻き毛の女神。やはり髪に花をたくさん飾り、胸を露出している。身体の周りにもたくさんの花。表情は柔らかい笑顔。どこで見たのだったろう、ボルドーだろうか。

「フェルディナント・ケラー」

 黒い帽子を被り、長い髪を風になびかせ、摘んだ花を入れた籠を持って森を歩いている。笑顔はなく、フローラとしては凜々しい表情。

「消して」

 絵が消えて、スポット・ライトが戻って来た。どのフローラも、私とはイメージが違っている。画家は私のどこにフローラを、春と花の女神を見出したのだろう。

 もし画家が、私より前にBと出会っていたら? あるいはそこに、彼の中のフローラを見出したかもしれない。心に迷いを持つ者が、光の中に女神の幻想を見つけたのだ。そしてそれ以外のものが見えなくなる。あるいは目に入らないよう、退けたかもしれない。

 きっと、ほんの僅かな時間差だったろう。だが、その差はもうなくなろうとしている。Bは画家の心の中に侵入してしまっただろう。

切断ヴィドクルチティ

ステージエタップを再開します」

 幕が上がって、風が吹いた。ドナウの水の匂いを運ぶ、夏の夜の風。

 ジゼルはもう眠っただろうか。可愛いジゼル。

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